終話


 暗く、冷たい牢の中、エースは力の入らない体でどうにか顔を持ち上げ、小さく呟いた。
「・・・・・・フィア」
 声は静かな石牢にしみこみ、答えられることもなく消えた。
「やっぱり聞こえねぇか・・・・・・」
 力なく、エースは笑った。分かってはいたが、当たり前のように返ってきていた言葉がないと、意外とこたえる。
 エースの呟きに気づいたジンベエが、「フィアさんは・・・・・・」と訊ねる。
「寝てる、みたいなもんらしい。海楼石に触れてると、あいつはでてこれねえ」
 だが、繋がっている。ちゃんと、フィアは自分の中にいると、感じられている。
「なあ、ジンベエ」
「なんじゃ」
「・・・・・・悪魔の実はよ、能力者が死ねば、またどこかに新しく生まれるだろ。そうしたら・・・・・・」
 そうしたら、フィアも、そいつの手に渡るのか。
 続けようとした言葉は、噛みしめた奥歯の鈍い音に上書きされた。考えただけで、暴れ回りたい気分だ。
 自分のものだ。
 フィアはエースのものなのだ。
 それが他の者の手に渡る。許しがたく、はらわたが煮えくり返りそうなほどに腹立たしい。
 どれだけ自分のもとに留めておきたいと願っても、エースが死ねば、自動的にフィアはこの手を離れてしまうのだ。
 オヤジやマルコたちの制止を振り切り、追いかけ、ティーチに負けてこうして牢に繋がれている。それは自分でも仕方がないと分かっている。
 受け入れている。それでも――。
 フィアのことだけはどうしても惜しんでしまう。
「なあ、ジンベエ・・・・・・」
「ん?」
「・・・・・・俺が死んで、メラメラの実がまた生まれたらよ。お前が食ってくんねぇか・・・・・・お前だったら、フィアも懐いてたし、俺だって許せる」
 弱気なエースの言葉に、ジンベエが「バカなことを言わんでくれ!」と怒りの声を上げる。
「エースさん、諦めんでくれ」
「ここまで来たら、もう止められねぇだろ・・・・・・俺が弱かった。受け入れてんだ」
 しかし、それでオヤジたちにまで被害が行くことは避けたい。
(来ないでくれ・・・・・・誰も)
 そう願うエースの心とは反対に、弟であるルフィがインペルダウンを訪れ、海軍本部――マリンフォードでは、白ひげの傘下含めた全ての船が、集結した。

 ◇◇◇

 
 フィアはずっと、ほとんど眠りの中を揺蕩うような曖昧な意識でいた。
 随分と遠くで声が聞こえており、かろうじてエースの状況だけは理解できていたが、ふいに体が軽くなった。
 いつぶりだろうか。重い枷を外されたように、体が動く。
 炎の渦を作り、エースの弟――ルフィの体を燃やさぬように注意をはらう。
 傷ついた体ながら、エースが弟片手に能力と共に着地をする。不敵に笑うその姿に、フィアはほっと安堵した。
 よかった。思ったより元気そうだ。
 ただでさえティーチとの戦闘で傷だらけだったのに、その後インペルダウンでの洗礼を受け、長い牢獄での生活。きっと体は弱り、動くことも辛いだろうに。
 さすがに、こんなに大勢の前でいきなり姿を見せることが出来ないため、あまり周囲からはわからないようにエースの援護をする。
 解き放たれたエースの姿に、白ひげ海賊団の船員たちは喜び、歓声とともに船へと駆け戻る。
 しかし、殿を務めるために、白ひげがその場に残った。
「オヤジ!!」
 泣きながらも、自らの父親の意志を受け取り、それぞれの船員たちが逃げていく。
「エース・・・・・・」
「ああ」
 一瞬、エースは逃げないかもしれないと思った。けれど、返ってきたのは意外と強い言葉で。
「フィア」
「うん」
 白ひげの元へと道を作るように炎を広げ、ガバリとエースが頭を伏せた。フィアも体を現し、同じように頭を下げた。
「エース、フィア・・・・・・俺が、オヤジでよかったか?」
「もちろんだ!」
「当たり前じゃん!」
 泣き叫ぶように強く肯定した二人の言葉に、白ひげは笑った。
 親愛なる父親に背を向け、涙ながらに戦場を駆け抜ける者たち。
 そうして、無事に帰れるはずだったのに――。
 ぶつかり合うマグマと炎。
「あっつ!!」
「ぐあっ!」
 まさか、自分が灼かれる感触を味わうことになるとは、思ってもみなかった。
 エースが赤犬のマグマに負傷し、一瞬怯んだその隙に、その猛攻がルフィに向けられる。
 咄嗟にフィアが炎を伸ばしたが、赤犬はその程度では止まらない。
(・・・・・・エースの大事な子なのに!!)
 助けられない。その言葉が頭に浮かんだ瞬間、フィアは己の全身が灼かれるような熱さを味わった。
「エースがやられたァ!!!」
 悲鳴のような船員の声が戦場に上がる。
(うそ、エース・・・・・・)
 絶望がこみ上げ、愕然とエースを見下ろしていたフィアの視界がくらりと歪む。
 倒れ込んだエースの体から炎が静まり、フィアの意識も消えた。腹に空いた大きな傷口から、焦げるような匂いと煙が立つ。
 ルフィに受け止められながら、エースは己の最後を悟っていた。
 受け入れがたく嘆く弟に、エースが細々と言葉を続ける。
 サボの件と、この弟がいなければ、自分は生きようとも思わなかった。
 誰も、それを望まなかった。
 頭に蘇るのは町で聞き回った見知らぬ大人たちの言葉ばかり。どれだけ悲惨に海賊王のこどもを殺すかと、酒のつまみに楽しそうに笑う下品な声が、頭に響く。
 瞼の奥に、あの頃の押し込んだ涙が疼く気がした。
 そんなとき……。
 ――ありがとう、エース。今まで生きててくれて。
 柔らかな声が響いた。思い出されるのは、夜の静かな闇と、窓からさす白い月光。
 ベッドに横たわる自分の上で、温かく揺らめく炎の麗人。鼻先に落とされたキスのこそばゆさと、その時の熱を思い出し、エースの口元が思わず緩む。
 大人たちの笑い声が薄らぎ、炎の揺らぎとぬるま湯のような安らぎだけが胸に残る。
(死ぬってのに、随分と安らかな心地だな)
 思えば、メラメラの実を食べて、一番の収穫と言えば、フィアに出会えたことだろう。
 能力なんてなくても強くはなれるが、フィアだけは、どうやったって手に入らない。
(ああ、くそ・・・・・・死ぬのが惜しいな)
 弟の夢の果てを見ていない。自分が死ねば、あの炎の男は、誰の手に渡る。
「愛してくれて・・・・・・ありがとう」
 薄らぐ意識の中、エースは最後に笑みを浮かべた。
 兄の体が傾き、地に落ちる。
 ルフィが眼の前の現実を受け入れられずに天を仰ぎ、声を上げようとしたとき――。
「待って」
「あ、おまえっ」
「お願い、エースの体を守って。必ず、連れ戻すから」
 エースの体からゆらりと浮き上がった炎の指先が、傷心のルフィを慰めるように、頬の輪郭を撫でる。
 穏やかで、しかし消えそうな声の持ち主に、ルフィが声をかけようとしたとき、戦場の騒ぎに炎は消えてしまった。

