vs.お父様

人生でどの瞬間がイチバン緊張しただろうか。あと1点落としたら負けるって状況で自分にサーブが回ってきたとき、初めて代表の試合に招集されてそのコートに足を踏みいれたとき、愛しい彼女にプロポーズをしたとき。うん、確かにどれも緊張したけど断言できる。いまこの瞬間が最も緊張していると。


「徹、大丈夫?」
「当たり前ジャン」
「声裏返ってるけど」
「…名前、」
「なに?」
「……何があっても、この手を放さないでねっ!」
「…ウン」


ぎゅっと名前の右手を握る俺の左手は恐らく情けないほど冷たくなっているに違いない。「開けるよ?」「いや、ちょっと待って!」このやりとりも何度行ったことか。いや、いい加減にしよう。どれだけ引き伸ばしたって逃れられることではないのだ。こんな所で立ち止まっている場合ではない。新居探しに結婚式の予定もたてなければならない、足踏みしているヒマなどないのだ。よし、行こう。ズッシリと思い扉を開けるべく取っ手に手をかけ


「ひぃっ?!」
「あらぁ、ナイスタイミング!」
「ただいま、お母さん」
「ごっ、ご無沙汰してマス!」


びっくりした、本当心臓でるかと思った。あっれなんかやけに軽くね?って思ったら向こうから名前のお母さんがドアを押していた。出鼻をくじかれるってやつだろうか、折角整えた気持ちがあっちこっちバラバラに吹っ飛んでった。やめてくれ、落ち着きたいんだ俺は!



「徹くん、この間試合みたわよぉ!すごかったわ!」
「あっ、ハイ、ありがとうございます!」
「それにしてもスーツ似合うわねぇ!ほんと、こんな格好良い子が息子になるなんて夢のようよ」
「俺もお義母さんと家族になれるの嬉しいですよ」
「やっだ、もう!」


あははウフフと和やかな会話が繰り広げられる。なんて良い人なんだ、お義母さん。ぬるま湯につかっているような気持ちよさに包まれながらリビングへ続く廊下を歩く。テレビの音が聞こえてきた。いよいよ、だ。そこへ足を踏み入れれば心地よかった雰囲気など存在しなかったように、あっという間に空気が一変する。その異様なオーラはリビングの向こうの和室から放たれていた。


「お父さん、名前と徹くんが来たわよ」
「…そうか」
「テレビ消すからね」
「…あぁ」
「徹くん、コーヒーでいい?」
「あ、はい」
「じゃぁ淹れていくわね。二人は先に座ってて」


出来ればお義母さんと一緒に行きたかった…!声にならない叫びは心の中にとどめておいて、「こんにちは、お久しぶりです」と得意の好青年スマイルを浮かべる。まぁ、見てくれてないから意味ないけどね!


「お父さん、腰は?」
「もう大丈夫だよ。病院行って湿布もらったから」
「しばらくゴルフは禁止だね」
「どうだかなー」
「お母さん困らせるだけなんだからヤメテ」
「厳しいな、名前は」


うっわ、でれでれ。デレデレじゃないすかお義父さん。そんな顔俺にしてくれませんよね!いや、されてもそれはそれで困るんだけども。とりあえず今俺は空気になろう。父と娘の会話を邪魔してはいけない。息すらしてはいけないような気がして少し苦しかったが、ギブアップ寸前でお義母さんが飲み物を持って和室に現れた。救世主、一命は取り留めた。


「…」
「…」
「…」
「…」


四人が一斉にコーヒーカップを口へ運ぶ。フゥ、と息を吐いてそれをソーサーの上へ戻したのは、お義母さんが一番最初だった。


「名前、」
「なに?」
「ちょっと買い物行くから付き合ってくれない?」
「いいけど…いま?」
「そう、いま」
「エッ、」
「わかった。車で行くでしょ?」
「モチロン」
「ちょっと…」
「じゃぁ悪いけど行ってくるね。徹はお父さんと話でもしてて」
「1時間くらいしたら戻るから〜」


ちょっとちょっとちょっと待って、え、嘘でしょ?何があってもこの手は放さないって言ったよね?!手放すどころかこの場からいなくなるの?!ねぇ?!


