参ノ壱

一瞬景色が揺らいだと思った次の瞬間、広い庭の中にいた。左には大きな屋敷、右には青葉を繁らせる森。人気がなく静かで、不思議な雰囲気が漂っている。現世でも常世でもない狭間の世界、と担当者は言っていたが、しっくりくる言葉はそれしかないのだろうと思った。


「審神者様。」

「あ・・・、はい・・・。」

「ひとまず中に入りましょう。屋敷をご案内致します。」


管狐はここの構造や仕組みをすべて頭の中に収めているらしく、屋敷内を案内しながらあれこれ説明をしてくれる。ほとんどは今まで生活していた屋敷と変わらないが、刀剣の鍛刀部屋や刀剣の手入れ部屋など、専用の施設を見れば、やはり今までとは違う生活になるのだと実感した。


「では次は、鍛刀部屋で山姥切国広様、三日月宗近様、小狐丸様を顕現致しましょう。」

「・・・顕現・・・。」

「はい。そちらの数珠丸恒次様のように、人の身体を与え、あなた様と契約をするのです。」

「・・・・・・。」


神楽は複雑な表情で三日月宗近を見つめた。
顕現すれば数珠丸のように、目を合わせ、言葉を交わすようになる。彼が腰に帯びていた、三日月宗近と。


「・・・主、決心がつかないなら、初期刀だけでも顕現してはどうです?」

「・・・いいえ・・・。」


きっと今出来なければ、二度と顕現出来ない。それだけ神楽にとって、三日月宗近は思い入れのある刀だった。


「・・・顕現します。」


鍛刀部屋に座り、中央に三振りを置く。上座に近い位置に神楽、部屋の奥に数珠丸が控え、こんのすけが導いた。

呼吸を落ち着け、目を閉じる。今まで霊力など意識したことはなかったが、この不思議な空間に入ってから、ずっと胸の辺りにざわめくものがある。そこから糸を伸ばし、三振りと繋げていく。触れた場所からざわめきが流れ込むように意識を集中させると、カッと光が溢れた。
目映い白の中、長い指が伸びる。慈しむように触れたそれに目を見張ると、この世のものとも思えない美しい男性が、優しく微笑んでいた。


「・・・なんと懐かしい顔よ。」

「・・・?あ、の・・・?」

「俺は三日月宗近。・・・今やお前の刀だ、主よ。」

「・・・み・・・か、づき・・・。」


細面に切れ長の涼しげな目元。その瞳に月を宿し、優美な微笑みを唇に浮かべている。
ただ隠しきれない懐かしみと慈しみがあって、さすがに戸惑う。身を引くようにすると、三日月は目を丸めた。


「主よ、どうした?まさか俺が分からぬなどとは言うまい?」

「・・・よく、存じております・・・。」


あなたは、あの人の悲しみと共に在るのだから。


「・・・これから、宜しくお願い申し上げます。・・・三日月様。」

「何を他人行儀な。三日月と呼べ。お前にそのようにされると胸が痛む。」

「は・・・、はあ・・・。」


何とか距離を図ろうとするのだが、三日月は腕を掴んだまま離さない。どうしたものかと考えていると、後方から声が上がった。


「三日月。お主がそうでは、我等がぬしさまにご挨拶できぬであろうが。」

「おお、すまぬな。」


優雅な所作で神楽の前から退くと、二人男が増えている。座っている位置からすると、向かって左が山姥切国広。右が小狐丸だろう。どちらも個性的な外見だ。特に山姥切など、頭から被っている布のせいで顔がよく見えない。なぜ布を被っているのだろうと眺めていると、小狐丸が恭しく頭を下げた。


「私は小狐丸と申します、ぬしさま。」

「あ・・・、こちらの審神者と相成りました。未熟者ですが、宜しくお願い申し上げます・・・。」

「私のぬしさまはずいぶんと可愛らしい。」

「・・・申し訳ありません・・・。頼りないとは・・・思いますが、どうか・・・お力を・・・。」


戦をするために呼ばれたのに、主が小柄で年若い娘では不安もあるだろう。ペコリと頭を下げると、小狐丸は「頭をお上げください。」と慌てて神楽の手を取った。


「けしてぬしさまを貶めたわけではございませぬ。こんなにも愛らしい御方にお仕えできることを喜ばしいと感じたのです。」

「愛・・・らしい・・・?」


この美男子はいったい何を言っているのだろう?と首を傾げる。三日月ほどではないが、小狐丸も相当に美しい男性だ。何やら頭に耳?のようなものが見えるが、髪の毛の一部のようにも見えるし、誰も気に留めていない。とにかく、彼のような美しい男性に褒められる要素がないため、意味は分からないが、彼は主をただ何かしらの言葉で褒めたかったのだろうと解釈した。


