愛は咀嚼

起きた時から嫌な予感はあった。スッキリしない目覚めに気だるい体。極めつけは下腹部を襲う鈍痛。

「最悪...。」

起き上がって呻く。絶対これは今日中に始まる。そういえば前回より大分日が経っていた気がする。うんざりしながら仕事へ行くため身支度を整える。今日は金曜であるため明日が休みなのが唯一の幸いだ。だるい身体に鞭打って扉を開く。

「いってきまーす。」

誰もいない部屋に声をかける。最早癖になってしまっていて虚しくなるのが分かっていても声をかけてしまう。4年ほど前から同居を始めた裕也さんが自宅に帰ってくることは殆どない週に2、3日帰ってこないのは当たり前だし帰ってきても私が寝たあとに帰ってきて私が起きる前には仕事に出ていることほうが多い。だから実際わたしが裕也さんの顔を見れるのは実質週に一度くらいなものなのである。彼の就いている仕事が仕事なだけに責めるつもりはないし何時も私たちのために頑張ってくれてありがとうという感謝の気持ちでいっぱいなのだがこういう何気ない時にとても悲しくなってしまう。考えない様に首を横に振り、扉に鍵を閉めた。このセキュリティ万全の私一人だったら絶対に住めないお値段のマンションは裕也さんが選んできた。彼の職場が近く、彼の満足するセキュリティのある物件を選んできてそのお詫びのつもりか私に内装を一任してきたのだ。(勿論彼がそれを選ぶ余裕が無いほど忙しかったのもあると思うけれど。)腹いせに全体的にはブラウンと白で落ち着くデザインで統一したが寝室だけ可愛らしいピンクの内装にし、ベッドには可愛らしい動物の抱き枕を並べた。それを見た裕也さんがしょっぱい顔でこちらを見てきたのはいい思い出である。今では偶の休日に私の選んだ緑のパジャマを着てアザラシの抱き枕を抱えているのだから慣れたものである。まぁ諦めがついた若しくは疲れていてそれどころではないとも言うのだが。



「...ただいま〜。」

疲れた。とても疲れた。扉を閉めてからソファに向かう。もうやだほんとにやだ。身に纏う服を脱ぎ散らかしながら進んでいく。下着のみになってソファに置いていた部屋着に使っている裕也さんのTシャツを頭からすっぽり被る。そのままソファに沈みんこんだ。今日は本当に散々だった。まず朝一で昨日の書類に不備があったとねちねちと小言を言われた。しかし見直せば私はミスしていなくて上司の確認ミスだったのでそのままその旨をやんわり伝え提出すれば逆ギレされる始末。その後新人の子のミスを先方に私が代わりに平謝りし、昼食を食べ損ねた。それだけでもうんざりなのに同期からひとつ期限ギリギリの仕事を押し付けられ、今日は残業することになった。

何時もより遅くに帰ってきたため夕飯を作るために動く気も起きない。というか食材もなかった気がするが真っ直ぐ帰ってきたため作ろうにも作れない。あぁ、でも裕也さんの夜食...。いや、どうせ今日も帰ってこないだろう。いいや。兎に角もうお風呂に入って寝よう。お腹も意味がわからないくらい痛むし、こんな日はさっさと寝て忘れてしまうに限る。そう思い下着を持ってお風呂に向かう。パジャマはもうこの裕也さんのTシャツでいいや。



さっぱりした。ほかほか湯気をまとったままお風呂から出る。あぁでもやっぱり痛みは止まない。なんとも形容し難い鈍い痛みに顔を顰める。私はそんなに重い方ではないがそれでもこんなに痛むのだ。これよりひどい人は月に一度地獄を見ることだろう。動けない人くらいひどい人もいるのかもしれない。それを考えれば私は恵まれているだろう、と無理やり前向きに考える。そのままガチャりとリビングの扉を開けると裕也さんが居た。

「うわ...。」
「うわ、とはなんだ。」

上着を掛けてネクタイを外した裕也さんがジトリとした目でこちらを睨む。何時もならば謝るところだが、残念なことに今日の私は虫の居所が宜しくない。正直な気持ちとしてはなんでよりによって今日帰ってきたのかという思いでいっぱいだ。八つ当たりする自信しかない。後ろめたさと苛立ちで裕也さんの顔が見れない。

