▲じわじわり

今から9年か、10年程前のあの日。
本当に、本当に何気なく私を動かしたぺらっぺらの偽善を今でも悔やみ続けている。



「おかえりー」

今日も一日仕事を終えてくたくたの体を引き摺りながら家に帰宅した私は玄関の扉を開けるなりそこにいる彼を見て溜息をこぼした。
彼はいつもふらりと現れては平然と我が物顔で我が家に居座る、まるで半野良猫を飼っている気分だ。いや猫ならまだ可愛らしいか。彼に関しては可愛さよりも頭を抱えることの方が圧倒的に多い。

あの頃。
私は念願の1人暮らしを始めたばかり。初々しい社会人。
とにかく新しい事だらけで毎日大変だったが、不思議とネガティブな感情は少なくあっという間に一日を終えるようなそんな可愛らしい20歳だった。
そんなちょろすぎる世間知らずな私は、今思えばブラック極まりない残業時間を終え肉体的にへろへろに疲れた情弱脳に上司の気まぐれのお褒めの言葉と気になっていた先輩からのお疲れコーヒーが同時投与されたことでドーパミンどばどばの変なハイになりながら帰宅していた。
嬉しさで疲れが吹っ飛んだと錯覚しながら家路を目指す最中、何気なく普段通らない裏路地を近道だと思い出しそこを通ってしまった。

そして、出会ってしまったのだ。
こいつに。

「ねぇ冷凍庫にあったアイスがないんだけど」
「え?昨日食べたよ」
「は?あれ俺のなんだけど」
「は?私が食べたくて私が買ったやつですけど?」

「は?」「あ?」と睨みながらイルミが踏ん反り返るソファに私も無理矢理座ると「せまい」と呟きながら彼は嫌そうに顔をしかめる。痛いくらいに感じるその視線に私答えない。狭いじゃない。文句を言わない。これは私のソファなんだ。とあくまで毅然とした態度でテレビをつけるのだが、横から伸びてきた手が私からリモコンを奪い取りぶつりと画面を暗くする。

「ちょっと、」
「▲▲さぁ最近生意気じゃない?」

俺に反抗してくるよねー。と続ける彼に文句を言ってやろうと其方を見てぞっとした。すぐ目と鼻の先にある鋭いソレ。
近すぎて一瞬なんだと思ったがこれが分からないほど伊達に長年こいつに付き合ってないし、馬鹿じゃない。

「刺されたい?」

冗談か、本気か。その真っ黒な目と抑揚の無いトーンからは判別が難しい。まぁイーブンといたところだろうか。まじで普通にこいつならやるだろうし。私は今日何度目か分からない溜息を吐くと空いている手でえいっと軽くイルミの頭をチョップした。

「生意気なのはどっちよ」

ふんと唇を尖らせて見たがそれでも針と視線が離れないので仕方なしに「今度からは2個買っておいてあげるから。一緒に食べよ」と笑うと、どうやらこれが正解だったようで針先はゆっくりと私から離れていった。ふぅ、セーフセーフ。

「今日は泊まってくの?」
「いやもう少ししたら行くよ。仕事なんだ」

「あら珍しい」そういうと彼は少し考えたように天井を見上げた後、「まぁもういいか」と呟いた。

「なにが」
「おめでと」
「だからなにが」

「誕生日」

は?反射的に壁にかかる時計を見ると23時50分。確かにあと10分後に私は誕生日を迎える。「やだなに?わざわざ言いに来てくれたの?」思わぬ祝福だ。素直に嬉しくてありがとう、と笑うと彼は「今回は特別だからね」と私を見る。

「どういう意味?」
「30歳でしょ。おめでとう」

その顔ですぐに分かった。そのおめでとうは決して純粋に祝っているのではないと。前言撤回。嬉しくない。

このイルミという男、初めて出会った頃は15歳だったか、それはそれは可愛い子だったのに。
あの二十歳の夜、普段通らない道を通って帰っていた私は怪我をして蹲る彼を見つけた。今思えば私なんかが気を遣わずともすぐに御抱えの執事達が迎えに来ていたのだろうが、そんなお坊っちゃまだとも腕利きの暗殺者だとも、ましてやあの有名な一族だとも想像だにしていない私にはその幼い彼がただのチンピラに絡まれて怪我した子供くらいにしか見えなかったのである。
そして、本当にただの親切心で声をかけ、病院を拒む彼を連れて帰ってしまったのだ。これが全ての始まり。歳を重ねるにつれて私の人生にじわじわと侵食していく、彼のせいでもう長らく恋人もいない。だからといって彼は恋人ではない。彼に恋人がいるのかどうかも知らないし興味もない。

「ここまで邪魔したんだからいつかはあんたが責任持って私と結婚してよ」
「嫌だよおばさんじゃん」

本気で死ねと思わず睨みつけると、それはそれは満足そうに目を歪ませた奴は口元を緩めながら私の頬を軽く抓った。

「でも安心しなよ。▲▲は死ぬまで俺が面倒見てあげるから」
「嫌がらせの間違いでしょ?」