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デュランダルの声に二人は口をつぐみ、イヴァンはジュディスから目を逸らした。それを眺めた後、デュランダルは粥を入れた鍋をサイドテーブルに置いてイヴァンの頭を撫でた。

「心配なのはわかるが、カロルが待っているよ。時間厳守は鉄則だ。」
「・・・はい。」
「俺が看ているから、お前も気をつけて行っておいで。」

優しく促しているようでいて、反論を許さない声色にイヴァンはジュディスを見遣ったが、あえて彼を見なかった。

「・・・帰ったら、また来る。お大事にな。」
「ありがとう。」

部屋の扉が閉まり、軽やかな足音が階段を下りていく。それが聞こえなくなると、デュランダルはジュディスに粥を勧め、薬を取りだした。

「自分の気持ちを殺してはいけないよ。」
「・・・!」
「構わないじゃないか。好きなうちは好きでいるといい。誰も咎められはしないよ。」

食後の薬を用意し終えたデュランダルは、スプーンを手渡しながら言う。まるで今日の天気を話すように。ジュディスの感情が、ありふれた、当たり前のもののように。

「・・・知っていたの?」
「ああ。」
「・・・そう。」
「あの子は見る目がないね。お前ほどの女を袖にするなんて。」
「・・・彼に届く言葉を持っていたのが、リタとカロルだけだったのよ。仕方がないわ。」

そう、仕方がない。
すべて仕方がないことだ。

「・・・旅の間、イルーチェに届く言葉をレイヴンが、レイヴンに届く言葉をイルーチェが、・・・そしてイヴァンに届く言葉をリタとカロルだけが持っていた。私は・・・いつも傍観者だわ・・・。」
「それは違う。確かに特別な相手や言葉は誰にもあるだろうが、お前の言葉や存在が誰にも届いていないわけではないよ。」
「・・・おじさまほどの人の言葉なら、誰にでも届くでしょうね。」

ひねくれた物言いであることは理解していた。普段なら絶対にこんなことは言わないのに、やはり熱が出たせいで気持ちが弱っているのかもしれない。粥から立ち上る香りすら感じないほどに。
デュランダルはそんなジュディスを見つめ、やがて鍋を取り上げる。そしてベッドの端に座った。
「・・・おじさま?」と見上げると、彼はジュディスを抱き締め、後頭部を撫でた。

「・・・世の中には難しいことが多い。些細なこともままならないこともある。けれど、お前は一人ではないよ。」
「・・・おじさま・・・。」
「お前が一人きりでいる時間は、もう終わったんだよ。風のようにどこかへ飛び立ったとしても、帰る場所はここにある。」
「・・・ここ、に?」
「どうしても寂しくて、誰かに会いたくなったら、ここに帰っておいで。ここにはいつも俺がいる。・・・お前の帰りを待っているから。」

まるで娘に語りかけるかのように、彼はただただ慈しみに満ちた腕の中で言った。

「・・・あ、違うな。お前には大きな友人がいたね。」
「・・・ふふ、そうね。」
「すまなかったね、孤独ではなかった。けれどそれを思うとすごいじゃないか。俺達ではどうにもならない高位の存在にすら、お前は愛されているのだから。」

ゆっくりと、眠りに誘うかのように撫でる手に抗わず目を細めると、なぜか泣きたくなった。思っていたよりもずっと、自分は彼をすきだったのかもしれない。

「・・・おじさまは、こんな気持ちになることはあるの?」
「・・・そうだね、あるよ。」
「・・・そうなの?」
「むしろ、俺はずっと一人だったから・・・未だにまだ一人でないことが信じられない時があるよ。」

ずっと一人だった、と語ったデュランダルの顔を見上げると、思っていたよりずっと距離が近い。鼻先が触れそうなほど側に顔があって、その迫力と美しさに息を飲んだ。

「・・・けれど、やっぱり一人と変わらないのかもしれないね。もうあの子も、たった一人を見つけたんだから。」

妻と娘を守るためにした選択は、彼から家族とのかけがえない時間を奪った。
9つだった幼い娘は今や22歳。流れた時はけして取り戻せない。彼は妻と、目一杯イルーチェを愛したかっただろうに。
娘の成長を見つめることも出来ず、妻さえ永遠に失った彼の痛みは、きっと恋を失った痛みとは比べ物にならない。

