零れ落ちるは花滴


カタカタとキーボードを叩く音が響いている。経費削減を目的に部屋の半分の明かりは消え、室内には机に突っ伏する人や虚ろな目で虚空を睨む人など死屍累々である。しかしそれを気にする人間などここには居ない。

風見はごくり、と喉を鳴らし栄養ドリンクを飲み干す。そして口直しに側にあった一口チョコを口に放る。ぺろりと指についたチョコを舐め、また画面向き直る。その顔には酷い疲労の色が張り付いている。それもそのはずだ。公安部は現在先日起きた事件の後処理に追われているのだ。大きな事件であったため多くの公安部のメンバーが一刻も早く案件を片付けるべく動いているのである。しかし、それも四徹目にもなれば皆疲れから耐えきれなくなる。仮眠室に向かう気力もなくその場に崩れ落ちるように眠りに落ちる面々を尻目に風見はギリギリまだ正気を保っていた。四徹もしただけあってこの案件はもう直ぐ終わる。これが終わればふた月ぶりに1日休みを貰える風見はぐったりしながらも一刻も早く帰宅すべく皆が気を失い一人になっても気力だけでパソコンの前にかじりついていた。暖かい布団に温かいご飯。何より愛しい妻の待つ家に帰るため彼は頑張っているのであった。まともに帰宅するのは何時ぶりか。少なくとも彼女が起きてる時間に帰ったことはこのふた月の間片手で数えられるほどしかない。只でさえ忙しい上に偶々大きい案件が重なったことが不幸の始まりであった。今までは帰れなくても数日に一回は連絡を入れていたがこのふた月はそんな時間もなく、また風見にもそんな余裕がなかった。偶に疲れた自分を慰めるために彼女からのメッセージを眺め目元を緩ませてはいた。実はこのふた月の間も彼女からメッセージが送られていたのだが、最初は返していたメッセージも日が経つにつれ、既読をつけることが返信のようになってしまっていた。二日前、久しぶりに開いたスマホを見て思い出し慌てて数日中に帰るとメッセージを入れたのだった。

その約束を守るためにも風見は止まるわけには行かなかった。ここで倒れでもすれば確実に帰宅できる時間はなくなる。多忙な公安部のメンバーである風見はきちんとそれを理解していた。風見の上司は風見よりも年下であるがゆえに誤解されがちだが風見も公安部の中ではまだまだ若い部類の人間である。何かあれば声かけられやすいことを理解している。だからこそ(それでも呼び出しがないとは限らない)休日はきちんと帰宅したいと思っているのである。正直これが独り身でいたら帰宅することすら頭になかったことだろう。嫁には「ワーカホリックって怖い。」と本気で怯えられた。因みにその日は何から何まで世話を焼いてくれて(本当に靴下を履くのすら手を貸そうとしてきた)ちゃんとお家に帰りたくなった?と不安そうに風見に確認してきた。あまりにも可愛らしかったのでその後は目一杯甘やかした。

そんなわけで何があろうと明日までには帰りたい。できれば今日帰りたいところだが現在時刻は22:48。どう足掻いても終わる気配はない。無理やりはっきりさせた頭で仕事を片づけるべくひたすら手を動かす。お腹が空いた。食べ物を買いに行く時間すら惜しくパソコンに向き合っていたせいか今更胃が空腹を主張してくる。それをなんとかなまえから持たされたスナック菓子を摘まむことで誤魔化す。因みにこれは10袋くらい持たされたうちの最後の袋である。

そのときがチャ、とドアの開く音がした。ばっ、と顔を上げるとそこには、

「降谷さん!?」

風見の上司である降谷が居た。

「今回の件はすべて此方で片を付ける手筈でしたはずですが。」
「あぁ、わかっている。」

ならば何故。彼の立場上ここに来ることは控えるべきだ。誰が見ているか分からない上、こういってはなんだがここが100%安全とは明言できない。彼とて公安部のメンバーを信用してはいるが風見は絶対がないこともまたわかっている。 眉間にしわを寄せる風見を見て近くに寄ってきた降谷がふっ、と笑う。

「そう怖い顔するな。今日はこれを持ってきただけだ。」
「それは...。」

そう言って降谷が掲げたのは風呂敷に包まれたお弁当箱。しかも大きさから小学生の運動会などで見るような重箱であると考えられる。

「これは...。」
「差し入れだ。」

困惑したまま重箱を受け取る。風見は思ってたよりもずっしりしたそれに、目を白黒させ降谷とお弁当箱の間で視線をさまよわせる。

「思ったより作りすぎてな。ついでに此処で消化してもらうおかと。」
「はぁ、ありがとうございます...?」

差し入れ自体は正直有り難いがやはり、実際ここまで来る必要はあったのか...?連絡さえあればそれくらい自分が取りに行ったのだが...。そう思っても言えないのが忠犬 風見裕也の性である。

「どうせ今日もちゃんと食事してないんだろ?さ、食べろ。」

そして感想聞かせろ、といいながらお弁当箱を開け始める。もしや、感想が聞きたくてここまできたのか??...まさかな。少し顔色を悪くした風見がはぁ、といいながらお弁当箱をみる。

「...あ。」

中を覗いてつい口から小さく音がが漏れる。それに目聡く反応した降谷がん?と此方を見てくる。

「どうかしたか?」
「いえ、別に...。」

少し気まずくなり眼鏡のフレームを押し上げながら目線を逸らす。しかし、料理を取り分けてくれていた降谷がそれを見逃すはずもなく。

「言え。」
「いえ、大したことではないので。」
「大したことじゃないなら言え。」

上司からの静かな圧に耐えきれず目を軽く伏せ風見が口を開く。

「玉子焼が...。」
「玉子焼?」

こてり、と降谷が首を傾げる。そして自分で作った玉子焼をみる。至って普通の卵焼きに見える。勿論この卵焼きも凝り性の降谷の手によって一工夫加えられた絶品の品であるのだが見た目は一般的なものと変わらないはずだ。

