五話

「おい、待て!」
「戻れ、エース!」
 背後の船員からの言葉に振り返らず、エースはストライカーに炎をくべて勢いよく加速した。
 遠くなるモビー・ディック号に、フィアは「いいの?」とエースに声をかける。
「・・・・・・サッチを、家族を殺して逃げたんだぞ。オヤジの顔にも泥を塗った・・・・・・ゆるさねぇ」
 船内のオヤジの前で怒りを露わにしていたときは、随分と激しく激昂していたが、今のエースはひどく静かだ。心配になるほど。
 叫ぶように声を上げたわけではないが、その静かな声音の奥に、ティーチへの怒りがふつふつと湧き上がっているのが分かる。
 ――ほら、フィア! 今日はお前のために作ったんだ! 食えよ!
 船上の食料は貴重だから、といつも遠慮するフィアに、サッチはそう言って度々食事をさしだした。お前のために、と言えば、フィアが遠慮しつつも口に入れることを知ってるから。
 みんなと同じメニューの他に、フィアが好物だと告げたものが一緒に詰め込まれていた――言葉通り、フィアのために作ってくれたものだ。
 ――美味いか?
 ニッと歯を見せて、食べるフィアのことを見つめていた眼差しを思い出す。エースとフィアが隣り合って口に放り込む様を、嬉しそうに笑ってみていた。
(・・・・・・サッチ)
 じわりと、胸に悲しみが広がる。
 もう、サッチのご飯は食べられないんだな、と当たり前のことを実感して、泣きたくなった。
 ティーチが殺したなんて信じたくない。家族が殺し合ったなんて思いたくない。
 夢ならいいのに。全部悪い夢だったなら。
 フィアには、エースのように荒立たしい怒りをもつのは難しかった。ただひたすらに、悲しさと苦しみだけが胸をしめつける。
 海原の向こう、モビー・ディック号はもう姿が見えなくなった。
 きっとエースは、ティーチを見つけるまで船には帰らないだろう。
 家族の姿が見えなくなったからかな・・・・・・。
 きゅっと切ない感情がこみ上げてきたので、フィアはエースの首に抱きついた。肩口に顔をうずめるようにして、スンと鼻を鳴らす。
 泣きたいくらい悲しいのに、フィアの瞳から涙は出ない。目尻が濡れれば、すぐに己の体の熱で蒸発してしまうのだ。
(・・・・・・サッチが死んで、泣くこともできないんだ・・・・・・おれ・・・・・・)
 それが、自分が薄情に思えてしょうがなかった。
 ぎゅっと抱きつくフィアの体を、器用に片腕で抱き留め、エースはその炎の髪を、あやすように撫でてくれていた。
 二人だけの旅の始まり。
 その日の夜。炎はお互いに寄り添い、ただ静かな波に揺られていた。

 ◇◇◇

 ティーチを追う旅のさなか。色んな事があった。
 当たり前のように食い逃げをして、追いかけられて。その途中で川流しの刑にされた時は、本当にダメかと思った。
 エースが海に落ちたり、海楼石に触れると、フィアは外に出ることが出来なくなる。
 意識も随分と薄れて、深く寝入ってしまったような、そんな曖昧な感覚しか残らない。
 だから、モーダが助けてくれたときは、神さまっているのかもって、らしくもなく感謝したいくらいだった。
 本当は直接お礼を言いたかったけれど、驚かせるのも申し訳ないから、彼女の前に姿を現すことはなかった。
 最後、海に出るエースを見送ってくれたモーダに向け、手だけをヒラリと出して振り返しただけ。
 それだけでもすごく驚いていたけど。
 そして、エースはモーダから頼み事をされていた。
 命の恩人であるモーダの頼みだ。もちろん叶えてあげるのはいいんだけど――。
「でも、海軍支部に潜入するのは止めたほうがいいんじゃない・・・・・・?」
 と、独りごちるフィアのささやきなど気にせず、エースは昏倒させた海兵から制服を剥ぎ取っている。
(もうここまで来たら引き返せないか・・・・・・)
 それなら、さっさと用事を済ませてしまったほうがいいかな。なんて、思ったのだが、ちょうど二人が潜入したときは昼食の時間帯だったのだ。
「ちょっと、エース! そんなにとったら怪しまれるよ! ねえ、聞いてる!?」
 姿は出さず、声だけで叱ってみせるが、周囲を気にして随分と小さく発せられたそれが正しくエースに伝わることはない。
「あら〜よく食べる子ね〜。いっぱい食べなさいね〜」
 食堂のおばちゃんが、微笑ましくエースに言う。
 都合の良いことはよく聞こえる耳を持つエースは「あざっす!」と礼を言って、自分の皿に取り分けている。
(そんなに山になるように盛ってる人いないじゃん! てゆーかのんびりご飯食べてる場合じゃないでしょ!)
