ハートの在り処

違う。違うんだ、こんなはずじゃない。全然こんなはずなんかなかったんだ。これがもし漫画やアニメの世界なんだったとしたら、恐らく背景はどんより暗い影が浮かんでいて、ズーン、なんて吹き出しや効果音がつくんだろう。テーブルに両肘をつき、文字通り頭を抱えた。


「…何してるの?」
「反省会……」


そんな俺を見て、部屋に入ってきた名前は呆れているような、哀れんでいるような声を出した。不安も混じってたかもしれない。だって未来の旦那が、自分の実家の自分の部屋で1時間以上も篭って唸っているんだから。それに今は旦那というポジションにつけるかどうかすら危うい状況だ。手強い。手強すぎる。本当ならもっと、こう、バシっと、「お義父さん!名前さんと結婚させてください!」ってキリっと背筋伸ばして言うつもりだったんだ。なのにどうしてこうなった。結局、お義母さんと名前が買い物から帰ってくるまでの2時間弱で頂戴したのは結婚の許可ではなく、「モヤシ小僧」という大層貧弱なあだ名だけだった。


「何がいけなかったんだろう…いきなりお義父さん呼びはダメだったかな…」
「いや関係ないでしょ」
「じゃぁ表紙が気に障ったんだ…そりゃそうだよね、」
「もしもーし」
「俺だって自分の娘の旦那になりたいって言ってるやつがあんなチャラけた顔で表紙とか飾ってたらぶっ飛ばしてるもん」
「それはやめて」
「ってことは俺取り返しつかないことしたんじゃ…?」


だって撮ってしまった事実は変えられないし、あの雑誌は既に全国の書店で売りに出されている。本屋なんて一体この世にはいくつ存在していると思う?この辺りにだって軽く3件はある。そこのスポーツ誌が並ぶ棚へ行くたびお義父さんはこの雑誌を殴りつけたくなるに決まってる。俺ならしてる。そして二度とその本屋には行かない。あぁどうしよう、なんか震え止まんなくなってきた。


「…しょうがないな」


名前は一言、そう呟くと部屋を出て行った。階段を下りる音が聞こえなくなり、少ししてまたトントンと優しい足音が近づいてくる。部屋に戻ってきた彼女に名を呼ばれ顔を上げると、鞄を肩にかけ、出かける格好をした名前が立っていた。


「ご飯食べに行こ」
「え、でも、お義母さん作ってるんじゃ、」
「ううん。お義父さんあんなだし、二人で食べて来いって」
「…そっか。なんか、ゴメン」
「それはこっちのセリフ。ほら、早く行こう」


差し出された手を取って立ち上がる。見上げていた顔がすぐ下にきて、思わず腕の中に閉じ込めた。長く息を吐き出すと、よしよし、と言いながら背中をさすってくれた。じっと、行き来する彼女の手の温度を感じること数分。精神的ダメージですっかり空っぽになってしまった元気が充分チャージできたところで体を離し、漸く部屋を出た。行ってらっしゃいと見送ってくれたお義母さんはエプロンをしていて、恐らく本当は晩御飯の準備をしてくれていたんだろうなと思うと申し訳なさが胸をさした。


「こんばんはー」
「おっ、来たね!」
「お久しぶり、です」


そして連れてこられたお店は、名前の実家から歩いて十分くらいのところにある小さな呑み屋だった。お義父さんがここの常連らしく、名前も幼い頃からよく連れてこられたのだと言っていた。高校を卒業して家を離れてからはすっかり行く機会がなくなってしまい、一年に一回、一緒に帰省したときしか訪れることはなかった。今回も来ようとは思っていたけど、それはお義父さんから結婚の許可をもらってからにしようと決めていただけに、どんな顔をしていればいいのかが分からなかった。


「その顔は、苦戦してるねえ、及川くん」
「え、」
「手強いだろ、徹ちゃんは」


店主の北村さんが、腕を組みながらニヤリと笑う。早速バレてしまった。しかしその事が逆に肩の荷を降ろしてくれたようで、「そうなんです」と堂々とため息交じりに答えることができた。


「ま、まずは飲みなさいや」
「ありがとうございます」
「いただきまーす」


これはサービスね、と、北村さんの奥さんが枝豆とジョッキのビールを持ってきてくれた。名前のジョッキと軽くぶつけてから口へ運ぶ。ゴクリゴクリと豪快に喉の奥へ流し込んで、料理が出てくるまで枝豆を放り込んで、またビールを飲む。枝豆がなくなるころには、ふわふわの出し巻きだとかから揚げだとかの定番のおつまみがテーブルに並んでいた。飲み物もビールからウーロンハイに変わり、ペースが少し落ち着いてきたときだった。ふいに名前が立ち上がり、店の隅っこにある棚の方へ歩いていく。あそこには週刊誌や漫画なんかが並んでいたはずだ。こちらを振り返り、戻ってきた彼女は数冊、雑誌を抱えていた。席につき、はい、とそれらが全部差し出された。読めということか。視線を名前から、彼女の手元にうつす。


「……ちょ、これ、?」
「向こうの棚にね、もっとあるの。たぶん、今までの全部」
「徹ちゃんが持ってきたやつだよ」


渡された雑誌は、まさに今日、目の前でバシバシと平手うちにあっていた自分が表紙のバレーボール雑誌だ。二冊目、三冊目にはいたるところに付箋が貼ってある。恐る恐るそのページを開けば、そこには俺のことが書かれている記事だったり、インタビューだったり、所属するチームに関することが書かれていたりするページだった。嘘だろ、まさか、そんな。信じられないことに胸はざわつきながらも、体温は上昇していくばかりだ。


