「面倒臭い……」
投げられたそんな一言に、頭の中はぐらりと揺れる。はあ、なんて大きくつかれた溜息とその言葉。その後続きかけた「もう……疲れ、」なんて言葉は、目を見開き顔をハッとさせたサエの、彼自身の手によって喉の奥へと押し込められていた。
多分、相当に酷い顔をしていたのだと思う。サエの「その、」なんて少し下を向いた目、いつもなら合うのにな。なんてぼんやりとした頭で思う。
目の前はチカチカと白く瞬いて、言い過ぎてしまった……なんて今更後悔しても遅い。毎回そうだった。いつも、いつだって素直になれずサエのことを突き放しては、それでも優しく受け入れてくれる彼からの好意に甘えていた。自覚はたっぷりとある、なんせ十数年物だ。
「……ごめん、頭冷やしてくる」
「あ、みや……」
その辺に掛けられていた上着を引っ掴み、適当に放り投げていたスマホだけをポケットに突っ込んで、何も考えずに家から飛び出す。
サエも、なんだか酷く傷ついた顔をしていた。それが余計に申し訳なくなってしまって、思わず飛び出してしまった訳だけれど。
春が近いとはいえ未だ寒空の下、時刻は午後九時を過ぎたくらいで当たり前だけど辺りは真っ暗だ。
冷え込む中、パジャマにしているパーカーとジャージのズボン、靴下は履き忘れた上に適当に置いてあったサンダルを履いてきてしまった。大きさから察するに絶対にサエのサンダルだし、この上着もサエの。足元が無防備で本当に寒すぎる。
はあ、本当に愚かだ。大きな溜息をつけば真っ白な息が口から漏れ出る。
ああそうだ、忘れない内に位置共有は切っておかなければ。すぐ見つかってしまっても困るし……いや、今回こそは失望させてしまっただろう。探されることもなく、今日でこの関係も終わりかもしれない。
ずん……と暗い気持ちになって悪い方へと考えてしまうのはダメな癖だ。
なんとか気持ちを切り替えたくて、大好きな曲をふんふんと鼻歌交じりに歩いてみるけど、こんな事で気持ちが切り替わるなら、恐らく普段から暗い気持ちになんてなったりはしないだろう。
「ほんと、馬鹿だなぁ」
何となく今の自分への感想を呟いてはみるけど、そんなものは暗闇の中に吸い込まれて消える。
目的も宛もなくフラフラと歩けば、自然と足が向かった先は海だった。学生の頃は放課後、いつもみんなで遊んでいたなぁ、なんて。
……というか、もうこんな所まで歩いて来ていたのか。
そういえば、二人で住むと決めた場所も海からそう遠くは無い場所だった。色々条件とかを考えていた筈なのに、結局決まった場所は六角中まで徒歩で行ける範囲だった。今は実家より少し遠いくらいの場所に住んでいる。
潮の匂いが鼻腔を擽り、それがなんだか心地好い。ほんのりと吹く風は冷たいけれど、海の方へ来るのは久しぶりな気もするし、浜の方へ降りてみても良いかもしれない。
「うひぃ、寒い〜……」
海の方へと向かって歩けば、だんだんと砂に足を取られるのが億劫になってくる。こんなサンダルあっても変わらないか、なんて開き直って脱いでしまって。
片手でサンダルを持ち、それをぷらぷらと揺らしながら波打ち際まで近寄ればより風が冷たくなった気がする。ぼうっとしていれば距離感を見誤ってしまったのか、寄せる波に足が浸って思わずぶるりと身を震わせてしまう。
ああ、明日お休みで良かった。風邪を引いてもきっと大丈夫……なんて軽い考えと、今晩は帰れないかもしれないから最悪の場合は凍死か……、なんて嫌な考えが頭を過ってしまいふるふると軽く頭を振ってそんな考えを吹き飛ばす。
もう少し、もう少しだけ遊んだら帰って謝ろうか。いや、遊びじゃなくて頭冷やしに来たんだけども……。なんて一人心の中でツッコミを入れてみる。
