月曜日、きみと手を繋ぐ

君は、高く高く跳ぶ。両足でコートの床を力強く踏み込んで、まっすぐ手を伸ばして。そのフォームがとても綺麗で、逆光で射す陽は彼の為に輝いているようだった。そう、君はいつだって、眩しい。


「おはようございます」
「……おぉ」


ノートをそっと頭に置きながら、机に突っ伏す彼に声をかける。数秒して、むくりと体を起こしたものの、目はまだ眠りから覚めてはいなかった。窓側の、前から四番目。日当たり良好、月曜日1限目の英語の授業。誰もがこうなってしまうに違いない。


「やべぇ、ほとんど写してねぇ」
「だいぶ序盤の方で沈没してたもん」
「…次、なんだった」
「生物。でも今日は自習だって。良かったね」
「おー」


渡したノートを見つめながらため息をつく。そして席を立ち、顔洗ってくる、と一言残して彼は教室を出て行った。相当眠いらしい。少しだけ猫背になった後姿をみて、くすりと笑いがこぼれた。部活では頼れるしっかり者の副主将エースも、バレーボールから離れれば周りとなんら変わらない、普通の男子高校生なのだ。だから私は、教室の岩泉がとても好きだ。そして、彼と唯一いっしょに帰れる月曜日も、好き。私たちは恋人同士になって、今日で1ヶ月を迎える。


「名前、ノート助かった。さんきゅ」
「いーえ、どういたしまして」
「お前いっつもすげぇ綺麗に書くのな。見やすい」
「そう、かな」
「またなんかあったら頼むわ」
「うん。でも寝ない努力もしてみよう?」
「…それもそーだ」


小さく肩を揺らして笑い、私の頭に大きな手を乗せる。撫でるでもなく、髪をかき混ぜるでもなく、ただ乗せただけのそれは数秒足らずで去っていってしまった。そして彼は、自席に集まる男子たちの輪の中へ入っていく。そこでもまた、楽しそうに笑っていた。できることなら、まる一日、彼のことを見ていたい。こうして友達と笑いあっていたり、冗談を言い合っていたり、腕相撲をしてはしゃいだり、他にも見逃してしまっているだろう彼のいろんな一面を、この目で見てみたい、なんて。そんなことを考える私の右頬を、容赦なく指で突き刺してくる人がいる。振り返ると、一緒に問題集をやっていた友人二人がもの凄い顔でこちらを見ていた。


「教室内でいちゃつかないでくださーい」
「い、いちゃついてない」
「色ボケもやめてくださーい」
「まだ一ヶ月なんだから、それくらい許してよ」


ずるい、だの、抜け駆け、だのと彼女たちは散々言ったあと、「私も岩泉みたいな彼氏欲しい」「羨ましい」と実に直球な思いを口にした。いいなぁ、とこぼすこの二人には、私たちはとても順風満帆な交際をしているように見えているのだろう。という言い方をしてしまうと、実は全くそうでないかに聞こえてしまうが、そんなことはない。順調と言っていい。問題があるとすれば、それはきっと私にだけだ。


「寄越せ!」
「岩ちゃんっ」


素人相手の体育であっても、彼は容赦しない。及川のトスを綺麗に決めて、額の汗をぬぐっていた。久々の、彼のエースの姿だった。私はあまり練習を観に行かない。及川のファンの歓声や雰囲気が苦手というのも勿論あるが、一番嫌だったのは、自分の中にたちこめる名前の無い感情だ。ボールを追う姿、点を入れたときの自信に満ち溢れた表情など、全てに心奪われる。格好いいと思うし、誇らしいとも思う。けれど、それと一緒に、ほんの少しの痛みが走る。それが一体何なのかは分からない。寂しいような、切ないような、焦燥のような、キリリとした刺激。恋に浮かれる私の他にもう一人、どこか他人事のように思っている私もいた。そしてその私はいつも、岩泉の輝かしい姿をみて、眩しいと目を背けてしまうのだった。