 生憎と、フィアの相棒は食欲の前では無力な人間だ。いくら言っても聞かないのは分かっていた。
 もうあとは騒ぎを起こさず、何事もなくここを抜け出せるように祈るしかない。
 そう思った矢先だ。
 眼を輝かせて食事をかきこんでいたエースだが、白ひげの文句が聞こえ、フィアが止める間もなく拳を振り抜いていた。
(もう〜〜〜エースに潜入は無理だよ〜〜!)
 こんな海兵たちのど真ん中で騒ぎ起こして、と嘆きたい気持ちもあったが、半分はよくやったとエースを褒め称えない気持ちだった。フィアだって白ひげの息子なので。
 逃げだし、潜り込んだ中佐室でまた昏倒させて服を剥ぎ取る。
 しかも、そこに用意されていた食事まで綺麗に完食する姿に、フィアはもう降参だと内心で両手を挙げていた。
(もう、なんにも言わない〜)
 頭の中で、マルコが「エースの手綱ちゃんと握っとけよい」とフィアを窘めるが、もう一人のマルコは「エースならしょうがねぇよい」と諦めの眼をして言っている。
 どっちも実際に言われた言葉だ。フィアも自分の都合の良いことしか聞こえない耳を持ってるので、もちろん後者の言葉を受け入れた。
(とりあえず無事に海に出られたらいいや)
 エースなら問題ないだろう。
 だからエースが燃えさかる軍艦に飛び込んでいこうが、背後から銃で撃たれながら逃走したときも、フィアは傍観していた。
 ストライカーに戻って、速攻で支度をして再び海に出る。
 ほっと息をつくエースから飛び出て、フィアは見慣れた格好に戻った男の姿を見つめた。
「ん? なんだ、フィア」
 気づいたエースが、横目にフィアは見て、訝しげに眉を上げた。
 首を振って、フィアは「なんでもない〜、けど」と言葉を濁らせる。
「けど?」
「ふふ、軍服着たエースも意外と似合ってたけど、いつものが一番だなって」
 でも、つけ髭は面白かったよ、と口角近くに軽く唇を寄せれば、エースは眼をしばたたく。
 そばかすがほんのり赤くなったので、フィアはおかしそうに笑ってエースに引っ込んだ。
「あ! おい、待てフィア!」
 出てこい! って声が聞こえるけれど、散々フィアの忠告を無視したのだ。次はこっちの番だと、フィアはしばらく無視を決め込んだ。

 ◇◇◇

 そのあとも、色んな島に行った。そして、確実に黒ひげ――ティーチの足取りを追っていく。少しずつ、その時が近づこうとしていた。
 屋根からティーチを見下ろすエースと共に、フィアもその巨体を見下ろしていた。
 船にいたときと、顔つきが違うように見える。
 野心なんてない、と笑っていた穏やかな男は、今じゃ同じ口で己の人生をかけた盛大な賭けの話を切り出す。
(そんなに、その力が欲しかったの?)
