その手を伸ばす@
「ガープ、本当にこれはあの子の身体に悪いことはないんだろうね」
セーラの自室で、ダダンはでんでん虫に向かって呟く。部屋の主は村に降りているので不在だ。
その隙を見計らったのはダダンたちであるが、持ち主の許可もなく部屋に入っている状況が、ダダンがこれからやろうとしていることを余計に後ろめたく思わせる。
手の中には小瓶が一つ。この険しい顔をしたでんでん虫の向こうにいる男――ガープから突然送られてきたものだ。
普段はセーラに荷物や本を送ってくることはあっても、ダダンに名指しで何か寄越したことはない。嫌な予感がした。
しかも、荷物が小瓶に入った錠剤だけだというのだから、余計にそれも強くなる。
なんだったの? と気にするセーラを誤魔化したのは良い判断だったと今になって思う。
「一時期不眠症だったあやつに使っていたものと同じ成分じゃ。ちと効果は強くしてあるがの」
「どのくらいだ」
「エースの処刑終了時刻までは目覚めん計算になっておる」
ダダンの受話器を握る手に力が入る。
でんでん虫が怯えたように身を縮こまらせた。
まるで、他人のことを言うように平坦に告げた男に迫り上がった思いを呑み込んだ。
ガープがそうするように努めていることを分かってはいても、どうしても動揺は滲み出る。
「・・・・・・アンタはどうするつもりなんだい」
「ワシは海兵としてやるべきことをやる。それだけじゃ」
苦虫をかみつぶしたような顔で、でんでん虫が告げる。しかし、声音はいつもと変わらぬのだから憎らしい。
「このクソじじい!」
「ッ、ダダン! 頼んだぞ!」
振りかぶるように受話器を置いて通話を遮断した。切られると気配を悟ったガープは、念を押すようにダダンに叫んだ。
(飲ませるなら今日しかない・・・・・・明日になればきっと新聞やらでエースのことが知れる。そうなったら遅い)
セーラに知られてからでは遅いのだ。あの子が目を覚ましたとき、何もかもが終わっていないと。
飲ませて良いものかとダダンは悩む。
ガープに、こんな憎まれ役は自分でやってくれとなじってやりたかった。時間がないせいで自分がこんな役を引き受ける羽目になった。
(エースの野郎もドジ踏みやがって・・・・・・あのバカが)
自分が死んで、誰が泣くのかよく考えりゃわかるだろうに。
(そうだ。息子が死んで泣くのはセーラだ。泣きくれて泣きくれて、きっと何日だって息子の死を悼む)
そんなセーラは見たくない。しかし、この件を知ったらセーラは絶対に飛び出していく。そうなったら政府は黙っちゃいない。
今まで、国にだって忘れられるようなこんな辺鄙な村だから、静かに生きて来られた。村の人間と、ダダンたちが必死に外に漏らさぬようにと守ってきた。
――ねえ、ダダン・・・・・・私はね、今が一番幸せなんだ。
子どもの寝静まった夜更けに、静かに酒を飲みながら酔いしれた顔で涙と共に零した言葉を知っている。セーラが、どれだけ今の穏やかな日常を、一日を夢のように過ごしているのか。その一片をダダンは知っている。
(この平穏を続けるには、飲ませるしかない・・・・・・)
何より、エースの野郎が自分のせいでセーラが危険にさらされたりしてみろ。あいつはきっと自分を恨むだけじゃすまない。
ダダンも悩んでおきながら選択は一つしかないことをわかっていた。
どうしてエースやサボやルフィが大人しくセーラを村に置いていった。
どうしてドラゴンが会いに来ない。全部、セーラのためだ。
全部、セーラを・・・・・・あの子を守るためだ。
ダダンは自分の手の中にある小瓶を握りしめた。
たかが錠剤数粒。それだけなのに、重くて仕方なかった。
◇◇◇
舟を漕ぎ始め、しまいにはソファに身体を預けて眠りこけたセーラの身体をダダンは抱え上げた。
足音も立てず、腕の中の細い身体を揺らさぬようにセーラの部屋のベッドに横たえる。
顔にかかった銀の髪を払ってやり、白い頬を撫でながらダダンは呟いた。
「恨んでくれて良い」
その方がセーラも楽だろう。ダダンを恨んで、怒って、気が済むまでなじってくれていい。
ダダンのせいにすれば、きっと全部楽に終えられる。
でも、セーラはきっとダダンを恨んでくれはしないだろう。
(泣きくれるだろうな・・・・・・)
エースの仲間である白ひげが、エースを助けられようが出来なかろうが、セーラは泣くだろう。何も知らなかった自分を責めて。
その時、自分はなんて声をかけるつもりなのか。
ダダンの口元が、自嘲気味な笑みを浮かべる。
どうせセーラはダダンに恨み言一つも漏らさないだろう。それはセーラが己のためにダダンたちが動いたとわかっているからだ。
きっと泣いて赤く腫らした目を向けて、無理したような顔で笑うのだろう。
「お頭・・・・・・」
「大丈夫ですか?」
廊下から心配そうに覗く子分たちに一度頷き、部屋のドアを閉める。
「お前ら、しばらく静かにするんだよ」
「はい・・・・・・」
浮かない顔でしょぼんと身を小さくした男たちが足音を潜めて奥の部屋に帰っていく。
(エース・・・・・・)
窓から見える空は憎らしいほどに青く澄んでいて、ダダンはつばでも吐きかけてやりたい気持ちになった。
◇◇◇
「お頭! 大変だー!!」
駆け込んできたマグラ。その言葉で、この先の展開はわかっていたようなもんだった。
がらんと解き放たれた玄関戸を前に、ダダンは飛び出していった背中を思う。
「はは、結局こうなるか・・・・・・」
つい、笑ってしまった。
自分は喜んでいるのか。
セーラに恨まれずにすむことに? 息子を失わずにすむことに?