「あの・・・あなたは、山姥切国広様、ですか・・・?」


未だに黙りこくっている男に、思いきって尋ねてみる。すると男は、目深に被った布の端から、ちらりと目を覗かせ、「・・・そうだ。」とだけ呟いた。

三日月と小狐丸は政府から下賜された刀。数珠丸に至っては、意識がない間に顕現していた。

だが、この山姥切国広は違う。自暴自棄になっていたとはいえ、彼は自分が選んだ刀。彼こそが、ここでの始まり。
罪悪感と高揚感が、複雑に絡み合い、またひどく懐かしくなる。

その理由は、彼の声。
天下五剣、大典太を振るうことを許された、悲しく孤独な目をした美しい彼。


「・・・実彰殿・・・。」

「・・・?誰だ、それは。」


ああ、やはり。あまりに声が似ている。彼より感情は顔に出やすいようだが、無愛想に思われがちな落ち着いた淡々とした話し方も、心地好く低い音もそっくりだ。
昔から、側にいると安らげて落ち着いた、年上の優しい剣豪。髪の色は山姥切が金で彼が銀だが、浮世離れした美しさも近く感じる。
何にも執着しないように生きてきたが、何もかも失って、やはり苦しくて。半ば自棄で選んだのに、これも御仏の慈悲だろうか。
神楽は震える手を固く握り、叫び出したい衝動を堪えながら、彼に頭を下げた。


「・・・はじめまして、山姥切国広様。名を明かせぬ御無礼をお許しくださいませ。」


何の躊躇いもなく頭を下げた神楽に、山姥切は布の中で、ギョッと目を丸めた。まるで主従が逆のような状況だし、あまりに恭しい。山姥切は慌てて「や、やめろ・・・!」と肩に触れようとしたが、結局引っ込めた。


「・・・わたくしのような者に扱われることは、本意ではないかと思います。ですが、精一杯・・・」

「だからやめろ・・・っ!あ、あんたは主だろう!」

「・・・そのようですが・・・、皆様は神であると伺いました。神仏に畏敬の念を抱くのは当然です。」

「か、神・・・?あんた、ちゃんと聞かされてきたのか・・・?」

「え・・・?」


ぽかんとしていると、数珠丸が「線引きが難しいのです、我々は。」と言った。


「付喪神は長い歳月を経て物に宿る存在。神と解釈する者もいれば、精霊と解釈する者もいて、妖怪などの妖と同じと解釈する者もいます。それは信仰にもよりますが、曖昧で難しいのです。」

「・・・そう・・・なのですか・・・。であれば、わたくしはやはり、皆様を神だと思います。」

「ほう、その理由は?」

「・・・皆様は、とてもお美しく、神々しいです・・・。まして現世を救うために戦うのであれば、なおさら・・・。」

「うむ、確かに表向きはそうだが、些か違うな。」

「え?」

「俺は人は好きだし、現世に思い入れもある。だがそれは俺が存在していた世界であって、ここではない。」

「・・・?ここではないけれど、現世・・・?」

「要するにだ、俺が守りたいと願うのは、お前と信春がいた世界であって、ここではない。」

「・・・!」

「ならばなぜ戦うかと問われれば、それはお前の命だからだ。お前以外の人の子の命であれば、今しばらく様子を見ていたさ。」


三日月の言葉は、周囲には優しく聞こえるだろう。心から力になろうとしているのだと安堵すらするだろう。だが神楽は、ぐ・・・っ、と拳を握りしめた。


「・・・あなたは、信春様を大切に思っていたのですか・・・?」

「もちろんだ。信春は素晴らしい使い手だったからな。」


ぱき、と。
何か、どこかでヒビが入ったような音がした。
身体が震える。目の奥が熱かった。


「・・・では、なぜ・・・」

「うん?」

「なぜ・・・、信春様の求めに、応えなかったのですか・・・!」

「・・・!」

「信春様がどれだけ・・・、・・・っ!」

「主・・・!」


今にも泣きそうな顔で責め立てるかと思えば、神楽は拳を強く握り締め、鍛刀部屋を出ていく。残された者は数珠丸以外、何のことだか分からず三日月を見遣ったが、彼は素早く立ち上がると神楽の後を追って出て行ってしまった。

信春は神楽にとって、兄にも等しい。数珠丸はよく知らないが、三日月は信春を使い手として認めていたが、五剣が持つ力を振るわせてはいなかったようだし、おそらくその辺りの事情が関係しているのだろう。
三日月にはこのまま本丸にいてもらわなければならない。うまく和解してくれればいいが、と数珠丸は襖の隙間から覗く青空を見上げた。

それにしても、だ---。
あの初期刀、まさか黒羽実彰にあれほど似た声をしているとは、予想外にも程がある。
神楽の執着を強めてしまうだけの害悪だ。
突然走り去った神楽に呆然としている山姥切の後ろ姿に、数珠丸は暗い感情を向けた。