真白

この人のこんな顔は見たことがない。試合の時とも、教室で授業を受けている時ともお昼を食べている時とも違う。なんと言っていいものか。きっとなにかしら表現の仕方があるのだろうが私にはそれが分からないし、多分、いまはそんなこと考えている場合ではないのだ。床の冷たさが制服越しに伝わる。天井の蛍光灯は、覆いかぶさる彼の顔で隠されていた。



「ま、待って、大地、」
「待つって、どのくらい?」
「さ、30分、くらい?」
「長い、待てない」



おかしいぞ。待ってと言ったら、優しく笑って「ゆっくりでいいぞ」と言ってくれる彼は一体どこへ行ってしまったの。むかつくくらい余裕綽々で、同じ年齢とは思えないほどの懐の広さを誇る大地が思い出せない。だって今あたしに跨るこの男の人の顔は切羽詰っていて、勢いよく噛み付かれそうだ。それはそれでいいけど。あたしの首なり肩なりに思い切り歯を立てて、くっきりと残る痕をつけて欲しい。準備などまるで整っていない気持ちとは裏腹にそんな欲望はしっかりと湧き上がる。緊張と期待、不安と渇望。入り乱れる感情が指先を震わせた。目の前にある逞しい肩に手をのばしシャツを掴む。あたしが引き寄せているのか彼が寄ってきているのか、ゆっくりと二人の間が埋まっていった。



「…ん、む」
「っ、はぁ」
「だ、いち、」



初めての次のキスは深くて長く、お互いに呼吸が上手くいかずに息を止めていた。キスひとつで大げさなほど乱れた息が顔を上気させている。頬がこれまでに無いほど熱を帯びているのが自分でも分かった。頭の中はぼやぼやしていて、ただ大地しか見えていなかった。視線をそらさずにじっと見ていたら、彼の顔がまた近づいてくる。影が落ちる。静かに目を閉じて迎え入れる体勢に入った。



「……はぁぁぁ」
「…大地?」



しかし唇にはいつまでたっても何も触れず、代わりに盛大なため息がすぐ耳元で聞こえた。彼の短い髪の毛が耳やこめかみに当たる。ぴったりとくっついた体はとても暑かった。息を吐ききって数秒、沈黙が訪れる。あたしはどうしていいか分からず、シャツを掴んでいた手の力を抜いた。ゆっくりと、彼が起き上がる。あたしの上から体を退けてこちらに手を伸ばす。その両の手を取ると、ぐ、と引っ張られ体を引き起こされた。眉間に皺がよっている。いつになく硬い表情のまま彼が胡坐をかくもんだから、あたしはその場に正座した。



「来い!」
「へ、え?」
「ほら!」
「う、うん…?」



勢いよく腕を広げたかと思えば、突然のお誘い。なんだ、どうしたって言うんだ。顔はマジだから冗談ではあるまい。しかしあまりに突飛な行動に、浮かぶのは疑問符ばかり。考えることを放棄したあたしはひとまず、言うとおり彼の腕の中に納まった。ぎゅうぎゅうと力強く抱きしめられる。ぴったりと胸板につけた耳が暑い。彼の呼吸音がとても近くに聞こえる。吸ったり吐いたりするたびに上下する胸。その奥で、誰かがこちらに向かって走ってきているような、短間隔でリズムを刻む低い音が鳴っていた。



「……大地、」
「…なに」
「心臓の音すごい早い」
「俺だって緊張してんだから」
「嘘」
「初めてのことは誰だって緊張するだろ」



もう一度長く息を吐き出して、大地はあたしの肩にあごを乗せた。早鐘は相変わらずで、そっと腕を回した首はしっとり汗をかいている。



「悪かった…」
「何が?」
「性急すぎたから、怖がらせたなと思って」
「びっくりはしたけど。怖くなんか無かったよ」
「…なら、いいんだけど」
「なんか、可愛いね、大地」
「そういうことを言うんじゃない…」



随分と落ち込んだような声をだすので思わず笑ってしまった。今日は色んな大地が見れる日だ。先に帰ったこととか散々暴言吐いてった菅原は許さんし絶対に許さないけど、感謝しないでもない。ラインで礼くらいは言ってやろう。大地とのツーショットと一緒に。すっかり気持ちに平穏を取り戻したあたしは何度も何度も大地の頭を撫でた。苦しいくらいに力がこめられていた彼の腕も徐々に緩くなり、呼吸も落ち着いていくのが分かった。どんなにみんなのお父さんみたいなポジションだって、余裕で大人びていたって、結局はあたしと変わらない17歳の高校生なのだ。あたしが緊張しているなら彼だってそうに決まってる。どちらともなく回していた腕を下ろし、手を繋いで、指を絡めた。



「今度は、ゆっくり、ね」
「分かってる」



キスをするかと思ったら、額同士がくっついた。鼻の頭が大地の鼻と触れ合う。目を閉じて彼の温度をじっくりと堪能した。いつの間にか指は解けて、あたしは彼の二の腕あたりに手をやり、大地はあたしの頬を両手で包み込む。顔を離して互いの目の中に自分を確認して、それが堪らなく幸せで、瞼を下ろせば熱い息が唇を覆った。三回目のキスは、体の内側から叫びだしたくなるくらいの幸福に満ち溢れていた。徐々に体が後ろに倒れていく。あっという間にさっきと同じ体勢になった。彼があたしを見下ろす。片方だけあがった口角と細められた目が、あたしの胸を突き刺した。その顔は、ずるい。



「どうした」
「…どうもしないっ」
「目そらすなよ」
「やだ」
「名前、こっち見て」



そうやって言ったら逆らえないのを知っているんだ。さっきまで落ち込んでいたくせに、頭なんか撫でてやるんじゃなかった。ゆっくりしてよ、じゃなくて、優しくしてよ、にすればよかった。それから、あとは、あぁもう分かんない。彼の目が宿した熱はあたしの脳を支配していく。なぁ、と呼びかける声が体中を駆け巡り、心臓を直接刺激する。あたしの顔の横に伸びる筋肉質な腕も首筋もすべてが麻薬みたいで。奥底に沈んでいった欲望がかき乱され、其処此処に散らばった。



「どうしてほしい?」