結婚しましょう

「結婚しましょう」


そしたら、離れて生きる必要はないから。人生最初のプロポーズは16の冬だった。受験を控えた彼女と一緒に来た初詣、隣で一生懸命お祈りしている名前さんを盗み見る。合格祈願、ね。彼女の悲しむ顔は見たくないから合格してほしいけど、そしたら東京へ行くことになるんだということを思えば滑り止めで受けた地元の大学に通ってくれないかと思う自分もいる。曖昧な気持ちのまま同じように手を合わせるけれど勝ったのは寂しさで、顔を上げた名前さんをぐっと引き寄せて抱きしめた。放したくない、離れたくない。縋るように求婚の言葉を紡いだ。


「あたしは出来るけど、蛍はまだ16歳だから無理じゃない?」
「…真面目に返さないでくださいよ」
「だって」


一世一代のプロポーズは笑われて終わりだった。そりゃそうだ。彼女が言うとおりそもそも結婚できる年齢じゃないし、まだ高校生。働いているわけでもなければ、この手は何ひとつ彼女を幸せにしてやれる術は持ち合わせていないのだから。唯一、一緒にいたいという気持ちだけはしっかりとあるけれど、それしかないのもまたなんの意味もなさないことだと知った。無力。この二文字に尽きる。


「急にどうしたの」
「どうもしないです。本気で言ってるだけ」
「明日は槍でも降ったりして」
「…茶化さないでください」
「ごめんごめん。でも嬉しかった。ちゃんと待ってるから迎えに来てね」


抱きしめながら、髪を優しく撫でてそういった彼女はきっと笑っている。バカにしているわけではないと分かっていても、それがすごく悔しかった。駄々をこねている子供を宥めるように言う彼女との2歳の差がとてつもなく大きな壁に思えた。どんなに足掻いても埋まらない歳の差はいつも目の前に立ちはだかる。やっとの思いで卒業して彼女と同じ大学へ進むも当たり前だが2年後には彼女は卒業して就職してしまったし、あと1年で大学を卒業できるというときに彼女は仙台への異動を告げられた。どうしてこう、追いついたと思えば彼女は離れていくのか。また電話とメールだけの日々に耐える時間が続くのかと心底うんざりしたのはもう4年も前の話だ。


「そういやツッキー」
「その呼び方やめてください黒尾さん」
「お前、名前とは最近どうなの?」
「どうって…別に、普通ですけど」
「遠距離なんだろー?会ったりしてんの?」
「そんなには」
「前会ったのいつ?」


ガヤガヤとうるさい居酒屋の一席、懐かしい顔ぶれでテーブルを囲み仕事の話をしていたはずなのに唐突にそう問われて動きが止まる。はて、そういえばいつだったか。綺麗に巻かれただし巻きに箸を伸ばしながら思考をじっくり巡らせて考える。先月も先々月も会ってない、その前は繁忙期だったから会う余裕なんてないし、と遡っていけば信じられないことに半年会っていなかったことに気づく。もうそんなに会っていないのか。自分でも少し驚いた。


「まじ?大丈夫なのソレ」
「この間フラれたばっかりの木兎さんには言われたくないよね」
「赤葦!?」
「えっ、またフラれたんですか。なにしてるんですか木兎さん」
「しらねーよ…!女ってホント何考えてるかわかんねぇ!」


確かに、と声は出さずに心の中で同意する。女の考えていること、というよりは名前さんの考えていることが分からないのだけれど。高校の時も大学の時も、別れの時はいつもあっさりしていた。「待ってるからね」と笑って名残惜しさのカケラも残さずするりと手を離れていくのだ。だから時々不安になる。彼女に自分は必要ないのではないかと。余裕がないのはいつも自分で、彼女は常に前を向いて笑っているし、「会いたい」だとか「寂しい」なんてことは殆ど言わないし泣いたりもしない。電話もメールも最近じゃこっちからしないと何もない。だから自然と連絡を取る回数も減っていって、気がついたら半年も会っていないなんてことになっていた。これはつまり、そういうことなんだろうか。嫌な考えが浮かんで思わず大きく息を吐いた。