時計をみやる。
処刑時間には少し早い。だが、セーラが飛んでいく距離も考えればちょうどいいぐらいか。
これも神様の采配ってやつだろうか。
「セーラ・・・・・・戻ってくるんだよ・・・・・・」
――お前の家は、ここなんだから。
すでに手の届かないところに行っちまったセーラに、ダダンはただ祈ってやるしかなかった。
◇◇◇
潮風が肌に纏わり付く。普段はなんとも思わぬそれが、今はどうにも気に触った。
マリンフォードに行ったことのないセーラは、一気にそこまで転移をすることは出来ない。今まで訪れたことのある島をいくつか転移で飛び、その後はこうして海の上を飛んでいくしかない。
その距離が、ひどくもどかしい。
(エース・・・・・・エース・・・・・・)
脳裏に旅立っていった背中が浮かぶ。最後に振り返って笑った姿も。
見た目にそぐわず繊細で、恥ずかしがりで。いつもルフィやサボに見つからないようにひっそり甘えてきたセーラの二人目の息子。
その子の命が、この瞬間に消えかけている。
たまらない思いがこみ上げてセーラは速度を上げた。こんな速さで飛んだことは故郷のあの時以来だった。
すでに何百年も前のこと。それでも片時も忘れたことはないセーラにとって忌むべき記憶。
「また私から奪うのか、人間・・・・・・!」
ハッとして口を噤む。
(違うッ!)
人間が憎いんじゃない。あの街の人々が、あの時直接手を出してきた人間が憎い。
穏やかな日々で蓋をしていた憎しみが顔を出す。憎んだって辛いだけでなにもいいことなんて有りはしないのに。
それを、この身で痛感している。
今、セーラを取り巻く愛した人々は人間だ。
でも、その愛する子を奪い取ろうとするも人間である。
それがどうにも昔の記憶を引きずり出してセーラの感情を昂ぶらせてしまう。
あの時は間に合わなかった。でも、今ならまだ手が届く。
(大丈夫・・・・・・大丈夫。きっと間に合う)
ダダンに被せられたマントの襟ぐりを握りしめる。
せめて顔が見えないようにと、フード付きの体格が隠れるような長いマントを寄越してくれたのだ。
「エースは白ひげの一味だ! 白ひげは仲間に手を出すやつは許さねえ! あいつらに任せな!」
反射的に飛び出そうとしたセーラの身体を、その両手で痛いほどに押さえ込んでダダンは叫んだ。
エースの家族のことは知っている。信じていないわけじゃない。でも、セーラはこのまま家でじっとしていることは出来なかった。
「エースの家族が助けてくれるのなら、それでいいの。でも、もし万が一があったら? そうなった時、守れる距離にいたいの・・・・・・お願いダダン。決して無防備に飛び込んだりしないから! エースたちに万が一がないように手の届く範囲で見守ってるだけ!」
玄関を塞ぐダダンに必死に請う。
彼女がセーラの身を案じてくれているのは嬉しかったが、セーラはどうしたって息子の方が大事だ。
数秒、じっと二人の視線が交差し、先に逸らしたのはダダンの方だった。
「好きにしな・・・・・・でもせめて誰だかわからねぇように被っていきな」
セーラの身体を丸々覆えるような大きさのマントを被され、一度抱きしめられる。
それは、セーラが普段から家族にやっている見送りの仕草で。
「なるべく早く帰ってくるんだよ」
「ッ! ・・・・・・うん」
ぎゅっとその大きなダダンの体躯を抱きしめ、セーラは羽を広げて飛び立ってきたのだ。
目に滲んだ滴は、すぐに潮風に払われた。
帰る場所が出来るなんて、少し前は思いもしなかった。そんな場所が、自分にももう一度出来るなんて思いもしなかった。
真っ青な海を突き進んで行けば、それはやがてセーラの視界に入る。
あちこちで煙が上がり、大きな氷塊も見えた。
そして、遠目に三人の息子の姿を捉えられた。自由に暴れ回る姿に、ほっと安堵が広がる。
しかし、すぐに息を呑む光景を目にする羽目になった。
――ああ。
反射的に羽を羽ばたかせてセーラは一直線にそこに飛び出した。
(ごめん、ダダン。村には帰れないかもしれない)
この戦場に現れる意味を、セーラはよく理解している。公の目に己を触れさせることが、どういうことになるか知っている。
もし自分の正体がバレたとき。あの穏やかな村は、巻き込めない。
座り込み、無防備にその身体を晒すルフィ。弟を守ろうと敵に背を向けて庇うエース。そして、その状況に気づき、少し離れた位置で二人の元に駆けるサボ。
ぐつぐつと煮立つ灼熱の腕が、息子の背中を突き破ろうとした時。
その背中を押しのけ、セーラは海兵との間に滑り込んだ。