どちらにしろジャージの裾がびちゃびちゃになると困る、膝下くらいまで捲りあげてから少し離れた位置にサンダルを放り投げれば……あ、両方ともひっくり返った。くそう。
いっそ濡れてしまったなら、足首近くまで入っても誤差みたいなものだろう。砂に沈む足だって、足首を撫でては引いていく波だって、頬を掠める風だって。今はなんだか全てが心地好い。どうせ死ぬなら海で死にたい。
──溺死は苦しいと聞くけれど、死んだら海に撒かれたい……とかくらいにした方がいいだろうか。
流石に寒くなってきて、ずず……なんて行儀悪く鼻を啜って暖を取るため首をすくめれば、上着からはサエの香り。ちょっとだけ、なんとなく寂しくなった気がする。
「……そろそろ、帰って謝んなきゃな……」
充分頭も冷えた。帰って謝って、そして、あとの沙汰はサエに任せて……なんて小さく溜息をつきぐるりと振り返れば、少し離れた先の道路に人影。こんな時間に、人って……変なの……。なんて己を棚に上げつつじぃっと目を凝らせば、その影はずんずんと近付いて来ている。
やばい、まさか警察!?だったら、こんなん絶対職質じゃん!なんて逃げるかどうかと身構えていれば、やっぱりこちらへ向かって走って来ているようで。
「都!」
少し怒りを含んだ、だけど心配していたと言わんばかりの顔と声で。それなのに何故か、酷く安心してしまった。これからしこたま怒られるかもしれないのに。
「おま、」
「っ、うぇ!?サエ!裾濡れてる!」
「何してたんだよ、なんで、こんな寒いのに海なんか、入って……まさか、」
こちらに向かってくるなり血相を変えたサエは迷うことなく海へと入り、ズボンの裾を濡らしながら私の元へと寄って来たかと思えば、グイッと強く抱き寄せられる。
呆気に取られてぽかんとしていれば、何故かサエは苦しそうな声で絞り出すように「ごめん」と何度も耳元で繰り返して、慌てて口を開く。
「な、何で!?えっ、と……その、謝るのは私の、方だし……」
「俺のせいで、なんで、海……死ぬのかと、」
「……えぇ!?あの、膝下まで裾捲った人間が、入水自殺する訳ないと思うの!!」
「……え、あ……」
視線をゆっくりと下へ落としたサエは、丸出しになった私のふくらはぎを見るなり、はあ……と大きく溜息をつきながら頭を抱える。
どうやらとんでもない勘違いをされていたらしい。そもそも、入水自殺するなら堤防とかから飛び降りるよ。たぶん。
「そ、の……。サエ……ズボン、濡れるよ……」
「はあ……とりあえず、もう出なよ。寒いだろ」
「う、うん。ごめんなさい……」
「ほんと……、都のお母さんに連絡してそれとなく聞いても来てないって言うし、位置情報は切られてるしで。俺、どんだけお前の心配したと……」
立ち上がらせるために差し伸べた手に重ねられたサエの手は、こんなに寒いのにぽかぽかと温かくて。多分、急いで私を探しに来てくれたのだろう。
嫌われたのかと思っていた。もうあれが最後かと思っていたのに、それでもこうやって探してくれるなんて。目頭が熱くなり、鼻の奥もツンとしてきた。
「ごめ、ごめんなさい……わたし、」
「大丈夫だよ、怒ってないから。俺こそ謝らなきゃ。……だから、泣かないで」
「ぅ……ゔ〜……」
ボロボロと堰を切ったように溢れ出す涙はそう簡単に止まるわけもない。頬を伝う涙を思わずゴシゴシ擦ってしまう。これ、サエの上着なのに。
「あ〜……擦ったらダメだよ、赤くなる」
「わた、し……さえが、許してくれるって、甘えて酷いことばっかしてる……」
「いつもの事だし気にしてないさ。今回はちょっと……タイミングが悪かっただけ」
立ち上がったサエはくしゃりと私の頭を撫でて、その手が無駄に優しくて。
グズグズと鼻を鳴らす中、手を引かれながら海を出てそのまま近くの洗い場で足についた砂を洗い流してくれる。