「おやおや?悩ましげだねぇ、月島クンは」
「珍しいね、君がそんな風になるの」
「…そうですかね」
「おーおー、どうした?お兄さんが聞いてやるぞ?」


俺はお前より2年も多く社会を生きてるからな、とビールを煽りながらいう黒尾さんをジトリと睨む。いま一番ひっかかっていることをまぁ軽々と言ってくれたもんだ。2年というのはいつだって大きい。自分だってもういい大人なはずなのに、彼女は何歩も先を歩いているようで一向に距離は開いていくばかりな気がしている。自分ばかりがひっぱられて助けられ、名前さんに背中を押してもらっているような。そんな感覚から抜け出したくて意地を張って連絡の回数を減らして弱音も言わないようにした。自らの力でどうにか立って歩いていける、そんな自信をつけてから向き合いたいと思い今日まできたけれど実際はどうなんだろうか。確かに彼女に頼ることなく着実に前に進んではいると思うが、大事な何かを置き去りにしたまま来てしまっている。ぽっかり空いた穴には何があったのだったか。彼女に対して貪欲で、ストレートに想いをぶつけていた学生の時の方が、焦りはあれど心は充実していたのは間違いなかった。


「…大人って、なんなんですかね」
「いきなりハードル高ぇのきたな」
「名前さんのこと?」
「なんか、分からないことだらけですよ」
「大人ってのはなー!ずるいよな!」
「お前もいい年して何言ってんだよ」
「だってタテマエばっかでホントのこと全然言わねぇし。空気読めとか言われてもなぁ!」
「…それでフラれたんですね、木兎さん」
「空気読めってフラれたのか木兎」
「ご愁傷さまです」
「お前らなんなの?!」


「もういい!泣いてくる!トイレ!」と去っていった木兎さんを見送りながら、半分くらいは彼の言っていることに頷ける。名前さんは一体いつもどんなことを考えているんだろう。この今の関係をどう考えているのだろう。顔をみたら少しは分かるかもしれないのに。近くにいないのがこんなに心細く思っているのは、自分だけなのだろうか。


「じゃ、聞いてみる?」
「何をです?」
「オトナのホンネ」


こういう笑顔の時、黒尾さんは大抵ロクでもないことを考えているのを知ってる。それでも止めなかったのは、少しだけ期待していたからかもしれない。これから起こるナニカに。おもむろに携帯を取りだした黒尾さんは画面に何度か指をすべらせてからそれを耳にあてた。しばしの沈黙。ドクドクと自分の心臓の音だけが聞こえた。


『もしもし?』
「おー、俺俺」
『詐欺師みたいなセリフだね』
「やめろ、一緒にすんな」
『あはは』


グ、と手に力が入った。久しぶりに聞く彼女の声。やけに大きく聞こえるのは、スピーカーモードに切り替えられているからだろう。


「いま木兎たちと飲んでてさ、お前の話になったから生存確認兼ねてかけてみた」
『なに、死亡説でも出てんの?』
「おー、だってお前全然こっち来たとか連絡してこねーじゃん」
『アンタに連絡する意味。』
「たまには帰って来いよ、俺が泣くぞ」
『あたしの帰るとこは仙台だけですぅ。勝手に泣けば。』
「名前ちゃんヒドイ」


笑う声がとてもクリアに耳に届く。そうだ、こんな声で笑う人だったな。やはり思い出の中で再生させる彼女のそれとは段違いに綺麗だ。いつでも、いつまでも聞いていたくなる。黒尾さんと雑談を続ける名前さんの声を1つ残らず頭に残そうと身動きもせずに聞き入った。じんわりと温かくなっていく胸の奥が気持ちいい。


