"ヒプノシスマイク"
武力を放棄し、女性が主権を握った現代社会において、男性が所持を認められた自由の象徴である。
ヒプノシスマイクによるチームバトルは大きく分けて2種類に分類される。
取り締まりがない路上バトル。個人戦もあればチーム戦もある。ルールなどない、ただの小競り合いに近いだろう。
街の傍らで行われるヒップホップは役人に見つかれば法によって裁かれるが、時に人を集め、時に人をその世界に駆り立てる原動力となっている。
大きな会場で行う公式的なチームバトルは主に中王区が管轄しており、エントリーできるのはそう数は多くない。
その中でも勝率が高いチームほど、報酬や利権が多く手に入る。
完璧な実力主義の社会である。
しかし勝率が高くなればなるほど中王区の目も光り、常に鎖で繋ぐかの如く、有権者から要望や個人的な依頼を受け渡される。
女性による女性のための男性を犠牲にした社会。
これが今のH歴である。
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自分が参加しているチーム"The Dirty Dawg"はその勝率や人気から、多くのライブで声がかかる。
今回も中王区からの要望により、■■ディヴィジョンでのライブに参加したのだった。
結果はもちろん此方チームの勝利だが、ヒプノシスマイクでの強力な音波は敵だけでなく、味方チームメンバーにまで向かってくる。
敗北でも勝利でも、蓄積されたダメージに対するヒーリングを受けるのがバトル終了後の常識だ。
「じゃ、僕おねーさんと用事あるからバイバイ〜!次のバトル決まったらまた連絡するね!」
「俺も上がる。寂雷先生、お疲れ様っす。....おら、寝てねぇで帰るぞ一郎」
「うぃーっす...先生、お疲れっした...」
「飴村君、碧棺君、山田君、お疲れ様。また次のライブで。」
夜も更け、時刻は23時。
中王区の医師が行うヒーリングも終了し、The Dirty Dawgのメンバーは各々解散していく。
チームメンバーの一人である私ーー神宮寺寂雷も、帰宅しようと身支度を整えるが、ふとライブ前の事を思い出す。
「そういえば、私はまだ帰れない用があったね...」
ライブ前に突然電話があり、こちらに来ることはわかっているが、ライブ終了なら4時間ほど経つ。
明日は休みだからまだ良かったが、ライブで疲労した身体を早く休めたい。
時計を確認したタイミングで、楽屋のドアが開く。
そこに立っていたのは、高圧的な女性ーー勘解由小路無花果。
テレビや新聞でも引っ張りだこな彼女が、今回のクライアントとは。
内心溜め息をはきつつ、職務上で使いなれたポーカーフェイスで応対する。
「私に預け物とはなんでしょう? 勘解由小路様」
「ふん、」
ツカツカと音をたて部屋に入ってきた彼女は後ろから入ってきた部下であろう女性が抱き変えたモノをこちらに見せてくる。
視認した瞬間、思わず疑問の声をあげてしまう。
「お前にこいつを預ける、神宮寺寂雷」
「........は?」
そこにあったのは、物でも小動物でもなく。
ふわふわな猫っ毛の黒色の長髪にまろみを帯びた白い肌。
そこにいたのは、眠りについた5歳児ほどの少女だった。
病院にいたのか、服は病院の検査服で、白い腕には採血の痕が見える。
「私の拾い物だが、この通り忙しい身でな。中王区に置いておくのは都合が悪い。貴様に預ける」
「...私は医師の身のため、つきっきりで側にいることはできませんが」
「問題ない。一通りの事はできる。最低限の衣食住さえ与えればいい」
「そんな、」
「お前に拒否権はない。これは、命令だ」
少女の親はいったいどうしたのだろうか。
いつまで面倒をみればいいのか。
子供の名前さえ教えてもらえないまま、彼女の部下に少女を渡される。
軽い。片手でも持ち上げられる軽さの少女は間近で見ると泣いた痕が残っており、痛々しかった。
「では、また様子を見に来るまで頼むぞ。神宮寺寂雷」
自身が言葉を発する前に立ち去る彼女の姿と腕全体に感じる人の温もりに思考が追い付かず、10分ほどその場で立ち尽くした。
「...うぅ...」
「...はあ、とりあえず自宅に連れていくとしようか」
まずは名前を聞くことから始めよう。
溜め息まじりに自宅に帰るべく、駐車場に足を運ぶ。
名前も知らない少女は、まだ眠りの中。
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「目が、覚めたかい?」
半分夢心地の世界で聞こえた第一声は、耳に心地好いテノールの声。
ここはどこだろう?病院ではない?
