▲なむあみだぶつ
1日何をやっても上手くいかない日がある。まさに今日。気圧のせいか朝から偏頭痛は治まらないし、仕事でも小さな失敗が続いた挙句にお昼ご飯は持って行き忘れるし、しぶしぶ出向いた購買は臨時休業だし、上司には八つ当たりされるし、ようやく帰ろうとすれば雨。さらには常備していたはずの折り畳み傘が鞄に入っていない。天気予報を見てもどうもすぐに止む雨でもなさそうなので雨に濡れながら急いで近くのコンビニを目指したが雨具は売り切れ。タクシーも捕まらず、もう諦めるレベルで濡れてしまったので仕方無しにそのまま小走りで帰っているとヒールが折れた。
もうここまでくると悲しみよりも怒りが湧きあがる。
ずぶ濡れ上等だ、とスーツをぐしょぐしょにしながら1人暮らしの我が家に帰った私はすぐさま濡れたスーツを洗濯表記も守らず問答無用で洗濯機にぶち込み、下着姿のまま無心で風呂釜を掃除し終えると蛇口をマックスで捻り湯を張る。
いつもならシャワーで済ますのが常だが今日くらいはゆっくり浸かってご自愛しよう。そう考え湯が溜まるまでビールでも飲むか、と相変わらずの下着姿のままキッチンへと向かっている時だった。
「何してるの?イルミ」
玄関からずぶ濡れの腐れ縁野郎が入ってきたのは。
「帰ってたんだ。丁度よかった。風呂借りるよ」
そう言ってずんずんと床を濡らしながら風呂場に直行するイルミを私は引っ掴んだ。「なに?」彼はむすっとしてこちらを見る。無駄に綺麗で長い髪が顔に張り付いていてまるでお化けみたいだ。
「待って先に私が入るから」
「俺寒いんだけど」
「私もな」
「下着姿でうろうろするくらいは元気だろ」
▲▲って子供体温じゃん。と再び歩き出すイルミ。の腰にすかさずしがみつく。「家主優先!」「は?▲▲のくせに生意気」わあわあ、ぎゃあぎゃあ。腐れ縁のこいつは子供の頃から相変わらず我侭で横暴で、
「もういいよ。仕方ないから▲▲も入ったら?」
きっと私の事を女だと知らないのだ。
ざぶんと音を立てて湯船からお湯が溢れる。「勿体無い」「狭い」当たり前だがごく一般的な1人暮らし向けアパートのユニットバスなんか狭いに決まっている。
案の定大人2人で入ればぎゅうぎゅうだ。
「ちょっとそっち詰めて。足伸ばしたい」
向かい合って入るより広いだろうと、せめてもの妥協案で私はイルミの足の間に入り背中を預けるように移動した。これで幾分スペースを確保できる。私は今日一日の全身の疲れがお湯に解されていくのを感じ、あーーと情けない声を漏らす。「疲れたあ」と呟けば眉を潜めたイルミがこちらを見下ろしてきた。
「向いてないんだから辞めればいいのに」
その視線から逃げるように天井を見上げる。ぽつぽつと結露が顔に当たって、冷たかった。
確かに向いていないのは自覚している。この有名な暗殺者様と腐れ縁なだけあって、私の家も同じように子供の頃から人を殺す技術ばかり学んでいたのだ、今更一般人の中で普通に働いて普通に生活するのはある意味どの修行よりも大変だった。そして終わりが無ければ得るものも少ない。
「▲▲、痩せたね」
「おいやめろ触るな」
「体がなんかさらに貧相になった」
「悪かったわね」
腹に絡み付いてきた腕を退かそうと四苦八苦してみたが、ざぶんざぶんと湯船から湯が少なくなるだけなので聡明な私は諦めて彼の体に体重を預けることにした。そんな私の頭に顎を乗せながらイルミが「ねぇ、」とおもむろに切り出す。
「今度面倒な仕事があるから手伝って欲しいんだけど」
「しつこい。やらないってば」
イルミがじっとこちらを見てきたのでその視線から逃げるように私は目を閉じる。私のこの選択を未だに受け入れてくれない彼は事あるごとにこうしてバイトの斡旋をしてくるのだから迷惑な話だ。私は今のままでいいの。この普通の暮らしってやつが。
「その割には抜けきれてないじゃん」
頭上から聞こえたその言葉に一瞬浴室が妙に静まり返ったのを肌で感じた。ぴちょん、ぴちょんと結露が数滴落ちる間にその言葉の意図を察した私は「…見てたの?」と目を閉じたまま声を出せば「うん」と全く悪びれる様子もない返答。くそ、こいつ…!本当に意地が悪いんだから!
「腕は訛ってないみたいだね。寧ろ活き活きしてたよ」
1日不運でストレスMAXだった私がヤケクソで雨の中を帰っていた時に、本当に面倒くさい奴らに絡まれた。男数人、若くて半グレみたいな風貌だった気がする。確かにずぶ濡れで走る女は滑稽だしチョロいと思ったのだろう、声をかけてきたのをOL生活で培った愛想笑いでやり過ごそうとしたが、車で並走してきた挙句に無理矢理連れ込まれたのだから、少しばかり対処した。だって早く帰りたかったのだから。
「やむを得ず、ってやつですよ」
「嘘だ。楽しそうにストレス発散してたくせに」
私の頭に乗せられた奴の顎がまるでどうなんだと責め立てるようにぐりぐりと力を増す。
「中途半端な事しないで帰ってきなよ。今日みたいな事初めてじゃないんだし、今のお前ただの猟奇殺人犯じゃん」
馬鹿みたい。と何故かため息を吐かれたので私はゆっくり目を開けると「分かってないなぁ」と苦笑しながらイルミを見上げた。
「だからこの生活は大変だけど楽しいの。私の手の中で、私の気分一つで死んでしまうような儚い人達が健気に偉ぶりながら生きてて、私は態と知らんぷりしながらそれを眺めているの。ハマるよ?神様になったみたいで」
考えただけで嫌でも溢れてしまう笑みを堪えると、一瞬目を丸くしたイルミは何故か「ふーーーん」と意味ありげに答えた後に私の腰に回す腕をさらにぎゅっと締めながら「相変わらずサイコで安心した」と肩に顔を埋めてきた。
「…ねぇ、ちょっとイルミ」
「なに?」
「あんたも大概人の事言えないじゃない」
むくむくとお尻に当たり始める硬い物に私は顔を歪める。こいつ、最低だ。
「今の流れで興奮する要素どこよ」
「え?………全部?」
「お前まじかぁ…」
体がさらに冷えた気がした。