「そーいやもうすぐツッキーも来るんだけど」
『えっ、蛍も呼んでるの?』
「あたりまえだろ、大学時代の可愛い後輩なんだから」


え、僕ならもういますけど。そんなことを黒尾さんに目で訴えかけたのが伝わったのだろう、彼は人差し指を立てて口元へ持っていった。喋るな、ということらしい。赤葦さんの方をむけば彼も良く分かっていないようだったけれど「従おう」の意としてひとつ頷いた。再び前に視線を向ける。


「なんかもう着くらしいけど、来たら代わってやろうか?」
『い、いい!絶対ヤダ!』
「なんでだよ」
『なんでも!もう着くなら切るよ?!』


ズン、と全身が重くなった気がした。まさか、これがホンネだなんて言わないだろうな。だとすればこの後、というかこれからどうしていけばいいんだ。固まる俺に耐えかねたのか、赤葦さんが小さく黒尾さんの名を口にした。しかし目の前の男は相も変わらず笑いながら赤葦さんに向けて「待て」のポーズ。これでズタボロにされたら覚えておけよ、この野郎。


「なんでそんなに嫌なの?別れたいの?」
『なわけないでしょ!』
「じゃぁいいじゃん、電話くらい」
『…その逆だから、嫌なの』
「どーゆーこと」
『声なんか聞いたら…、会いたくなっちゃうから。』
「そう言やいいだろ」
『それはダメ。蛍が頑張ってるのに、年上のあたしがそんな甘えたこと言ってたらさ…格好つかないよ』
「ふぅん」


黒尾さんと、目が合った。「だ、そうだけど?」口がそう動く。言い返すよりも先に体が動いて、テーブルをはさんで向かいに座る彼の電話を奪い取った。


「名前さん、今どこですか」
『…えっ、蛍?なん、ちょっと、なに?』
「家ですか」
『そ、う、だけど…』
「2時間後、初詣行った神社にいてください」
『うぇ、ちょっと』


返事を聞く前に通話終了のボタンをタップしてポイと乱暴に持ち主へ返した。上着とカバンを引っつかんで靴を履く。財布の札入れから中身を抜こうとした手は赤葦さんに止められた。


「金下ろす時間勿体ないでしょ。今から行けば16分の新幹線間に合うから、ゆっくり行きな。事故ったら元も子もないんだから」
「…はい、ありがとうございます」
「分かったろ?」
「?」
「お前が考えてるほど、2歳差なんて大したことねーよ」


体中が熱くなる。この人たちはいつも、こうして火をつけてくれていた。あの時から成長ないな、と笑いもこみ上げてくる。もう一度お礼を言おうと息を吸ったところで木兎さんが戻ってきたらしく、隣に立った。


「え、なにツッキーもう帰んの?まだ20時前だけど!」
「彼女にプロポーズしに行くんだよ、な」
「マジ?!やるなオマエ!」
「うっ」
「木兎さん、背中折れます。手負いにしないでください」


バシバシと容赦なく背中を叩かれる。今日ばかりはそれも気合を注入されているようで、「頑張れ」なんて言われてる気さえする。


「バシっと言って来い!」
「はい、行ってきます」
「次奢りな」
「わかりました、お店決めててくださいね」
「月島君、もういいから行っておいでよ」
「はい、じゃぁ、失礼します」


小さく頭を下げてから席を離れ、店を出た。ゆっくり行きな、と言ってくれた赤葦さんの言葉どおりを意識するもやはりそれは難しく、全力とまではいかずとも走り出していた。早く、早く会いたい。一刻も早く、あの人に会いたい。


「月島!」
「…澤村さん?」


新幹線を降りて改札を抜けたところ、タクシー乗り場へ直行しようとした時に聞こえた声は随分懐かしいもので、顔を向ければ久しく会っていない人がこちらに向かって手を上げていた。どうして、そんなことを聞く前に彼がこちらへ寄ってきて「こっちだぞ」と誘導する。されるがまま着いて行けばそこには黒い車があって、あっという間に押し込まれた。