「拭くもの無いけど……まあサンダルだし濡れていいか。ほら、履いて?」
「……ごめんなさい、サエのサンダルと上着なのに」
「いいって。洗えば済む話だし……体冷えてるだろ。家に帰ったらもう一回お風呂浸かりなよ」
「そうする……」
先程はどっしりとした暗い気持ちで歩いてきた順路を逆方向へ、サエに手をがっちりと掴まれたままとぼとぼ歩く。
もう出て行ったりしないのに、掴む手にいつもよりやけに力が入っているのはそれ程までに私の家出が堪えたか、私が心配だからか。
ぼんやりとした頭のまま、ぽつりぽつりと言葉を零す。
「……今はね……サエに好かれてるって……多分、愛されてるんだって自覚はあるから。特に不安にはならなくって……」
「うん、……それなら良かった」
「だから、そんな所に胡座かいちゃってて。サエなら許してくれるでしょって、言わないでいいこと言っちゃう」
「……都は、わがままだね」
「……ごめんね、わがままで……。その、良く言えば、信頼してるからこそ邪険にできる。でもこれはいけないことで。親しき仲にも礼儀ありだから……」
ああ……今日は、なんだかいつもよりするすると自分の思うことを話せている気がする。言語化する事で頭を整理させたいだけなんだけど、より失礼なことを言わないかだけ少し不安だ。
「だから……、今回も私が全面的に悪い。サエだって人間だし、優しいから言わなかった事を今まで蓄積された分があって。なのに、より傷付けている私が泣いたり怒るのはお門違いだな……って。思いました」
「はは、いつもより冷静だね」
「頭、よく冷えたから……」
「……うん、そうだなぁ。俺、もう二十年以上君と一緒にいるから知ってるんだけど、都ってすっごく面倒臭いんだよ」
急に刺されてしまいグッと言葉に詰まってしまったじゃないか。だけど、そんなことで水を差しては申し訳ないし「うん」とだけ呟く。
そんな様子を見ながらふは、なんて小さく笑ったサエ。
「今、失礼だって思っただろ」
「……まあ。ちょっとだけ」
「あはは、あ〜あ。でもさ、俺はそういうとこ含めて全部好きなんだよ。ちゃんと分かってる、自覚があっての憎まれ口だって。そのくせして、傷つきやすいの……面倒でしょ?」
「言葉にされると、凄く」
「でも昔っからそうだし、そんなところも面倒臭いを通り越して……寧ろ可愛くて、愛しい」
「変だ……」
「ははは、失礼だな」
繋いだ手がご機嫌に揺れる。合わせて少しだけ繋いだ手を振れば、サエは楽しそうに笑いながら続ける。
「今更こんな事で嫌いになってたら、もうずっと前から嫌いだと思うよ。だから安心して憎まれ口言ってよ。都の全部、受け止めさせて」
「…………変だよ、サエって」
「あっ。今、好きだな〜って思っただろ」
「思ってない!!……いや、ぐ……知らないけど」
照れ隠しの代わりにどすり、腕を軽く引っ張って肩をぶつける。ああ…痛い、何故か私がダメージを受けてるんだけど……。
「素直な都も良いけど、捻くれた都が一番都って感じがするよね」
「……もう……その。最早貶してるよね……?」
「都の好きなところを言ってるだけだよ」
どうやらサエから見た私は、憎まれ口を叩く捻くれ者で面倒臭い女らしい。ちょっと凹むけど、事実だからなんとも言えない。
「面倒臭いと思ってる割に直してとか言わないし、サエがわかんない……」
「まあ、どんな都でも好きって事だよ」
「私ならなんでもいいじゃん、ほんと……」
はぁ〜なんて大きく溜息。悩んだところでサエは私の斜め上を行ってしまうから、どうしようもない。だから、甘んじてサエの言葉を信じいつも通りに過ごさせてもらうのが、これからも仲良く過ごせる方法……なのかもしれない。