 家族を殺してまで、その悪魔の実が欲しかったのだろうか。
 息の詰まるような感覚は、悲しみなのか怒りなのか分からない。
 見ていろ、とティーチはその禍々しい闇の力を広げ、町を飲み込んでいった。そうして、瓦礫となった町を吐き出した。
 まっさらになってしまった地が、一瞬にして瓦礫の山になる。
「ゼハハハ! 分かったかエース、フィア!! これが俺の手に入れた力だ!」
 高らかに笑いながら、ティーチは己の力を自慢げに叫ぶ。
 闇を纏いながら男が話す度に、思い出に、記憶に、亀裂が走っていった。
(俺の知ってるティーチは、ティーチじゃなかったんだね・・・・・・)
 ふつふつと、こみ上げるこれは怒りだろうか。
 どれだけすごい力だろうが。どれだけ欲していた悪魔の実だろうが・・・・・・。
 ――フィア! お前も食え!
(そんなことのために、家族を殺したの・・・・・・!?)
 ゆらり。フィアの、エースの感情に呼応するように炎がゆらめく。
「火達磨!!」
 エースの言葉と共にティーチの体が爆炎に包まれた。悲鳴と共にゴロゴロと転がるティーチの体から闇が溢れ、炎を飲み込む。
「食べられちゃった?」
「さっきみてぇに吸い込まれたみたいだな」
 耳打ちするフィアの言葉に、エースも冷静に返す。炎まで吸い込めるとなると、警戒も強めないと。
 自分たちの知るティーチの実力で考えてはいけない。
 息も荒く立ち上がったティーチが、手を前に――エースたちに向かって伸ばす。
「闇水!!」
 その名の通り、手から吹き出した闇が、渦のように蠢く。
「闇の引力は、正確に能力者の実態を引き寄せ、」
「エースッ!!」
 重心から引っ張られるような感覚に、エースの体が浮き、すごい勢いでティーチのその手元めがけて引き寄せられてしまう。
「どうだ? もう気づいたんじゃねぇか?」
「まさか・・・・・・!!」
 その手に掴まれてしまったエース。ティーチは片手をエースめがけて振りかぶった。
「・・・・・・エース!!」
 咄嗟にフィアが炎を広げて防御しようとしたが、なぜか自分の体なのにいうことを聞かない。
(・・・・・・どうして!?)
 そのままエースの体にティーチの拳がめり込み、そのまま後方に飛ばされた。一緒に吹き飛ぶフィアの体だったが、ティーチに腕を取られてしまう。
「痛っ!」
 片手を軸に持ち上げられ、ティーチが顔を覗き込んだ。
「ゼハハハハ!! この体なら、お前にも触れられるぞ、フィア」
「うぐっ・・・・・・」
 首を締めるように片手で持たれ、さらに高く掲げられる。両手でどうにか引き剥がそうとしても、なぜか力がでない。結局、ティーチの腕を指先でひっかくだけで終わってしまう。
(力が、入らない・・・・・・)
 掴まれている首を中心に、まるで力を吸い取られているようだ。どうにか体に力を入れ、パタパタと足を動かし、フィアは気づいた。
(な、なんで足が)
 フィアは・・・・・・というか、メラメラの実の能力は、食したエースが本体として扱われているのか、エースからフィアが実態を出すことは出来ても、完全に分離することは出来なかった。
 それなのに、今は足があるのだ。
 そもそもエースは後方の瓦礫に埋もれている。フィアがティーチの手の中にいることがおかしいのだ。
「ずいぶんと人間みたいじゃねぇか、フィア。前からお前の存在は不思議に思ってたんだ」
 するりと、ティーチの無骨な手が、フィアの腹に触れた。ぞわり、と背筋の粟立つ感覚に、「ひっ」と喉から恐怖の声が漏れた。
 今のフィアは、ティーチの言う通り、随分と人間らしい装いに変わっていた。
