となり

「おい」
「…もげる。鼻」
「お前が人の話聞いてねぇのが悪い」



結構な力で鼻をつままれた。彼女になんてことすんだこいつ。ほら見ろよ、店員だって苦笑いじゃんか。



「で、何にすんの」
「貴大と同じのでいいよもう」
「あ、そう?じゃぁこの激辛チキ」
「すいません、このBランチセットお願いします」
「かしこまりました、Bランチですね」



口元をひくつかせながら店員が再度注文を口にする。貴大はというと、激辛チキンはやめてCランチセットで、と笑顔で告げていた。考えてみれば貴大だって辛いものはそこまで得意じゃないんだった。この男ほんといい性格していらっしゃる。



「この後どーする」
「んー」
「どっか行きたいとこねーの?」
「…んん」



貴大が何か喋っているのは分かるが、するすると耳を抜けていく。あたしはガラスの向こうを歩く人並みに目を向けて、パスタを食べるでもなく、ただフォークに巻き付けていた。久しぶりのデートで、貴大の貴重な休み。ゆっくりすることもできたはずなのに、こうしてあたしと過ごすことを選んでくれている彼に対して随分な態度だということも理解している。出かけることが決まった日はあんなに嬉しかったのに、今日が近づくにつれて心が重くなっていくのに気づいていた。そうして迎えた今朝、鏡の前で作ってみた笑顔はとても下手くそで、ズシンと胸の奥に重しが加えられた気分になったのだった。



「ちょっと、トイレ」
「おー」



勢いよく立ち上がり、足早に店の奥のトイレへ向かう。鍵をしめ、大きく広い鏡に映る自分を睨み付けた。こんなんじゃダメだ。折角の二人の時間を無駄に過ごしてどうする。あたしだけじゃない、貴大まで楽しくない気持ちにさせてしまっては申し訳も立たないじゃないか。あたしが今日することは考え込むことではなくて、一日を楽しむこと。それだけだ。ペチン、と小気味いい音を立てて両頬を軽く叩く。すっかりなめとってしまったリップを塗りなおしてから、トイレを出た。



「お待たせ、行こう!」
「はいはい」



貴大の腕に自分の腕を巻き付けて、いつも以上に近い距離で歩き出す。休日で賑わう駅前を歩くカップルは大体こんな感じで、大して周りからは変な目で見られることなどなかったが、恐らくあたしも貴大も違和感を感じているのは間違いない。手を繋いで歩くことはあっても腕なんか組むことなどなかったし、もっと言えば、手を繋いでいたのは一度別れる前で、再び恋人となってからは触れることはなかった。それが突然くっ付いてきたとあれば何事かと思うに決まっている。しかしこういう時、マズイと思った時点ですでに遅い。後に引けなくなったあたしはどうにかやり過ごそうとギアを上げていくしかなかった。



「ちょい休憩しよ」
「そーだね」
「そこ座ってな。何飲む?」
「任せる」
「りょーかい」



ゲームセンターで散々はしゃいだ後は、ゆっくりと街路樹の下を歩き噴水広場へ向かって歩いていた。その名の通り大きな噴水がそこにあるだけで、あとは木に囲まれて一面緑の空間にいくつかベンチがあるだけの場所だ。あたしはそこに腰を下ろし、飲み物を買ってくると言う彼を見送った。長く深いため息が出る。早い時間に集合したからか、まだまだ陽は高く時間もたっぷり残っていた。ここはきっと、まだたくさん彼といれることを喜ぶところなのだと思う。でも、あたしの本音はそうじゃない。無理して笑っていた所為か、頬がぴくぴくと痙攣のようなものを起こしていた。疲れている。無意識のうちに肩に力が入っていたのか、どっしりと重いような気さえする。上手に笑えない原因も、心から楽しめない原因も、本当は全部分かっているのだ。考えたって仕方のないことだっていうのも分かってはいるけれど。それでも、



「おらっ」
「ぅひ、」



ゴツ、と、額に硬く冷たいものが当たった。気が付けば足元にしゃがんでいる貴大がいて、あたしをジっと見ている。戻ってきているのに全然気づかなかった。額に押し当てられている缶を受け取って礼を言う。彼は短く「うん、」とだけ言い、それから「お前さぁ」と続けた。



「無理してるだろ」
「え、なんで」
「…ま、大体分かるけど」



何が、と強がることはできなかった。缶を両手で持ち、膝の上に乗せる。彼はとっくにお見通しだったのだろう。そうじゃなきゃこうして話す機会など与えてくれないはずだから。感じていた後ろめたさは隠しきるには大きすぎたのだ。一方的に傷つけ、離れてから彼の大事さに気づいて、もう一度やり直しをさせてほしいなどそんなムシの良すぎる話を、貴大はあっさり受け入れてくれた。その時はただ純粋に嬉しかったけれど、日に日に疑問は色を濃くしていく。どうしてそんなあたしを好きでいてくれるのだろうとか、あたしは彼の隣にいていいんだろうかとか。気づきたくないのに、見たくもないのに、そんな気持ちばかりが膨れ上がって自分の中を埋め尽くしていく。結果こうして彼に気を遣わせてしまう始末だ。何をやっているんだろうか。情けない自分に涙が出そうだ。



「……貴大、ご」



謝罪の言葉は最後まで紡がれることなく、彼の唇に奪われた。あたしの両足を挟むように手をついて、下からしっかりと口を押し当ててくる。目を閉じることも忘れて、ついでに息をするのも忘れて、ただ近すぎる貴大の顔を見つめていた。噴水の水がバシャバシャと跳ねる音だけが聞こえる。漸く離れた温もりにホっとして空気を吸えば、彼がいつも使っている制汗剤の香りが鼻の奥に入り込んだ。



「お前はさ、俺のことキライなわけ」
「そんなわけない…!」
「じゃぁ好き?」
「…好き、だけど」
「ならそれでいーだろ。俺はお前が好きだし、お前も俺を好きでいてくれてんなら、一緒にいる理由として充分なんじゃないの」



組んだ腕をあたしの両ひざの上に乗せ、見上げながら言う。同じようなことはなっちゃんにも及川にも言われていた。それでもずっと納得いかなかったのに、どうして貴大に言われるとこんなに安心するんだろう。ここ一か月悩んでいたのが嘘のように軽くなる。あたしがしたことは消えるわけではないし、彼が傷ついたのも本当でそれも変えられないことだと思うけど。今ちゃんと好きで、彼と一緒にいたいと思うのなら、隣にいてもいいんだろうか。瞬きをしたら、雫がひとつ落ちた。



「…ごめんね」
「それこの前屋上で聞いたからもういい」
「そうだけど…」
「今度別れるっつっても分かったなんて言わないから。」




そのつもりで、と最後の一言と共に彼は立ち上がり、今度は背もたれに両手をついてあたしを見下ろす。目を合わせようと顔をあげたら、目尻からこぼれた涙が首まで流れて筋を作った。



「分かったの?」
「うん」



ふわりと優しく微笑んで、心地の良い声音で静かに問いかける。頷けば一層嬉しそうに顔を綻ばせた。



「それじゃぁ、もっかいちゅーしてデート仕切り直しな」



距離が近づくにつれ鼓動の速さも増していく。触れ合う寸前、今度はしっかり目を閉じた。