「...今日何も無いよ。」
「...そうか、珍しいな。」
「別に。」

確かに珍しい。基本的に私は何時も裕也さんの夜食を準備している。不摂生な生活をしている人だからせめて食事だけでも、と私なりの気遣いだ。何時もなら特に何も思わない裕也さんの口調すら不愉快に感じて素っ気なく返事を返す。

「夕飯は食べたのか。」
「食べてない。」
「じゃあ何か、」
「いい。もう寝るから。」

裕也さんは何か言いたげな雰囲気だったが、顔も合わせず寝室へ向かう。後ろで溜息を吐いた音が聞こえてくる。そのまま裕也さんもリビングから出ていったようだ。



バタりと寝室の扉を閉める。何よ、あからさまに溜め息なんて吐いて。私だって溜め息を吐きたかったのを我慢したのに。疲れてるのは裕也さんだけじゃないんだから。確かに私の仕事は裕也さんに比べたら大したことじゃないんだろうけど!ベッドに身体を沈みこませ、シロクマの抱き枕を抱き込む。こちらを見ていたアザラシをぺいっとひっくり返す。ただの八つ当たりだ。分かってはいるが苛立ちが止まらない。それに比例して下腹部からの痛みも増してくるような気がする。本当嫌になる。この痛みも今日の出来事も裕也さんも、...私も。久しぶりにこんなに早く帰ってきてたのに。しかも今回私が顔を見たのは2週間ぶりかもしれない。ついこないだIOTテロが起こり、その後処理があるなどで家にも帰ってきていなかった。きっと私の想像を絶するほどの忙しさだっただろう。もしかしたらまたまともな食事は出来ていなかったかもしれない。夕飯くらい作っていてあげれば良かった。せめてコンビニやスーパーでお惣菜でも買ったきてたら...。自分の先程の言動が情けなくて涙が出てくる。そのままえぐえぐとシロクマに顔を押し付ける。そして私はそのままいつの間にか眠ってしまっていた。






かちゃ、と控えめな扉を開く音に意識が覚醒する。なに...、今何時...。ぼーっ、としたまま扉を見ると裕也さんがこちらを見ていた。

「すまない、起こしてしまったか。」
「んー...?」

少しだけ申し訳なそうな顔をしてこちらに近づいてきた裕也さんに手を伸ばす。その手をぱしりと捕らえた裕也さんがぎゅっと指を絡めてくる。そのまま私の隣にぽすりと座り込んで来たのでその背中に擦り寄る。お風呂に入ってきたのかほかほかと温かい裕也さんに頬が緩む。

「裕也さんあったかーい...。」
「...お風呂上がりだからな。」
「ん...。...裕也さんさっきはごめんね。」

そう言ってもう一度すり、と彼の背中に頬を寄せると裕也さんが繋いでいない方の手で私の頭をゆっくりと撫でた。

「いや、俺も悪かった。いつも俺のために夕飯を準備してくれてありがとう。」
「好きで用意してるから気にしないで...。」

素直に感謝の言葉を言うのが恥ずかしかったのか裕也さんが私の手をぎゅっと強く握る。こうやって照れながらもちゃんと言葉にしてくれる裕也さんが好きだ。強面から誤解されがちだが彼は本来穏やかで面倒見がいい。

