Aから始まる

そろそろ飽きたな。教科書へ向けていた顔をあげて時計を見やる。ここへ来てからもう2時間が経っていた。勉強嫌いな俺にしては保った方だ。シャーペンの後ろを親指で押し、先をノートにつけて芯を引っこめた。それでも止まないカリカリと何かを書き込む音は、目の前の彼女が一生懸命問題を解いているからだ。このテーブルで真面目にやってるのはこの子くらいで、他のやつらは本を読んでいたり雑談に勤しんでいたり、およそテスト前とは思えないほどの寛ぎようである。集中が切れた俺もその仲間入りを果たし、ただひたすら彼女を見つめるという作業に没頭する。伏せられた目の睫毛が長い。さすが女子。あとこいつは色が白い。すごく。透き通るような、って表現を残した人間はきっと、こういう肌を見てそう思ったんだろうな。納得。



「どしたの?」
「いや、別に。ちょっと休憩」
「ふぅん」



ふと、俺の視線に気づいた名字がこちらを見上げた。小さな口が動いて、それにばかり気が奪われる。再び閉じられた唇は血色がよくて柔らかそうだといつも思う。残念ながらそこにはまだ触れたことはないけれど。それでも、長かった片思いの時間を思えば、こうして一緒に勉強をして、一緒に帰ったり登校したりするのが当たり前の仲になれたということ自体が奇跡のようで、それだけで今も充分すぎるほど満たされている。俺って結構純情だったらしい。ってこの前部活の時に言ったら花巻には鼻で笑われたし、岩泉には「寝言は寝て言え」って及川に言うようなこと言われたし、「まっつんそれギャグ?面白くない」って及川に言われてクソ腹立った。あ、思い出したらまたムカついてきた。携帯を取り出し、グループに一言、「及川むかつく」とだけ投下する。その数秒後に既読が3つ付き、少し離れたテーブルで噴き出す声が聞こえた。なんだよ、お前らもいたのかよ。



「ふー、疲れた」
「お疲れさん」
「松川はもうキリいいの?」
「んー、うん。まぁ、そんな感じ」
「お昼食べに行く?」
「そうするか」



さっさと勉強道具を鞄に詰め込み、席を立つ。図書室をでてすぐに及川から「さっきの何?ってかデートしてないで勉強しなよ!」と返信が来た。うるせぇと心の中で返事をして携帯をポケットに突っ込んで、名字の歩調に合わせて廊下を歩いた。



「休みの日の図書室があんなうるさいなんて知らなかった」
「あ、そう?大体あんな感じだよ、いつも」
「松川は行ったことあったんだ?」
「バレー部のやつらと勉強してたからね」



学校近くのファストフード店で昼食をとりながら、彼女は少し不服そうな顔でそんな話をし始めた。どうやら平日の図書室の雰囲気を想像していたらしい。全然集中できなかったと嘆く彼女は、すっかり学校へ戻る気力をなくしてしまったようだ。とはいえテストは週明けには始まる。中身のなくなったドリンクのカップをズズ、と鳴らし、名字が唸っ
ていた。



「あー、じゃぁさ」
「うん?」
「俺んち来る?」
「…えっ」
「今日親もねーちゃんもいねぇから、図書室より静かに勉強できると思うけど」
「あ、ウン…じゃ、じゃぁ、それ、で」



かなりギコちない返事だったが、まぁいきなり彼氏にそんなこと言われりゃびっくりもするよなと大して気にしなかった。むしろ「えー、そうするー、行きたーい」なんて軽く返事をされたらそっちの方が色々と心配になる。俺だって百戦錬磨なわけじゃない、多少緊張はしているけれど、それはあくまで好きなやつと二人きりになれるということにであって、何を間違っても手なんか出すつもりはない。そう、何もするつもりはないんだ。なのに、名字は「初心だから」なんて説明じゃ納得できないほどの挙動不審ぶりだ。注文したハンバーガーもポテトも半分以上残っているのに手をつけないし、空っぽのドリンクばかり吸いあげているし、目線はあっちこっち彷徨っている。