起きて暫くは思考が回らず、声が聞こえる先に顔を向ける。
そこにいたのは、恐ろしいほど綺麗な顔をした人。
暗紫色の髪は絹のように輝いている。
こちらを正面から覗く瞳は、確かに海のような青なのに、茜の色が光の加減でちらちらと表れて。
それがとても不思議だと、ぼんやりと思った。
声からして男性だろうか、人形のように整った顔立ちに思わず声が漏れてしまう。
「...男?」
「......ああ、安心して。私は男だけど、君のことは勘解由小路さ...んに頼まれたんだ」
「...無花果さんがですか?」
「詳しい事は後で話すから、その前に顔を洗うといい。案内するよ」
どうやら男性らしい。
眠っていた寝台から体を起こし、手を差し出すその人を見つめる。
無花果さんから頼まれた、と言う彼は、さっきはしゃがんでいてわからなかったが、とても背が高い。今の自分の身長ではちょうど彼の膝あたりだろうか。
見上げる形で首が痛い。彼もわかってくれたのか、推定5歳児な自分の体を両手で持ち上げ、洗面台まで案内してくれた。
顔を洗い、服は予備がなくそのまま。
広い部屋なのにどこか殺風景なモノトーン調の部屋にある、高そうなソファに持ち上げられた体を下ろされる。
とてもフカフカなソファに感動している最中、とりあえず自己紹介をしようか、と言われたのであわてて姿勢を直した。
「私の名前は神宮寺寂雷。シンジュクディヴィジョンの病院で医者をしている者さ」
「シンジュク...?」
新宿。
私のいた世界にもあった、あの都市と同じ名前だ。
「君の事は、先ほど話した通り、勘解由小路さんから頼まれたのでね。ここはシンジュクディヴィジョンにある私の家だよ。」
この高そうな室内は、この人の家だったらしい。
一人で住んでいるのか、とても静かな空間。
まず何を聞けばいいのか、とりあえず口を開こうとした瞬間。
グーーーーっと大きな音が鳴る。
そういえば昨日の昼から何も食べていなかった。
思考より体は正直で、意識した瞬間顔が真っ赤になる。
「す、すみません!えーっと...」
「...そうだね、いきなりの事で君も混乱してるだろうし、まずはご飯にしよう」
後、私のことは呼び辛いし先生でいいよ、と微笑んでくれる先生に安堵する。
優しい人で良かった...。
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時刻的に、遅めの朝ごはん兼早めの昼ごはんを用意してもらえた。
厚切りのトーストに目玉焼きを乗せただけのそれは、小さくなった今とても多い量だったが、食べきることはできた。
ご飯の間、先生は今後について話してくれた。
1つ、私の事は、無花果さんに頼まれたという理由で、先生が面倒をみてくれる事。
1つ、先生の家に住ませてもらえる事。
1つ、無花果さんから迎えがくるまでは好きに過ごしていい事。
聞いて思った。私、先生の迷惑になる確率100%だ。
先生と無花果さんの関係はわからないが、いきなり見ず知らずの子供を面倒みるとか普通あり得ないだろう。
でも私にはここで大丈夫です、と遠慮できる立場ではない。
本当にいいのだろうか。
いきなりで戸惑う私が見た目通り困っている子供に見えるからか、先生は落ち着かせるように体を持ち上げて抱き締めてくれる。
いきなりの事で思考が停止する。
と、とてもいい匂いがする。そしてやはり恐ろしいほど綺麗だ。
「外に出たい時や欲しい物がある時は私に頼んでくれれば、叶えるよ。ただ、私も仕事で家を空ける事が多いから、その間は留守を預かってもらう事になりそうだ」
「は、はい、ありがとうございます。先生」
「....そうだ、君の名前を教えてくれるかい?」
体を離されて思考を戻す。
そういえば、自分の名前も伝えていなかった。
「宇佐見ひより、です」
「ひよりさんだね。いい名前だ」
「さ、さん付けなんて...」
「これは癖だから、気にしないで。これからよろしく、ひよりさん」
「...はい!先生」
拝啓、両親、友人の皆。
とりあえず、別の世界で生活することになりました。