 炎の髪は勢いをなくし、毛先から少しずつ黒く変色している。
 真っ白で人形のようだった肌には、血が通い、血色がよい人間の肌へと変わっていっていた。
「お前を、俺の闇で取り込んだらどうなるんだろうなぁ?」
「ふっ・・・・・・うっ、あ」
 ぐるりと、腹の奥をかき回されているような不快感に、呻くフィア。その姿を楽しげに見上げながら、ティーチは触れている手のひらに闇の渦を広げる。
(やばい、やばい・・・・・・これ、ダメなやつだ)
 今は触れられていて、力が入らない程度だが、この闇に引きずり込まれれば、自分の全てがティーチの手中に収まってしまう。本能でそう分かった。
 焦ってもがいてみるが、首を絞められ、力も入らない体ではろくな抵抗も出来やしない。
(・・・・・・エー、ス)
 ぐっと力強く瞼を閉じ、もうダメだと思ったとき――。
「神火 不知火ッ!!」
「ぐぁああ!! いてぇ!!!」
 ティーチの体に炎の槍が突き刺さる。
「フィアに触ってんじゃねぇ!!!」
 痛みに叫ぶティーチから力が抜け、フィアの体が重力のままに落下する。
 首を絞められていた弊害で、ふっと一瞬意識が遠のきそうになった。その間に、誰かに体を抱き留められた。
 と言っても、そんなの一人しかいないけれど・・・・・・。
「おい、フィア!」
「エース・・・・・・」
 抱きしめられ、触れていたところから二人の体の境界線が曖昧になる。溶け合い、一つの炎となったフィアは、やっと息がしやすくなった。
(・・・・・・あたたかい)
 さっきまであんなに寒くて、怖かったのに、エースに触れてるだけで、体から力が抜ける。
「ごめん、エース。まさか俺にまで触れるなんて思ってなくて」
「体、なんともねぇのか?」
「うん。大丈夫」
 じっと見透かすような瞳が向けられたが、嘘をついてるわけじゃない。
 それが伝わったのか、エースはわずかに安堵の色を見せ、再びフィアの名を呼ぶ。
「フィア、お前は戻ってろ」
 エースの腕に抱かれ、そのまま体の中に押し込められる。
「でも、エース」
「絶対に出てくるなよ」
 そうも強い言葉で言われては、フィアが逆らえるわけがない。
「気をつけてね」と、一言告げ、エースが頷いたのを見届けて彼の体の中に戻る。
 痛みに呻きながら起き上がったティーチが、姿のないフィアに片眉を上げた。
「なんだ、フィアは使わねぇのか?」
「・・・・・・使うなんていうんじゃねえ」
「悪魔の実の能力が自我を持つなんて効いたことがねぇ! そいつが自分の意志で動けるのなら、能力の使い道は格段に上がる!! もったいねぇなあ! エース!!」
 興奮したようなティーチとは裏腹に、エースは腹から煮える怒りを外には出さず、低く静かな声で答えていた。
「それ以上、あいつのことを口にすんじゃねぇ。ティーチ・・・・・・炎帝ッ!」
 エースが手元に、これまでよりも一際大きく目映い炎の塊を宿す。
 それは少しずつ大きくなり、エースの頭上で膨れ上がった。ゴオゴオと燃え立つ炎の音が、フィアにも聞こえてきた。
 これほどの大きな技を出すのは、いつ以来だったか。
 それに対し、ティーチも禍々しい闇を大きく広げて対抗した。光と闇がぶつかり、激しい衝撃と音が島中に響き渡った。
 しばらく経ち、地に伏した体に鎖がかけられた。
 とたん、フィアの意識は海の奥に沈んでいく。
(守らなきゃ、エースを・・・・・・)
 それなのに、瞼が重たくなるように意識が閉ざされていく。どうにか外に出ようと思っても、ぴくりとも動けなかった。
 ――ゼハハハッ
 耳の奥。ざらついた男の笑い声が響き、フィアは今度こそ意識を失った。