「もう食わないの?」
「え、あ、あぁ、食わない、よ!?食べる?!」
「いや、てか、それで腹いっぱいになってんの?」
「なってる!!」



声裏返ってるけど、大丈夫?とは聞かなかった。とりあえず大丈夫ならさっさと出て、少しでも勉強の時間を確保しようと早々にトレーをもって紙くずをゴミ箱に入れた。後ろからついてきた名字のトレーを受け取ろうと手を伸ばすも、自分で出来ます!と謎に敬語で返されてしまった。どうしたって言うんだ、一体。今までも恥ずかしがるようなことはあったけれど、こんなんじゃなかった。これじゃぁ照れているというより、怯えに近い。でもだからって「何もしないから」なんて言ったところで何の慰めにもなりゃしない。絶対嘘だろって思うに決まってるし。じゃぁどうする。今度は俺が唸る番だった。隣を歩く名字は離れようとするでもなくちゃんと並んでくれているけれど、表情はガチガチだ。どうしたもんか、と息を吐いた時、あの角に差し掛かった。初めて一緒に帰った日、別れた場所だ。ノートをわざと返さないでいて、それを届けるって口実を作って彼女の後を追った。少し先で、見知らぬ男に後ろから抱きしめられ、もがいている名字がいた。泣きながら俺の名を呼んで、それを見た瞬間に、彼女と彼の関係がどうであれ助けなくてはと思ったんだ。懐かしい。すごく遠い昔の話のようだけれど、先月の出来事だ。そこで彼女が抱えていたものを初めて知って、それで、



「…あ」
「ど、どうした、の?」



恐る恐る視線を向けてくる彼女を見下ろす。そりゃ怯えるはずだ。初めてできた恋人と、ロクに互いを知る前に家に連れられ求められ、そうして迎えた結果がアレだ。俺のことを信じていないわけではないのだと思う。けれど実際に体験したことで植え付けられた恐怖はそう簡単に払拭できるものではない。本能的に「キケン」だということを全身で感じているんだろう。その中できっと彼女は闘っている。俺はそんなことするやつではないと、気持ちでなんとか恐怖に打ち勝とうとしているのだ。なんでもっと早くに分かってやれなかったのかと申し訳なさが募る。それと同時に、やっぱりあの時アイツのこと殴っときゃ良かったとも切実に思う。今度会ったらただじゃおけないから遭遇しないことだけを祈ろう。



「よし、オッケー、戻ろう」
「ま、つかわ?」
「そんで市の図書館いこう。あそこなら自習室あるし」



な、と背を屈め視線を合わせてから頭を撫でた。ビクリと肩を震わせたのにはほんの少しだけチクリとしたが、俺がそうさせたんだから仕方ない。踵を返して歩き出す。二歩目を踏み出したところで、制服を引っ張られた。



「い、いい、松川の家、で」



顔を真っ赤にして、今にも泣きそうになりながらそんなことを言う。彼女の中ではもういろんなことがギリギリで、いっぱいいっぱいなんだろう。表情からそれが伺える。鼻から吸った息を口から吐き出してから、彼女に向き直った。不安で塗りつぶされた瞳が揺れている。



「バカだねー、お前」
「ひどい…」
「そんなに恐がってるやつ、家に連れてけるわけないでしょ」



軽くなりすぎず、かつ重くなりすぎない言葉をチョイスしたはずだったけれど、名字は目に見えて落ち込んでいた。この世の終わりみたいな顔をして、肩にかかっていたスクールバッグがずるりと地面に落ちる。慌てて拾ってやると、小さな小さな声で、「ごめん」と呟いた。



「ごめん、面倒くさくて…」
「そんなん思わないよ。俺が無神経だったな」
「そ、そんなんじゃない!」



突然の大声に面食らった。泣きそうなのには変わらないが、両手を強く握りしめ、今にも殴りかかってくるのではと思わずにいられない程の気迫を感じる。こいつは落ち込んだり凄んでみたり忙しい奴だな。来るなら来い、と身構えてみると、「あ、あたし、あたしだって、触れてほしいって、思ってる!!」と想像だにしない方法で攻撃を食らった。これは実際に殴られるよりも効く。しかし彼女の猛攻は止まらず、「キスだってしたいって思うし、もっと、もっと松川と近づきたいって思ってる、し!」なんて、言葉の暴力もいいところだ。頼むからもうやめてくれ。両手を挙げて降参のポーズをとった。



「分かった。分かったからとにかく落ち着け」
「だ、だって、まつかわ、あたし、」



面白いほどにテンパっている名字の両肩をつかみ、落ち着け、と繰り返す。深呼吸の手ほどきなんて小学校以来だ。吸ってー、吐いてー。こくこくと頷きながら、俺の呼吸に合わせて空気を吸い込んだり吐き出したりする名字の顔から赤みが薄れていく。もう大丈夫な、と問うと、ゆっくりしっかり、一度だけ首を縦に振った。



「無理しなくていいって。ゆっくりでいいから」
「うぅ…」
「返事」
「…はい」
「ん」



笑顔は見せてくれないけれど、目からは不安も恐怖も消え去っていた。そう、ゆっくりでいい。たっぷり時間をかけて、俺がどんなにお前のことを大切に思っているか、好きでいるかを分からせてあげるから。だからまずは、さ。目の前で浮かない顔をして俯く彼女に、手を差し出した。



「手、繋ぐとこから、始めませんか」