「…」
「…」


沈黙、沈黙、沈黙。ひたすらこの二文字が周りを飛んでいる。話そうとするタイミングでお義父さんが見計らったようにタバコを吸い始めたり咳払いしたりするもんだから、いつまでたっても話出せない。こうなったら向こうから来るのを待とう。そう決めてから何分ほど経っただろうか。時計の長身は1から2へ移動していた。いやいや、5分しか経ってないのかよ。


「徹くん」
「ハッ、ハイ」
「…俺はね、」
「はい」
「……」


そこまで言って、お義父さんはふぅー、とお腹の底から息を吐き、胡坐をかいたヒザに手をのせた。すごく真面目な顔。ごくり、喉が鳴る。



「まず、君の名前が気にくわないっ!!」



ええええええ?!いや、名前…えぇーーーー?!



「徹って!!なんでよりによってトオル、しかもその字で徹なんだよ!」
「えっ」
「透とか亨とかあるだろぉ?!なんで徹…なんで俺と同じなんだよっ…!」
「ス、スミマセン…」


謝っちゃったよね!こんだけ目の前で落胆されたらそうするしかないけど俺なんも罪なくない?!ねぇ?!俺の父さんと母さんとじいちゃんばあちゃんが一生懸命考えてくれた名前なのに謝っちゃったじゃん!?


「お陰で名前が君のこと呼ぶたびに体が反応しちゃうんだよ…!俺のこと呼び捨てになんかするわけないの分かってても50年以上付き合ってきた名前だから反応しちゃうんだよ…!」
「そ、そうです、よネ」
「……それとな、もう一個気に入らないことがある」
「え、えっと、何が…」
「君、プロのバレーボール選手なんだって?」
「あ、ハイ」
「日本代表にも選ばれてるとか」
「な、なんとか」
「これ、君だよね?」


バンっと些か強めに置かれたソレは、先月あたりに発売されたバレーボール雑誌だ。うん、表紙めっちゃオレ。めっちゃ笑ってる、めっちゃ格好つけてる。死にたい。


「なんなの、これ?イケメン選手特集?女性に圧倒的人気を誇るってなに?そんなスーパープレイヤーだったっけ君?この間の試合スタメンじゃなかったよね?」
「えぇっと…」


しっかり観てんじゃんか!全然知りませんみたいな話の入り方しやがって!


「こうやって持て囃されてパパラッチに追い掛け回されて仕舞いには名前までフライデーされたらどうしてくれるわけ??ん?そのうちお前なんかより名前の方が「美人妻」とかいって世間の目にさらされるようになったらと思うと俺はもう何個胃をダメにしたらいいんだ!?」
「お、俺がしっかり守ります!」


グッとひざの上に乗せていた両手の拳をにぎる。チャンスだ。いま、ここで、このタイミングで、言え!


「お義父さ」
「お前にお義父さん呼ばわりされる覚えはないっ!」
「え?!えーっと、徹さ」
「お前も徹だろーが!!」


めんどくさっ!?言っちゃ悪いけどこの人めちゃくちゃ面倒くさいな!名前が俺の扱い上手いの分かる気がする!…ん?あれ?おかしいぞ?まぁいい、兎に角言わなければ幸せはやってこないのだ。


「名前とけっ」
「あーーーー聞こえんなあ!」
「けっこ」
「黙れ!このもやし小僧!」



この人…言わせない気だ………!!



vs.お父さま



「…君が…君がそれを言ったらなぁ…っ、俺はっ…いいぞって言ってやるしかないだろうが…!」
「えっ」
「名前が好きって言って…あんな幸せそうな顔させる男に……ダメって言えないだろ…!」
「・・・お義父さん……!!」
「うるさいっ!認めたわけじゃないからなっ!!」
「はいっ、ありがとうございます!幸せにします!!」
「認めてないって言ってるだろぉぉ!?」
「あっ、ちょ、それ俺の顔…」
「本物にやれないからな!雑誌で我慢しといてやるよォ!」