「悪い、ちょい電話」
「うん、いいよ」


待ちかねていた放課後、校門を出て少し歩いたところで彼の携帯が鳴った。「及川、」とぼそりと呟いたあと、私に断りを入れてからスマホを耳にあてる。私は歩く速度を落とし、彼の数歩後ろを歩いた。岩泉は気にするなと言ったけれど、どうも電話をしている人の隣を歩くのは、盗み聞きをしているようで居心地が悪いのだ。ゆっくりと、前に進む。彼とは一定の距離を保っていて、広がることも無く、縮まることもない。まだ終わらないかなあ。早く、並んで歩きたい。ぼんやりとそんなことを思い、そこで私の歩みは止まった。ふと、気がついたのだ。あの時と似ている。体育のバレーボールで、高く跳び、光に溢れる彼を見たときと。そこで沸いた気持ちと、今抱いている気持ちは酷似していた。離れている岩泉。近づきたいのに距離は縮められない。立ち止まってしまえば、その距離は開いていく一方だ。達成したい目標がある彼と、何も無い私とを表しているようだった。寂しいような、切ないような、焦燥のような、気持ち。両手をゆっくりと持ち上げ、手のひらを見つめる。いつか、置いていかれてしまうだろうか。手を伸ばしても届かないところへ、彼は行ってしまうのだろうか。


「すまん、一人で歩いて行っちまってた」
「あ、ううん、」
「つかこんなとこで立ち止まって、何してんだよ」
「いや、別に、何も」


自身の手と岩泉と、視線が交互にいきながらたどたどしく返事をする。道の真ん中で両手を見つめながら立ち止まっていた私を、先を歩いていた彼が迎えに来てくれたらしい。謝罪が先か、礼が先か、考えているうちに、彼が小さく声をもらした。それから、中途半端にあげたままの二つの手の左の方を、岩泉が右手でぎゅっと握った。付き合いはじめて一ヶ月、4回目の月曜日。初めて手を繋いだ。


「こうしたかったんなら、早く言え」
「あ…、うん」


そういうワケじゃなかったんだけど。それでも、こうされてしまうと不思議と、実はそうされたかったんじゃないだろうかと思い始める自分がいる。私はどうやら単純な生き物であるらしかった。じわじわと広がっていたあの嫌な感情も、どこかへ消えて無くなっている。変わりに生まれた、暖く穏やかな優しいこの気持ちを、きっと安堵というのだろう。彼は今、私の隣を歩いている。随分とゆっくり、私の歩調に合わせて。いつの間にか絡めとられている指。その先にほんの少しだけ力をいれたら、倍くらいの強さで握り返された。そしてそのまま手を引かれる。よろけた体は岩泉の方へ流れ、腕同士がぶつかった。私たちの間にあいていた距離が埋まる。くっついた二の腕は、制服ごしでもなんだか温かかった。脈が速い。初恋みたいな気恥ずかしさで、少し俯いた。でも、やめたくなかった。少しでも長く、こうしていたい。


「…遠回りするか」
「…うん」


ぎゅ、ともう一度左手に力をこめて、頷いた。いつもは曲がらない道を、右に行く。知らない道も、彼となら怖くない。こうして手を握っていてくれる。たとえ先に行ってしまっても、私が立ち止まってしまっても、彼は振り返り、この手を取ってくれる。その間、私はハラハラしながらも、迎えにきてくれた彼に胸を撫で下ろすのだ。今度、練習を観に行こう。きらきらで眩しい岩泉を見に。そこで不安になろうとも、また月曜日はやってきて、手を繋ぎ、それらは全部幸福に溶けてなくなってしまうだろう。私は自分で思う以上に、随分と真剣に彼に恋をしているようだ。いつかそれを伝えられたらいいと思いながら、岩泉を見上げた。気づいた彼がこちらを見る。目が合って、オレンジに照らされた彼と静かに笑いあった。