「玉子焼好きなのか?」
「...はい。」

赤くなる耳を誤魔化すように片手で耳の近くの髪を触る風見に降谷が笑う。

「それなら食べたらいいだろう。」

そう言って少し多めに玉子焼がのったお皿を渡す。それにありがとうございます、と受け取った風見は箸を手に取る。

「いただきます。」
「どうぞ。」

真っ先に玉子焼を取り、口へ運ぶ。見られていることに緊張しながらそれを口の中へ放り込んだ。

「?」

もぐもぐと咀嚼しながら首を捻りそうになるのを抑える。何か違う。ごくり、と飲み込んでから皿の上にある玉子焼を見る。

「...どうした?美味しくなかったか?」 「あ、いえ...。」

怪訝そうな様子の降谷に風見は違うと首を振った。美味しくないわけではない。と言うか美味しい。だけど、

「何か違うような...。」
「あぁ、隠し味を入れてるからな。」

うまいだろ?と言う降谷にえぇ、と返しもう一切れを口に持って行く。ゆっくり咀嚼してもう一度味を噛み締める。やはり何かが違う。気難しい表情で考え込む風見に降谷も段々険しい顔になっていく。はっ、とそれに気付いて慌てて他のおかずに手を伸ばす。

「と、とても美味しいですよ!降谷さん。」 「...あぁ。そうだな。」

険しい表情のままに相槌をうつ降谷に風見はつっ...と冷や汗を流す。そうして固まっていると降谷がくるり、と踵を返した。

「あの、降谷さん...?」
「帰る。重箱はまた取りに来るので置いててくれ。」
「わ、分かりました。」

重い雰囲気を纏い歩き出した降谷に怯えつつ、お礼を伝える。降谷はそれに片手あげて答え帰っていった。降谷の姿が見えなくなってふっ、と息を吐く。いったい何だったのだろうか。




「ただいま。」
「お帰りなさーい!!!」

無事仕事を片づけがちゃりと自宅の扉を開け靴を脱ぎながら声をかけると凄い勢いでなまえが飛んでくる。ふらつく体でその小さな体を受けとめ抱き締める。

「遅くなって悪い。」
「ううん、無事に帰ってきてくるて良かった!」

ふわり、と本当に嬉しそうに笑うなまえに愛しさがこみ上げてきてちゅ、と軽く口づける。

「...なーに?久しぶりの奥さんに欲情しちゃった?」

なまえは少し驚いて固まった後に、それを誤魔化すように笑う。

「かもな。」

だからそれに風見が緩く笑って同意して見せれば、なまえがぼっ、と火がついたように赤くなる。風見となまえは幼なじみ同士である。彼が一つ下で妹のように思っていた彼女と共に生きたいと思ったのは何時だったか。今まで兄妹のように接していた時間の方が長かったことにあわせて職務柄忙しいこともあり、殆ど一般的な恋人のような触れ合いが少なかったせいか彼女はこういう触れ合いや言葉の遣り取りへ免疫がない。何時までも初心な反応をする自身の奥さんが可愛くて喉奥で笑う。

「!!お夕飯できてるから!」
「あぁ、ありがとう。」

風見が笑ったことに気付いたのかぱっ、と体を離してぐっ、と風見の背中を押しリビングへ向かう。 リビングにはいると鮭の塩焼きと味噌汁。そして玉子焼がほかほかと湯気を立てていた。

「これは普通朝ご飯のメニューじゃないのか?」
「て、思ったけどわたしが一番得意なのこれだもん...。」

なまえは幼い頃から料理が得意ではない。同時に幾つかのことを平行するのが不得意なのだろう。昔は魚を焼きながら味噌汁をつくっては魚を丸焦げにしていた。そして、泣きながらわざわざ隣の家の風見のところまでやってきてはいじけていたのであった。

「いただきます。」
「はい、どうぞー。」

なまえが白米をよそう間に風見は手を洗い着ていたスーツを椅子にかけ座る。そしてそのままご飯を食べ始める。風見の挨拶を聞いた後皺になっちゃうでしょー!といいながらパタパタと音を立ててなまえがスーツの上着を持って行く。それにお礼を言わなくてはと思いながら玉子焼に手をつける。ほかほかの玉子焼を噛みしめるとじんわり優しい味が口の中に広がる。 あぁ、これだ。自分の求めていた玉子焼だ。 ほっとし口元が弛む。そして、味噌汁にをのんでから魚をほぐす。

そうしているうちになまえが帰ってくる。美味しい?と聞いてくる彼女に風見は美味しい、と返して尋ねる。

「玉子焼って何か特別なものいれてるか?」 「え?別に?昔裕也くんが教えてくれたとおりに作ってるよ?」

どうかした?と首を傾げるなまえにそうか、と返す。どうして降谷さんの玉子焼よりこっちの方が好きなのだろうか。昔なまえに教えた玉子焼ならどう考えても降谷さんの玉子焼の方が美味しいだろうに。

「あ、でも」
「ん?」
「愛情ならたーっぷりいれてるよ?」

なんちゃって!と照れたように笑うなまえに風見は真顔になる。

「え、裕也くんどうしたの。」
「いや...。そうか、愛情か。」

なるほどそれは降谷さんの玉子焼に勝るわけだ。 一人納得したように笑う風見に訳の分からないなまえは顔を真っ赤にしながら何?何なの??と風見に詰め寄るが彼は笑って答えることはなかった。



後日、自身の上司が様々な味の玉子焼を持って本庁に乗り込んでくるがそれはまた別のお話。