My sweet doggy

パチパチ、パチパチパチ、タン、タン。ノートパソコンの薄いキーボードのキーが叩かれる音が、今の私のBGMだ。さっきからもうずぅっと聞いているから何にも気にならなくなった。あ、別にコレは嫌味とかそういうんじゃないです、本当に。ベッドに横たわりながら、雑誌の片方を持ち上げ大層だらしない格好で中身を流し読みしている。私が背中を向けている彼は一生懸命パソコンと向き合い、軽快にキーを叩いていた。久々に会えた金曜日、明日はお休みだし沢山いちゃいちゃできるなあとあんなことやそんなことを想像しながらお家へやって来て、ご飯を食べて片付けをして、よし今だと飛びつく前に「ちょっとだけ仕事させてね」と待てを言い渡された。眉をちょっぴり下げた顔で言い放ち、止めに優しく頭なんか撫でられようものなら頷く以外に何もできないじゃないか。ズルい。


「ねぇー」
「まーだ」
「えー」
「良い子だから、もうちょっと待ってて」
「いいじゃん!斉藤さんになんか!」
「え、すごい、なんで今俺が斉藤さんにメール作ってんの分かったの」
「適当だよバーカ」
「拗ねない拗ねない」


カチカチ、と数回マウスのクリック音が聞こえて、またすぐにキーの音に切り替わる。斉藤さんは仕事で大変お世話になっているらしいから外せないって言っていた。あと長谷川さんはこの前ご飯連れて行ってくれたからその感想とお礼も送らなくちゃいけないらしいし、なんかやけに高級なシャンパングラスを贈ってくれた新田さんにもお礼するのだとか。他にも何人か名前を挙げていたけど私の頭じゃ3人覚えるのが限界だ。どうでもいいから早く終わってくれますように。お風呂入る前に寝てしまいそうだ。そんな勿体無いことはしたくない。彼との時間はこれから始まるのだから。そう言い聞かせ、必死にくっ付こうとする瞼の邪魔をする。もう雑誌なんぞに意識は向いていなかった。


「うーん…まぁいっか、これで」


眠気と格闘すること数十分、独り言が聞こえたあとにタン、と少し強くキーが押された。瞬間、私の中の細胞たちが騒ぎ出し一気に目が覚める。最早持っていただけの雑誌を閉じ勢いよく振り返れば、座椅子の背もたれに寄りかかり大きく伸びをする徹がいた。手を下ろすと同時に深く息を吐き出して、それからゆっくりとこちらを見る。パソコンを見るときだけかける眼鏡のレンズの向こうの目と目が合った。


「お待たせ、終わったよ」
「うん、お疲れ様」
「…ふっ」
「え、なに何で笑うの?」


突然吹き出したかと思えば、大きな肩を竦めてクツクツと笑い出す。人の顔を見て爆笑するなんて失敬な。そりゃぁあなたみたいに見目麗しい整ったお顔ではありませんけれど、笑ってしまうほど可笑しな顔ではないと思っていますが。ヒィヒィ言う彼をじっとりとみつめると、それに気づいたのかコホンと一つ咳払いをして表情を整えてから、四つんばいでベッドのすぐ傍までやってきた。


「ごめんごめん。怖い顔しないで」
「誰の所為だと」
「うん、俺だね」
「自分の彼女の顔みて笑うとか」
「いやだって、なんか、」


そこまで言ってまた笑い出しそうになる徹の頬をつまむと、参ったと両手を挙げてきたので大人しく手を放す。なんだって言うんだ全く。


「俺を見る目が輝いてたとゆーか」
「はー?」
「すごい嬉しそうな顔してたから、それが可愛かったというか」
「本当のことを言いなさい」
「俺が実家帰ったときの、うちの犬みたいな反応で面白かったから、つい」
「そこで本当に本音を言うところがダメなんだよね及川くんは」
「ちょっと名字呼びやめて、距離を感じる」
「うるさいですよ及川さん」
「でも可愛かったのは本当だって」
「今更遅いですしもう大丈夫です、寝ましょう及川さん」
「名前ー」


くるっと身体をひっくり返して再び背中を向けると、名前を呼びながら揺さぶられた。ねぇねぇとあまりにしつこく揺すってくるので頭の中までぐちゃぐちゃにかき回されそうだ。気持ち悪くなる前にやめさせようと渋々顔だけで振り返れば、「あ、やっとこっち見た」と嬉しそうに徹が笑った。あんたも充分、犬っぽいじゃないか。


「機嫌直して?」
「ちゅーしてくれたらいいよ」
「お安い御用」


カラリと笑って、あっという間に距離がゼロになった。優しく触れるだけのキスは今の私には物足りなくて自分から求めるも、ほんの少し違和感を感じて顔を離した。どうしたの、と言いたげな徹をまじまじ見つめてその原因に気づく。道理でしづらい訳だ。


「…眼鏡」
「え?」
「眼鏡、邪魔」
「あぁ、忘れてた」
「とって」
「ん、いいよ」


と言ったにも関わらず一向に彼は眼鏡に手をかけないで居る。それどころか組んだ両手をベッドサイドに置き、にこにこしながらその動きを止めてしまった。


「…取らないの?」
「いいよ、取って」
「え?」
「眼鏡、取って?」


唇が綺麗に弧を描く。細められた目は色気に溢れていて、もう何百回何千回と見てきたものだというのに私の心臓を今にも爆発させようとしていた。ドクドクと大袈裟なくらいに脈を打つ心臓が両手を震わす。私から一切視線を外さない彼の目をみたらきっともう正気ではいられなくなるので、なるべく下をみながらゆっくりとフレームに手をかけた。恐る恐るそれを引き上げ彼の顔から取り払う。
ようやくいつもの見慣れた顔になったのに、余計に胸が騒がしくなるのは何で。


「うん、良くできたね」
「…っ、」


止めていた息をそのまま飲み込んだ。囁くように言葉を紡いで私の両手首をがっちり捕らえる。お見事、としか言いようの無い動きであっという間に手をシーツに縫い付けられ、彼は私に跨った。前に流れ落ちる髪がまた一層、ギラギラする瞳を際立たせた。


「ね、ねぇ待って、お風呂、」
「終わってから一緒に入ればいいでしょ」
「やだ、先にシャワーだけ」
「我慢できるの?」
「う…」
「無理だよね?さっきあんなに自分から来てたくせに」
「……せめて電気、」
「ん、今日はこのままします」
「うそ、っ」


反論など聞く耳はないらしかった。先程よりもずっとずっと深くて甘い口付けに意識は完全に持っていかれてスイッチは二人ともとっくに入っている。待ってと言いながらも実は期待で胸がうずうずしていたし、電気がついていた方が彼の顔もよく見えるから全ては結果オーライだ。従順に言いつけを守っていたお利口さんな私をもっともっと甘やかして。