バスタブのスイート

ぼんやりとした橙色のライトが室内を照らす。真っ白な泡がゆらゆら、ふわふわ、波をうつ。頭を後ろに預けると、肌と肌の隙間をぬけたお湯がちゃぷん、と音を立てた。


「今日は疲れたなー」
「朝からダッシュしたもんなー」
「貴大が起きないから」
「はいはい、ゴメンネ」


広げた両手を縁に乗せ、彼は随分とリラックスしている。私の耳のすぐ側で、彼の声が聞こえた。あんなに走ったのは何年ぶりだろうなぁ。

「あっ、こら、何すんの」
「痛いんだもん」
「髪濡れちゃう」
「いいじゃん、どうせ洗うんだし」


髪をとめていたクリップを奪われる。肩より数センチ長い髪の毛先がはらりと落ちて、お湯に濡れて肌にくっついた。終電を逃し、突然の豪雨に見舞われ駆け込んだホテルの、スペシャルルーム。値は張ったけれど、他へ行く体力は雨に奪われていたのでそこにした。洋画でみたことのあるスイートルームさながらのこの部屋のバスルームはとにかく広い。ロクに確認もせずにいれた入浴剤は泡風呂だったらしく、浴槽から白い泡が溢れていた。肌に当たるとしゅわしゅわ音を出して消えていく。弾ける気泡が気持ちいい。両手を伸ばし、泡を掬って持ち上げる。とろとろと流れていく白は、音もたてずに他の泡へ溶けていった。同じことをもう一度繰り返す。私が落とした泡を、今度は彼の大きな手がキャッチした。そしてそれを私の腕に撫で付ける。ゆっくりゆっくり、肌になじませるように、手首から肘を行き来する。それが段々上に上がってきて、肘から二の腕になり、二の腕から肩になり、肩から首筋を、貴大の手が滑っていく。私はなされるがまま、目を閉じた。


「お前の肌きもちー」
「貴大の指もきもちーよ」
「指で満足できるの?」
「…すぐそういうこと言う」


彼に預けていた体を起こして膝を抱える。貴大は「ごめんって」と大して悪びれていない声音で言い、私のお腹に両腕をまわして肩口に頭をぐりぐりと押し付けてきた。柔らかい髪が、肩についた水滴で濡れていくのが分かる。少しして、頭の動きを止めた彼は今度は肩甲骨の上あたりにキスをした。わざと出している水音が、バスルームの中でやけに大きく響いている。背中、首、耳の後ろ、逆側の肩甲骨、肩。ありとあらゆるところに、彼は口付けた。そして最後に、右肩にがぶりと噛み付いた。


「いたい」
「なんか、食べたくなった」
「怖いこと言わないで」
「食べられて、俺の一部になってよ」


本気か冗談か分からないことを言う。まだ酔っているんだろうか。小さく息を吐き出して、私は貴大と向かい合う。これ以上背を向けていたら、本当に食べられそうだ。十分ぶりくらいに見る彼の顔。すぐ近くにある血色の良い唇に、噛み付いた。半分衝動的な行動だった。だめだ、私も人のこと言えないや。


「大胆ですね」
「たまにはね」
「一回でいいの?」
「これ以上はしませーん」


私と彼の間に浮かぶ泡を両手で掬い、にやりと笑う唇を覆った。多すぎたそれは顔の半分ほどを隠してしまい、なんともマヌケな姿になった。「ヒゲ似合わないね」そう言って笑ったら、ふ、と泡を吹き飛ばされた。思わず目をつぶる。ぱしゃりと水のはねる音がして、目を開けた時にはもうヒゲは洗い流されていた。なんだ、残念。


「さっき後ろだったから、今度は前な」
「何の話ですか」
「何だと思う?」
「…ダメだからね」
「聞こえなーい」


く、と腰を引き寄せられ、一層近くなった距離。数回軽く唇を合わせたら、貴大は満足そうに笑った。照れくさくなって、私も一緒に笑う。それから耳にキスをされて、耳たぶを唇で挟まれて、首筋を下でなぞられる。どこも何もなくなっていやしないのに、なんだか本当に食べられてる気になってきた。じっくり味わいながら、貴大は下に下がっていく。時々、チクリと電気が走ったような感じがあって、でもそのすぐ後から同じところに優しくキスをされれば、そんな痛みは無かったことになる。貴大が動くたびに聞こえる、お湯が波打つ音。鎖骨より下を隠すふわふわな泡を、彼は優しく息を吹きかけ飛ばしていく。思わずぴくんと反応してしまったのを、貴大が見逃すはずがなかった。


「物足りなくなっちゃった?」
「なってない」
「言うと思った」


心底楽しそうに笑うのが、少し腹立たしい。精一杯の強がりは何の意味もなかった。ふいに、ぎゅうと強く抱きしめられる。ずっとお湯につかって温まった体同士がくっついて、触れ合ってる部分が熱い。どくどくと、どちらのものとも分からない鼓動が伝わってきた。心なしか、そのテンポは速い気がする。


「キスしよ、名前」
「うん」


なんでわざわざ言ったのか、名前を呼んだのかは分からない。だけどそのセリフの響きはとても心地よくて、簡単に私を素直にさせる。触れ合うだけのキス。唇をほんの数ミリ離して見詰め合って、笑いあってまた重ねあう。今夜のバスタブは、やけに甘ったるい。