甘くて甘い

初めてのキスな訳じゃない。最初にしたときのことは今でも覚えてる。ぎこちなくて、一瞬だった。私も研磨も緊張していたのだと思う。しばらくお互いの顔を見れずに俯いていた。けれど、今は、あの時以上に強く胸が高鳴っている。こんな場所で、こんな時に。そのことが原因なのだろう。真っ暗闇のエレベーターはいつ動き出すか分からない。


「…背中、痛くない?」
「うん、へーき」


耳元で小さく呟くから、彼の唇から抜けた空気が耳にかかってくすぐったい。思わず肩を少しだけ上げて身をよじる。それでもお構いなしにそのままキスをしてくる研磨は、結構いじめっ子体質だ。変な声が出てしまわないように唇を噛み締めていると、顔の横から温もりが離れ、額に柔らかな熱が落ちる。彼の髪の毛先が頬を掠めた。額の次は瞼に唇が触れ、鼻の頭を経て再び口へ舞い戻ってくる。合わせるだけの口づけが好きな私を知っているから、研磨は何度もそれを繰り返した。


「これは1時間コースかもね」
「いい、それで」
「さっきまであんなに騒いでたくせに」


冷えた人差し指が唇をなぞる。ゆっくりと行き来するそれを、唇を薄く開き挟んだ。暗闇に慣れた目は、彼が微笑んだのをしっかりと捉えている。あまりに綺麗に笑うものだから、ずくりと体の中が疼いた。


「そういうの、どこで覚えてくるの」
「研磨がそうさせるんでしょ」
「…否定はできないかな」



囁きあうようにして交わす言葉が一層その気にさせる。彼もあたしも本来こんなに大胆な性格じゃなかったはずだ。口に中に差し入れられた指が小さく円を書くようにして動く。それを舌で緩く絡め取ったら、ふ、と楽しそうな笑いの息が漏れたのが聞こえた。思考がどんどんぼんやりとしていく。やらしいね、と彼はあたしに向かって言うけれど、どう考えたってやらしいのは研磨の方だ。その目も声のトーンも指の動きも、ひとつひとつに色香が漂いあたしを麻痺させる。



「今度はちゃんとキスするから、」
「ん」
「今みたいに上手に、ついてきて」



指が離れ、息を吸う間もなく口を覆われた。間髪いれずに差し入れられる舌に必死に自分のを絡め合う。こんなに夢中でキスをしたのは初めてかもしれない。びりびりと甘い痺れが意識を朦朧とさせていく。終わらない口付けに息が苦しくなっているのに、少しでも隙間が開いてしまうと寂しくてまた自分から唇を合わせた。漸く離れたときには二人とも呼吸が荒くなっていて、しばらく酸素を取り込むのに無言になってしまった。



「なんか、すごく気持ちよかった」
「うん、あたしも」
「いつもより積極的だったね」
「お互い様だよ」
「…スイッチ入ったかも」



どんなに気分が高まっていようとも、研磨が荒々しくなることはない。優しく触れて、隅々まで堪能して愛してくれるような彼の愛撫にはいつも思考がどろどろに溶かされる。嬉しくて幸せでどうにもならなくなるあたしは、その気持ちを伝えようとあらゆるところにキスをする。それは例えば鎖骨だったり肩だったり、首だったりと色々だ。そのたびに研磨がくすぐったいよ、と笑うのも好きで、結局またキスをする。人とのコミュニケーションが苦手で避けて通るような彼からは想像ができないほど巧みな愛し方に、あたしはどっぷりはまってしまったのだった。首筋をなぞっているぬるりとした熱が、これからのことをあたしに期待させた。



「……あ」
「……うそ、」



思わずそんな言葉が飛び出た。どうして、いま、ここでなの。黒一色だった空間に光が宿る。久しぶりの明るみに目を細めた。まともに目を開けられるようになるまで時間はかからなかったけれど、体は固まってしまったままだ。がたん、とひとつ大きく揺れたところで我に返り、自分たちの体制と格好を慌てて正す。素晴らしいタイミングで復旧したエレベーターは相変わらずのスピードでマイペースに動き、チン、と今にも壊れそうな音を立てて本来の目的であった階への到着を知らせた。嘘でしょ。



「信じらんない…」
「…ふ、」
「な、なんで笑うの!」
「最後までしたかった?」



顔から火が出そう、とは、昔の人はまた上手い言葉を作ったもんだ。その通り過ぎて拍手を送りたい。鞄の中に入っているペットボトルの水を頭からぶっかけたい気分だ。あたしは一体、こんなところで何を期待していたんだろうか。雰囲気に流されていたとはいえ、自分がとんでもなく破廉恥な女に思えてどうしようもなく恥ずかしい。このオンボロの鉄の箱の中であたしは何をして何をしゃべったかなんて思い出せたものではない。お願いだから一人にしてくれ。さっさと目的のお店へ行ってくれやしないかと願っていたら、彼は私の腕を掴み廊下を歩きだした。おいおいまさか、こんな状態で一緒にスポーツ用品なんて見れないぞ。しかし今は声を出すのも難しい。抗議も出来ず、ただ彼に合わせて歩くことしかできないこの体は、あっさりと店の横を通りすぎていく。その先にあるのは非常用の階段だけだ。ガチャリと重い扉をあけて、ずんずん下へ進んでいく。その間、あたし達の間に会話はない。それは願ったり叶ったりだからいいとして、今度はどこに連れていかれるのだろう。少し息が上がってきた頃にようやく地上へおりたち、ビルの外へでた。そとはすっかり暗くなっている。それなりの時間、エレベーターの中に閉じ込められていたらしい。すっかり夢中で気づかなかった。あぁもう、本当にあたしってやつは。



「帰るよ」
「あ、うん」
「俺の家、来るでしょ」
「え、」
「遅くなるって連絡入れといた方がいいんじゃない」



突然の申し出に頭がついていかないけれど、彼の中では既に決まっていることだったらしい。相変わらず手を引っ張られながら、なんとか片手で携帯を操作する。「ご飯は適当に温めて食べるように」とだけ返信が来て、うちの母親もすっかり研磨を信用しているらしかった。あんなことしてるなんて夢にも思ってないんだろう。そして、たぶん、この後も。



研磨の家に着くまでのおよそ30分、あたしたちは殆ど会話をしなかった。電車に揺られ駅に着き、家までを手を繋いで黙々と歩く。のんびり話をしながら歩くわけでもなく、早足にただ目的地へ向かってひたすらに。家の扉に鍵が差し込まれ、ガチャリと開錠された音がする。電気はすべて消えていて、家族は不在ということが分かった。予想が確信に変わって、ふつふつと熱が湧き上がっていく。靴をぬぎ、先を歩く彼の後を追う。部屋に入るも電気はつけられず、カーテンの閉まっていない窓から差し込む街灯の光がほの暗く室内を照らしていた。研磨がおろした鞄の横に自分のを並べる。振り返ろうとした体は後ろから勢いよくひかれ、あっという間にベッドの上へ放り投げられた。いつもより乱暴な行動に驚いて思わず研磨の顔を凝視してしまった。



「俺も男だから、」
「う、ん」
「あんなで終われない」



言い終わるか終わらないかの内に唇を奪われた。どうしてよいか分からず彷徨う舌を上手に絡めとり、好きなように解いていく。追いかけようとすれば引き抜かれ、下唇を柔く食まれ、また口付ける。二度目となる濃厚なキスにまた、すべてが奪われていった。