「その、及川くんが表紙の雑誌出たときなんか、すごくはしゃいでたのよ」
「そうそう。俺の息子になるんだぞ、って」


北村さん夫婦が、カウンターの奥でそう言って笑った。それから二人は色んなことを教えてくれた。野球しかみなかったのに、いつからかバレーの試合があるときは必ずここへきて、ここのテレビで観ていたということ。カウンター奥のテーブルがすこし凹んでいるのは、サーブをミスした俺に向かってヤジを飛ばしたお客さんに食ってかかって、喧嘩になった時にぶつかったからだということ。お義父さんが腰を痛めたのはゴルフでなんかじゃなくて、その喧嘩が原因だっていうこと。それから、俺と名前のことを話すとき、とても幸せそうな顔をしている、ということ。言葉が出なかった。グラスの取っ手を握る手にはどんどん力が入っていって、動くことすらできなかった。人は本当に感動したとき、どうしていいか分からなくなるものなんだなということを、今、全身で感じていた。


「あんなだけどね、お父さん、徹のこと大好きなんだよ」


だから嫌いにならないであげてね、と名前が笑う。嫌いになんかなるわけがないじゃないか。こんなに、こんなに想ってくれている人のことを、どうして嫌いになれようか。でもそれを口にしたら、目の奥にこみ上げてきてるものが溢れてしまいそうだから、唾を飲み込んでぎこちなく「ウン」と返すのが精一杯だった。彼女は嬉しそうにまた笑って、ありがとう、と口にする。それは俺のセリフだよ、馬鹿。今日、ここに連れてきてくれてありがとう。


「名前、帰ろう」
「あ、先にお母さんに電話してくる」
「分かった。じゃぁ会計してくから、外で待ってて」
「うん」


それじゃあ、と北村さんたちに頭を下げ、店の外へ出て行く。それを見届けてから立ち上がり、伝票を北村さんに手渡した。


「あの、本当にありがとうございます。話聞けてよかったです」
「いやいや、俺らもずっと教えてやりたかったからね。ウズウズしてたんだよ」
「いい返事もらったら、また来ます」
「期待してるよ」


バシバシと肩を叩きながら北村さんが豪快に笑う。その横で、奥さんがじっと俺を見ていた。それから、及川君、と小さく名前を呼んだ。


「あぁやって言ってるけどね、名前ちゃんも結構悩んでいたときあったのよ」
「名前が、ですか?」
「そう。先月だったかしら、一人でここへ来てね。お父さんが分かってくれない、って泣いてたもの」


そう言えば、二日間ほど友達と泊りがけで出かけてくると言っていた日があった。あれはそういうことだったのか。先月は俺が名前にプロポーズした月だ。


「ほら、スポーツ選手ってやっぱり特殊でしょう?心配してのことなんでしょうけど、徹ちゃんも口が上手くないから。ちゃんとした奴と結婚しろってつい言っちゃったみたいでね、それがすごく気に入らなかったんですって」


それから彼女は奥さんになだめられ、北村さんはお義父さんに電話して迎えに来るよう言ったらしい。結局、店に来たお義父さんと名前は再び言い合いになって、後からきたお義母さんが一喝し二人を連れて帰ったのだそうだ。店にバレーボール雑誌が持ち込まれ、棚に収められるようになったのは、それから一週間ほどがたった頃かららしい。


「分かってもらえたみたいね、よかったねって、この人と話してたのよ」
「そんなこともあったんですね…」
「そうなの。名前ちゃんもあなたのことが本当に大好きなのよね」


「だから結婚するのだものね、当たり前よね」と、奥さんは俺より照れながら言っていた。気がついたら「俺も、めちゃくちゃ好きですよ」なんて返していて、一体なにがなんだかよく分からなくなっていた。ただ、酔っ払っているわけではないのは確かだ。言うじゃねぇかと北村さんに背中を叩かれて、代金は結婚祝いだと言って受け取ってもらえなかった。店をでるときもう一回叩かれて、「がんばってこいよ」なんて言われたもんだから、いよいよ本気で泣きそうになった。こんなにも優しさに溢れた時間は初めてだった。


「名前、」
「ん?」
「ちょっとおいで」


歩き出そうとする彼女を呼び止めて、振り返った体を抱きしめた。この感謝と愛はどうしたら伝えられるだろうか。口にするにはあまりに大きすぎて、しっくりくる言葉が見つからないんだ。お前がいてくれてよかった。一緒に歩いてきてくれて、よかった。これから先、一生を共に過ごすことを受け入れてくれて、本当によかった。お前に会って、お前に恋をしたことが、俺の人生至上最高に幸せなことだって思うんだよ。


「徹、帰ろ」
「うん」


しっかり手を繋いで、夜道を歩く。家の玄関の明かりはついていて、外で何故かお義父さんが庭の雑草をむしっていた。こちらを一瞥し、背を向けたまま立ち上がる。今朝は脅威に思えたその姿も、今では優しく温かな、もう一人の「父」の背に見えた。


「結構、飲んだのか」
「ううん、そんなには」
「そうか」
「うん」
「……おいモヤシ」
「はい」
「…長くはならん。一杯付き合え」
「っ、勿論です」