「お腹空いた...。」
「と言うと思ってコンビニで弁当とカップ麺を買ってきた。」
「態々買いに行ってくれたの?ありがとう。」
「これくらいはな。」

そう言って優しく笑う裕也さんに愛しさがこみ上げてくる。未だずきずきと下腹部は痛むが先程よりその痛みは和らいでいるように感じた。

「裕也さん、起こしてー。」

ぱたぱたと繋いだ手を振ると裕也さんはやれやれと困ったような呆れたような、それでいて優しい顔をして私の両手を握り、私の上体を引き上げた。

「裕也さんもう寝る?」
「いや、なまえが夕飯を食べるなら一緒に食べる。」
「食べたんじゃないの?」
「...食べてない。」

少しだけ気まずそうな顔をした裕也さんに小さく笑う。彼は多分買ってきてすぐに夕飯を食べたのだろう。疲れきっていてお腹をすかせていたならば空腹を満たしたいと思うのは当然の摂理だ。私もそうする。そんな彼がわざわざ嘘をつくなんて。私に付き合ってくれるつもりなのだろう。ほんと優しいなぁ、と嬉しくて込み上げてくる笑いを噛み殺す。それに気づいた裕也さんが少し不機嫌そうに何だ?とこちらを睨みつけてくる。それが照れ隠しだとわかっているのでべつにー?と返して立ち上がる。裕也さんより先にキッチンへ向かいケトルに水を汲み電源をつける。そしてぱりぱりと裕也さんが置いていてくれたカップ麺の袋をひとつ剥がす。もう夜も遅いし流石にまるまる1つは食べたくない。それに裕也さんも夕飯食べてるみたいだし半分くらいが丁度いいはずだ。そう思いながらパッケージを見て気付く。これ、私が前に裕也さんに食べたいって言ってたやつだ。だいぶ昔のことなのに覚えててくれてたんだ。ふにゃふにゃ緩む頬を、そのままにお茶を注ごうと冷蔵庫を開ける。するとそこに見覚えのない袋が。

「なにこれ。」

取り出してみるとケーキの箱と生理痛の痛み止めの薬。ぱちり、と瞬きをすると後ろからこほん、と咳払いが聞こえた。

「今日機嫌が悪かったのはそういうことだろう?」
「わかってたの??」

吃驚していると気まずそうに目を逸らした裕也さんが落ち着かなさそうに眼鏡を触っている。

「君があんな風に機嫌が悪いのはお腹がすいている時かそういう時だろう。」
「...ふふ。」

堪えきれなくなり、遂に笑みが溢れる。そうか、裕也さんわかったのか。胸がカッと熱くなる。お互い忙しくあまり同居している実感が湧かなくなるくらい一緒にいる時間は短いけれど。裕也さんはちゃんと私のことも見てくれていたのか。締りのない顔で激情のまま裕也さんに抱き着く。

「裕也さん、大好きー。ありがと、嬉しい。」

言葉が纏まらなくて単語をぶつ切りにしてしまう。ぎゅっぎゅっ、と力を込めると裕也さんが私を抱き上げる。

「別に特別な事じゃない。...恋人として当たり前のことだろう?」

そのままソファに私を置いて座っていろといいなが裕也さんがキッチンへ向かう。どうやらお茶とカップ麺を持ってきてくれるらしい。かくいう私は裕也さんの言葉にがくり、とソファの背もたれに項垂れた。

「裕也さんってそういう所あるよね...。」

熱くなる頬をソファに隠して呻く。何時もは女の子の扱いなんてわかりません、みたいな朴念仁のくせに何処でそういうこと覚えてくるのか。

「それよりも、その格好をどうにかしろ。」

キッチンから裕也さんの小言がとんでくる。服のサイズがあっていないから首元がガラ空きだのお腹を冷やすべきじゃないんたからしっかりズボンを履けとか。他にも玄関はしっかり鍵をかけろとか朝ごはんはちゃんと食べているのかうんぬんかんぬん。裕也さんは何時から私のお母さんになったのか。伏せたまま話を聞く私に聞いてるのか?と裕也さんの厳しい声が飛んでくる。多分また厳つい顔してるんだろうな、と思いつつきいてるよーと返す。それにまた人の話を聞く態度じゃないやら小言が始まる。まだ顔は上げれない。裕也さんが普通にしてるからこそ、この顔は見られたくない。
ピーと電子音がしてお湯が沸く。私に残された時間は残り3分。それまでにこの赤みがひいてくれてるといいなと思いながら裕也さんの小言を聞いていた。


深夜に2人で分け合ったカップ麺は思っていた以上に美味しくなくて2人でまずいまずいと言いながら食べた。けらけら笑いあうその時間が愛しくてまた食べたいなと裕也さんに強請ると裕也さんは苦虫を噛み潰したようなひどい顔をした。それがまた可笑しくて私は笑った。