▲Je baiserai ta bouche
「ちょっとねぇ本当に困ってるんですよこっちは」
メインディッシュに出てきた聞いたことの無い魚のポワレを口に運びながら私は目の前のピエロを睨む。 こんな相手と心情じゃなければこのレモンが効いたバターソースに感動していただろうが、 今日は食事を楽しみにわざわざ来たわけではない。
「僕に言われてもねぇ」
文句を言いに来たのだ。
事の発端は数ヶ月前。
馴染みのバーに顔を出した際にこれまた馴染みの顔であるヒソカを見かけた。
別にこの男とは寝た仲でもこれから寝ようとしている仲でもなんでもないのでいつものように声をかけて一緒に飲もうとしたのだが、 思えばそれが私のミスだったのだろう。 その時に彼の連れで来ていた男と知り合うことになり、それがまさに私が今、頭を抱えている原因になるイルミゾルディックだった。
「でもまさか彼がそんなに情熱的だとは知らなかったよ」
「おいお前。ちょっと楽しんでるだろ」
ふざけんな、とフォークを向ければ「行儀が悪い」だ、なんて。ヒソカに正論を説かれるのも癪だった私はこのまま投げつけてやってもよかったフォークを再び魚に刺した。
「イルミゾルディック、忌々しい・・!」
第一印象は特別良くも悪くもなかった。 まぁヒソカの知り合いな時点でまともな人間ではないだろうとは思っていたが。 ただ名前を聞けば嫌でも素性は分かるし、私も裏で生業をする人間なので目をつけられない程度に利用できるコネクションになればとそこそこに愛想は良く接した。 それだけだ。本当にそれだけ。 別に媚を売ったわけでも猫撫で声でおっぱいを押し付けたわけでもなんでもない。
それなのに何がそんなに気に入られたのか、たかが数時間バーで一緒に飲んだだけのあの日から私の日常に奴の存在が無理矢理捻じ込まれ続けている。
最初はメールや電話から始まり、オンオフ関係なく出先にまで現れるようになり、先々週辺りから家にまで現れたので即行共通の知人であるヒソカにアポを取った。 直近で会えたのが今日というわけだったのだが本音を言えば家に来た当日に彼を引き取って欲しかったのはいうまでもない。
初日は玄関前で律儀に待っていた彼だったが、今では平然と家の中で寛いでいるし、 一線は越えてないにしろ目が覚めた時にベッドに潜り込まれていた恐怖たるや。
今では立派なストーカーだ。
いやストーカーってもう少し控えめだよね。
奴の場合はなんだかもうあまりにも主張が強すぎて私の中で怖さよりも困惑が勝つ時が多いのだ。
隣で寝ていた時も「おはよう。狭いベッドに無理矢理一緒に寝るのはお止めなさいって」なんて寝起き一発目の頭をフル稼働して声をかけたが、 翌日届いた私の寝室には合わないサイズの馬鹿でかいベッドを眺めながらもっと違う言い回しにすればよかったと後悔したのは忘れられない。今後の教訓にした。
え?警察?通報?イルミゾルディック相手に?
ふざけんな存在自体が治外法権じゃい。
「あいつ私のスケジュール全部知ってるの。なんで?こっちはフリーランスだよ」
「いっそ管理してもらいなよ」
「情報が欲しかった上客との会食で店に着いたら相手死んでたパターン2回あったんだけど」
「・・・ワァ」
見覚えのある針が頭に刺さった上客の無惨な姿と、「これ浮気だから次はもうないよ」と淡々と言い放った彼の顔を思い出しながら深い深い溜息を吐く。
なんでだろうなぁ。
イルミはぶっ飛んではいるが私やヒソカのようにのらりくらりと生きている人間と違いあのゾルディック家、 言ってしまえば良い所の御坊ちゃま。そんな奴にこれほど執着されるような特別な容姿も人間性もコネも財産も私にはない。
おそらく彼の恋愛感がそういうものなのか、もしくは一過性のものだろうけど、やっぱり変な奴だなぁ。なんて考えながら私はふと窓の外を見た。 私達が座っているのは通りに面した窓際なのだが、ありふれたこの景色にどうも違和感を感じる。何気なくそれをぼんやり眺めているうちに小さく見えていたそれが徐々に大きくなってきて。 大きさとかではなくそれは近付いてきているのだと気付いた瞬間、私の足先からどんどんと冷えが全身にあがってくる感じがした。
「ねぇヒソカ。今日の事イルミに話した?」
私の視線は窓の外を見たままだったが、ヒソカが「?」の顔をしたのは見なくても分かった。 分かった瞬間こりゃまずいと察した私は立ち上がり次の料理を運んでくるウェイターの脇をすり抜けて裏口へと続くであろう厨房に向かって走り出す。 背後から食器が割れる音と「え、なんで君がここに」と珍しく慌てた様子のヒソカの声が聞こえたが、聞こえなかったことにしよう。
「次はないって言ったよね」
飛んできた針をぎりぎりで避けながらヒールを投げ捨て裸足で私は夜の街を走りだす。
聞こえない。見えない。知らなーい!