▲キャットバッドフィッシング

イルミゾルディックは私の許婚だ。
私の意思と関係なく家同士が決めた都合の良い縁談ではあったが、別に端からキラキラした恋愛ごっこなんて人生で期待していなかった私は「あぁその時が来たんだなぁ」くらいにしか思わなかったてのが正直な感想。これは16歳の夏の事だった。
その後すぐに初めての顔合わせで、両家の両親と共に2歳年上だと言う彼と邂逅したが、これといって胸のトキメキも、嫌悪感すらなく「まぁこんなものか」といった心象で終わった。寧ろ次々に出てくる料理が美味しくて其方の方が記憶に残っている。
この時、彼が私にどういう印象を抱いたかは知らない。少なくともそれなりに可もなく不可もなく「まぁこんなものか」と彼が思う女には演じれていた筈だ。
その日の夜に相手側から次回のお誘いがあったのだから及第点は取れていただろう。

それなりの家柄のそれなりの器量を持ちそれなりに教養を養っている、それなりに弱い、それなりの女。

それが私だ。誰の前だろうとそれを一貫する。
そうあること望んだから、そういう「私」でいる。
何故なら、それが楽だからだ。




だったのにさぁ!

「イルミさん。婚約の際に取り決めましたよね?突然の来訪は控えて欲しいと。女性にはそれなりの身支度っていうものがあるんです」

語気を強めないように必死で怒りを抑えながら言葉を紡ぐが、目の前の男はちっとも悪びれた様子も無く「連絡は入れたよ」と一言。そう、連絡は来ていた。それを私はその日は都合が悪いと断っていた。今日だけはだめなのだ。何故なら今日の私は完全にオフの日だからである。何がオフかってそれは勿論、「私」。
18歳の誕生日の次の日。私は実家の屋敷にある自室とは別に、街中の小さなアパートの一室をこっそり借りた。
自室には語学だったり歴史だったり頭の痛くなる本を置いているが、此処にはファッション雑誌や流行の漫画。
ウォークインにずらっと並ぶ趣味じゃないドレスや値段もヒールも高い靴も此処には無い。あるのはゴムのウエストのジャージが上下2着くらい。誰も呼ばない私だけの空間。私の癒し。月に一度程、スケジュールを調整してこの部屋で一日穏やかに何もしないをする。それだけで「私」を維持できていた。少なくとも結婚するまでの唯一で最後の反抗だったのに。

「それでご用件は?」
「用事がないと会えないの?」
「いえ。あぁでもそうですね。丁度時間も頃合ですしランチでもどうですか?すぐに準備しますのでここは一度先に出て行って待っていて貰えますか?」

にこりと、微笑む。
なるべくいつものように。
正直私は今とんでもなく焦っている。
何故なら平然と会話をしているが、現在の私の姿はというと上記の通りジャージの上下で、すっぴん眼鏡に、ヘアバンドで髪をあげておでこも丸出し。片手にポテトチップスの袋を持ち、サブスクで推しの出ているドラマを見ているのだ。
こんな芋女モード親ですら見せた事もないし、見れば卒倒するだろう。
いやもうほんとなんで来るかなこの人。ていうか何でこの家の存在知ってるわけよ。ゾルディックだから?すげぇなゾルディック。もうゾルディックっていえば大体の論拠になりそうで怖いわい。

せめて事前に!事前に言ってくれさえすれば!もっとマシな状態で迎え撃てたのに!

なんて内心怒り心頭である。こんな所で暗殺者の本領発揮しやがったこの男はつい先ほど音と気配をフルで消して窓からぬるりと入ってきたのだ。
推しがキメ顔で良い事言うシーンをクッション抱いて見守っていたら突然どさりとソファの隣に座ってきた時の私の叫び声は、ここ数年で一番大きかったと思う。ともあれバレてしまえば仕方が無い。変に取繕っても意味が無いのは重々承知している。なので私はこんななりをしながら「ふふふ」なんて今更淑女ぶるのだ。何か文句ございますの?と言わんばかりに。

「いいよ。此処で待ってる」
「いえいえ。お待たせするのも心苦しいですから、どうぞ先に出てらして」
「俺が待ちたいだけだから別にいいよ」
「イルミさんの前で準備するのが恥ずかしいのです。どうか女心を分かってください」
「俺達もうすぐ結婚するんだよ?何が恥ずかしいの?」

あーーー、こいつーー。

いらいらいらいらするが私の笑顔は崩さない。体は幾度見られてもすっぴんを見られたのは初めてだ。
まぁすっぴんどころかこの状況がそもそもの話になるが、まぁもう起きてしまった事はいい。
どうにかここからいつも通りに軌道修正すればとりあえずよしとしよう。というかするしかない。

私はもう一度にこりと笑みを強くした。

「そうですね。すぐに支度します。お待たせしてごめんなさい。何もない部屋ですがゆっくりされててくださいね」

流れるようにテレビの電源を切り、携帯を掴むと浴室へ向かう。
廊下を歩きながら近くで待機しているであろうボディガードに手早く洋服一式買って来て欲しいとメールしていると、不意に手の中の携帯がひょいっと奪われた。驚いて振り返るとそこにいるのは私を見下ろすイルミさん。

「どう、されました?」
「俺さ。心配してたんだよ」
「えっと・・それは、何を、」
「▲▲のスケジュール。定期的に穴があるからおかしいと思って調べたら、こんな部屋借りてるし」
「此処は、その、なんていうか、趣味の時間と言うより・・その、あぁ!でももうすぐ結婚しますし、そろそろ引き払おうとは思ってましたよ?」
「うん。知ってる。そういうタイプだもんねお前」
「タイプ?というのは・・?」
「俺と似てるから。ちゃんと役割を理解してるって事。だからこの部屋が異質に感じてさ、もしかしたらって」
「もしかしたら?」
「・・別に。違ったしいいよもう」

なんだか歯切れが悪い返答が気にかかりながらも、そもよりも私は一刻も早くこの姿を彼の前から消したくて彼の手の中からするりと携帯を取り返すと手早く途中だったメールを送信する。
さっさと「私」に戻ろう。シャワーを浴びて化粧して着替えて明日にでもこの部屋を処分すれば何の問題もなくなる。その前にやんわりと彼にこの部屋の事を口外しないように口止めしないと。誰にって?そんなの私の両親に決まってらぁ。
なんて考えているとふと視線を感じ、目線を携帯画面から上に向ければすぐそこにあるイルミさんの顔。え、嘘。この状態でキスとかしたくないんだが。回避だ回避、と再び視線を画面に落とし身を翻そうとした、その時。
何を思ったのかがしりと頬を両手で掴まれる。添えられてる?いやいやこの力強さは最早両側からプレスされているみたいだった。

「▲▲」
「なんでしょう」

「今日のお前なんかいつもより可愛いね」

どんがらがっしゃんとなにか大きなものを落とされたような衝撃が頭を走った。
嘘でしょ今なんて言ったのこの人。さっき言われたように私達は許婚ではあるけれどお互いそれを役割の中の仕事として理解していた。だからそれに伴っての行為や行動はあれど、こんな、そんな、甘ったるい言葉言われるなんて!

呆ける私に「ははは」といつもの棒読みで笑った彼は何を考えたのかそのままキスを落としたものだから、私の顔はとんでもなく熱くなり、そのまま頭もオーバーヒートして、そして。

浴室へ走って逃げる事しかできなかった。

ていうか日頃あれだけめかしこんで猫被ってる時は褒め言葉なんて一言も言わないのに、あぁなんだかむかつくなぁ。