いとしくてたまらない
「名前、そろそろよ」「あ、うん」
「どんな顔するか楽しみね」
「しっかり撮っておいてよ?」
「任せといて!」
胸を張るお母さんはすでに目がうるうるしていて、本当に頼りにしていいのか少し不安だ。あたしはこの姿を一度も徹に見せてはいない。所謂ファーストルックを取り入れたくて、バージンロードで初めてお披露目することにした。いったいどんな反応をしてくれるだろうか。プロポーズはサプライズをされたから、あたしもなんとかして徹の驚いた顔が見たかったのだ。
「名前さん、時間になります」
「はい」
スタッフさんに呼ばれて振り返る。あぁ、いよいよだ。大きく息を吸ってからゆっくり吐き出した。「行きましょうか」というお母さんの腕をとって歩き出す。外は快晴、時折拭く風がベールを小さく揺らした。バージンロードまで向かう途中、神父様の前に立つ徹の姿を見つけた。頭を下げてこちらを見ないようにしている彼に、胸がドクンと大きく波打った。どうしよう、どんな顔していけばいいのかな。いきなり押し寄せてきた緊張に対処できずにいるまま、とうとうお父さんの下へたどり着いてしまった。
「行こうか、名前」
「うん。お願いします」
一歩、また一歩。徹との距離はどんどん近づいていく。背筋を真っ直ぐのばして立つ彼の後姿はもうそれだけで絵になるようで、お父さんの腕を掴む手に力が入った。ゆっくりと歩き、徹の元まであと数歩と言うところで立ち止まる。ここからは、あたし一人で行かなくちゃいけない。震える手を見ないように、お父さんの腕からそれを抜いた。生演奏のバイオリンの音が段々小さくなっていって、とうとう自分の心音しか聞こえなくなった。落ち着かなくちゃ。小さく深呼吸すると、隣から「名前」と呼ばれて顔を上げる。見上げたお父さんの唇は弧を描き、そっとあたしの両手を取った。
「名前、」
「お父さん?」
「大丈夫だね」
「…う、ん」
「顔強張ってるぞ。笑ってごらん?」
「…うん」
「お前は綺麗だよ。本当に。…まぁ、母さんには負けるけど」
「はいはい、わかってるって」
「そう、それだぞ。今の笑顔は最高に綺麗だった!」
「ほんとかなぁ」
「ほんとだって」
「今日だけ信じる」
「なんかもう行かせるの嫌になっちゃったなぁ。このまま喋ってるのとかどう?」
「後が恐ろしいから行ってくる」
「そうだな」
「うん。……じゃぁ、行くね」
「あぁ、行っておいで」
離れた手は、もう震えていなかった。軽くなった身体は自然と前へ進んでいく。だんだん大きくなってくる背中。背が高くてスタイルの良い彼は白いタキシードが良く似合う。真正面から見る徹は一体どんな風だろう。ただでさえ格好良いのに、あたしまでとんでもないリアクションをとってしまいそうだ。とうとう手が届く距離まで来てしまった。肩の力を抜いて、息を吐く。ふとゲストの方へ顔を向けてみれば、前から4列目のところにいつもの3人がいた。岩泉と松川が優しく笑って、頷いてくれる。花巻だけが拳を握って前に突き出し、「殴れ」と口パクで言っていて笑った。こんな時まで変わらない彼らにひどく安心して、ようやく決心がつく。吸い込んだ空気が生暖かい。広い背中に、手を伸ばした。
「徹」
トントンと軽く、肩を叩く。彼の身体がゆっくりと、コチラを向いた。
「…っ」
「…」
お互い無言になってしまった。なんだか時が止まってしまったみたいだ。タキシード姿の徹はやっぱり格好よくて、けれどそれよりも、口を手で覆ってあたしを見つめるその瞳から目が離せないでいた。ねぇ何か言ってよ、悲しいわけじゃないのに泣き出しそうなの。笑顔でいられるのもあと数秒だよ。
「…すごい、綺麗だ」
「徹も、素敵よ」
「本当に、本当に綺麗だよ」
「いっぱい迷った甲斐あったかな」
「…ねぇ、抱きしめてもいい?」
「そうして欲しいって思ってた」
ぎゅぅ、っと力強く抱きしめられる。すぐ耳元で、ず、と鼻を啜る音が聞こえた。それからそっと身体が離れて見上げた彼の顔は頬がピンクに染まっていた。目が潤んで眉は少し下がってる。お願いだからそんな顔しないで。あたしまでうつっちゃうから。そう口にする前に涙腺はあえなく決壊してぽろぽろ涙が零れていった。幸せで愛しくて胸がいっぱいで、こういうときもこんなに涙がでるものなんだね。
「お化粧崩れちゃうよ、せっかく可愛いのに」
「とおるのせいだよ」
「あはは、ごめんね。なんか幸せすぎてさ」
「なかないでよ」
「胸いっぱいなんだ、許して」
「…前にもこんなこと、あったね」
「春高予選負けたとき、体育館の用具室で二人で泣いたね」
「あのときも、とおるのせいで泣いたんだよあたし」
「さきに泣いてたじゃんか」
あの頃と同じようにお互いの涙を拭きながら話す。いつまでも見詰め合ったまま笑い合うあたしたちの横で、コホンと神父様の小さな咳払いが聞こえた。そういえば式の途中だった。慌てて振り返り差し出された腕に手をまわす。「病めるときも健やかなる時も」漫画やドラマなんかで聞いたことのある台詞をきいて、あたしはこの人と結婚して、これからも一緒に一生を歩いていくんだ、そんなことを思った。ああ、幸せで頭がどうにかなりそうだ。自然と口元が緩くなってしまうのも、今日だけはみんな笑って見逃して。
「では、指輪を交換してください」
促され再び向かい合う。何年も繋いできた大きな手が、あたしの左手を掬う。薬指にシルバーリングが通されるのを目で折って、ぴたりとはまるそれにさえ感動してしまった。右手にしていた婚約指輪も嬉しかったけれど、これはこれでとても特別なものだ。泣くのをぐっと堪え、同じように徹の薬指に指輪を持っていく。役目を果たして離れようとするあたしの手を徹の右手が上から捕まえた。ぎゅ、と握る彼の手に応えるようにあたしも空いている手を重ねて握り返したら、徹はとても嬉しそうに笑った。
「それでは、誓いのキスを」
お互い一歩近づいて、体が触れ合うぎりぎりのところで静止した。見上げる彼があまりに優しくあたしを見つめるから、柄にもなく照れてしまった。それでもあたしも負けじと見つめ返す。大きくて暖かい両手が、頬を包んだ。
「あの時、」
「ん?」
「体育館の用具室でさ、言った事覚えてる?」
「言った事…」
「これからは、彼女として俺を支えてよって言ったこと」
「うん、覚えてる。それで、当たり前だよって言った」
「そう。でも、今度はさ。奥さんとして、俺を支えて」
「…あ、あたりまえ、でしょ」
「うん、ありがとう」
涙が出る前に目を閉じた。唇に吐息がかかって、そのまま塞がれる。触れる寸前に彼が呟いた「愛してる」をそのまま呑みこんだ。