「・・・おじさまが待っていてくれるなら、私はちゃんと帰って来るわ。」

優しくて悲しいあなたが、お帰りと言ってくれたら、どこだろうとそこが居場所になる。

「・・・だからおじさまは一人ではないわ。」

背も高い、知識も見識も深い、不可能すら可能にしそうな彼のような人が、自らを孤独と口にするのは、堪らなく胸が痛む。
皆が必要とする人だ。このギルドでなくても、彼はどこでだって必要とされるだろうに。
それでもその心に根深い孤独があって、寂しいのだとしたら、少しでも和らげたいと思った。
彼が今、ジュディスの孤独感を癒したように。

「先のないおじさんに何を言うんだか。俺じゃなければ、勘違いされてしまうよ。」
「・・・嘘だと思ってるの?」
「気持ちは嬉しいよ。でもお前もいつかは、自分の相手と出会ってここを出ていくだろうからね。」

本気にするだけの価値がない言葉だと、彼は言いたいのだろう。だがジュディスにはこの先そんな相手と巡り会うような気がしなかった。

「・・・そんな相手、きっともういないわ。」
「もったいない。これだけ綺麗で稀に見る魅力的な身体なのに。」
「それおじさまでなければセクハラよ?」

くすくす笑うと、デュランダルはぎゅっとジュディスを抱き寄せて背を撫でた。

「お前がまた笑えるなら、セクハラでも構わないよ。」

温かい腕の中で、優しい言葉をたくさんもらって、彼に愛される女は幸せだろうと思った。
イルーチェと同じ歳で父を失い、代わりにバウルと出会った。あれからずっと、こうして無条件に甘やかされることなどなかった。
これは紛れもなく愛情だ。目に見えないそれは、あまりに深く、甘い毒のように染みていく。
こうして触れあっていても、彼の鼓動に変化はない。それにひどく安心して、ジュディスは目を閉じた。
優しく力強い支えをくれる彼は、確かに子の親なのだ。
雑音と曖昧な定義、理不尽に満ちた世界で、彼の言葉は迷いを拭い、真っ直ぐで祈りにも似ている。

「・・・ありがとう、おじさま。大好きよ。」
「俺もお前が好きだよ。お前は聡明で豊かで、優しい。」

大きな手が、痛みに固まっていた心を溶かしていく。

(・・・イルーチェも、こんな気持ちを、レイヴンに抱いたのかしら・・・。)

目の前の景色が一瞬で光に満ちるような、奇跡のような瞬間を見て、闇の中に一筋灯台の灯りを見つけたような、そんな感覚を抱いたのだろうか。

「・・・私ね、誰かを好きになったの、初めてだったのよ・・・。」
「あの子で良かったね。イヴァンは素晴らしい子だから。お前は見る目があるよ。きっと次は、素敵な恋ができる。」
「・・・実らない想いに、価値はあるかしら。」
「この世界に人が溢れる中で、数少ない一人と出会えた喜びを知れたということは、それだけで素晴らしいことだよ。」

たとえその想いが叶わなくても、届かなくても。

「愛を知る者は優しく強い。その中でもお前は、とりわけ情が深くて優しい女の子だよ。すぐに元通りにはなれないだろうし、しばらくは辛いだろうが、いつか優しい思い出になる日がくる。」
「・・・・・・そうだといいわ。」
「お前の恋は素晴らしいものだった。だから捨ててしまってはいけないよ。辛くなったら、いつでもおいで。俺がこうして抱いてあげるから。」
「・・・街の女の子達に刺されてしまわないかしら。」
「そんな有象無象より、俺はお前が大事だよ。」

臆面もなく大切だと言ってくれる人がいる。
必要だと抱き締めてくれる人がいる。
その事実は、今のジュディスには何よりの薬だった。
出来ることなら、ずっとこの時間が続けばいいのに。そう願って、ジュディスは頬を擦り寄せた。



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