「烏野神社でいいんだよな」
「はい。でも、あの、なんで」
「黒尾から電話きたんだよ、さっき。一大事だから迎えにいってやってくれって」
「…そうだったんですか」
「あいつ理由言わないから何事かと思ってさ。でもまぁ見た感じケガとか病気じゃないみたいだし、安心したよ」
「すみません、いきなり…」
「いいって。それより急にどうしたんだよ」
「えっと…」
「あれか?彼女にプロポーズとか」
「…」
「えっ、もしかして俺当てちゃった?」
「…さすがですね、澤村さん」
「いやー…まさか、本当だったとは…でも、そうか。とうとう結婚か」
「まぁ、オッケーもらえたらですけど」
「はは、なんだ、弱気か?」
「100パーセントなんてこの世には無いですから」
「相変わらずだな」
「イエ」
「信じろよ、自分が好きになった人のことをさ」
「……そうですね」


20分ほど車を走らせたところでゆるゆるとスピードは落ち、目的地の少し手前で停止した。しっかりな、という声は10年前と変わらない。それに酷く安心して自然と口角が上がった。バタンとドアをしめて走り去る後姿を見送る。時計は指定した2時間より少し早い時刻をさしている。ゆっくりと神社へ向かって歩いた。ここへ来るのは初詣以来、最初のプロポーズ以来だ。まさか同じ場所で同じことをすることになるとは。ぐるりと周りを見渡すと、鳥居の足元にゆらりと動く影を見つけた。まさか。一瞬にして体が強張った。けどこうしてなんかいられない。地面を蹴って走り出す。近づけば近づくほど鮮明に浮かび上がるシルエットはよく知っているけれど、しばらく見ていなかったもの。


「名前さん!」
「…蛍?」


手を伸ばしたら触れられる距離まできたら顔もしっかり見えた。あぁ、変わらないね。そりゃそうか、半年しか経っていないもんな。変わるわけがないか。でもなんだか数年ぶりにあったような気分だ。驚きながら、それでもすぐに笑顔になったあなたはやっぱり綺麗でもう諸々抑えられそうに無い。力の限り抱きしめて深く息を吸った。あーあ、あの時より格好良くスマートに言ってやるつもりが。シチュエーションも甘い雰囲気も何も無いものになってしまった。けどまぁこの人相手に格好良くなんていられるほど余裕を持てないのは分かりきっていたこと。それでも、あの時に足りなかったものは全部そろえたはずだから、だから今度こそ、イエスと言ってよ。



結婚しましょう



沈黙が痛い。僕はまた断られるのだろうか。こんなに緊張したのは人生で初めてだ。なんて居心地の悪い。変に高鳴る鼓動も震える手も悟られたくなくて体を離す。下にある彼女の顔を覗けば、きゅっと口を引き締めてこちらを見ていた。


「…う、」
「名前さん?」
「…うわあああ」
「え、ちょっと、」
「ばかあ!ばかー!!」
「あの、名前さん、」
「もう…、もう言ってくれないかと思ったあ…!」


堰を切ったように泣き出す彼女にたじろいだ。こんなの見るのは初めてだ。泣く姿はみたことあれど、もっと大人しく、静かに泣いていたから。とりあえず落ち着かせようと頭や背中をひたすらに撫でる。だんだん小さくなっていく声と嗚咽がほとんど聞こえなくなった頃、今度は彼女の方から胸に顔を押し当ててきた。ぎゅぅ、と力強く背中にまわされた腕がとても愛しく感じた。


「ありがとう、来てくれて」
「いえ。ずっと来れなくて、すみません」
「…寂しかったよ」
「僕もです。だから、もうそんな思いさせません」
「…うん」
「結婚しましょう」
「……うん」


目に涙をいっぱいためて、「お願いします」と見上げる顔に自分まで涙を落としそうになる。それをどうにか誤魔化したくて、早口に「愛してる」と告げてキスをした。