 ◇◇◇

 気づけば、エースは真っ白な空間に立っていた。天地も左右も分からぬような、どこもかしこも白で埋め尽くされた場所。
「おれ死んだのか?」
 自分の腹に空いたはずの傷も塞がっている。
「エース」
 ふいに名を呼ばれ、振り返れば、そこにいたのは炎を揺らめかせたフィアの姿が――。
「フィア!!」
 駆け出し、その体を抱きしめた。自分から離れたことなど、ティーチの能力以外ではあり得なかった。
 まず、駆け寄るということすらなかったのだ。
 離れていた距離が、もう自分とフィアは一体ではないのだという現実を突きつける。それをはねのけるように、エースよりも細い肢体をただ抱き寄せていた。
「ああ、くそ・・・・・・お前のこと取られるのだけが我慢ならねぇ」
 それだけが心残りだ、とエースが歯を噛みしめて唸るように吐き出した。
 そんなエースに、フィアは嬉しさをこみ上げながらも、それを抑え、そっとエースの胸元を押して距離を開いた。
 訝しそうなエースの眼差しに、フィアは微笑み、その手を取った。
「ねぇエース。昔に言ったこと覚えてる?」
「・・・・・・なにをだよ」
 繋がれた手を見下ろし、フィアは惜しむようにきゅっと力を込めた。それにエースがさらに不信感をつのらせ、フィアに詰め寄ろうとしたが、フィアがそれよりも早く口を開いた。
「エースのせいじゃない。エースのためだから命張れるんだって話」
 それは、エースとフィアの二人の中でも特別な記憶。エースの中で、自罰的な思考を、変えてくれたもの。
 なぜ、それを今、言うのだろう――。ゾワリ、と背筋が粟立つような感覚がエースを襲った。
 離してはいけない。反射的にそう思った。
 手を触れ合わせているだけでも不安で、エースがその体を抱き寄せようとしたところで、フィアのほっそりとした指先はするりと抜けてしまった。
「は? おい、フィア・・・・・・お前なに、を」
 抱きつくように、フィアはエースの首に腕を回した。そのまま、自分よりも少し背の高いエースの頭を引き寄せ、そっと唇を寄せる。
 重なり合った唇が、柔らかく触れあい、熱を混ぜ合った。
(口にキスするのって、初めてかも)
 閉じた視界の中で、フィアはそんなことを思った。
 頬や鼻先に、親愛や慰めのキスを送ることはよくあった。しかし、口を重ねるとなると、たとえ相棒でも、一心同体だと思われる距離感の相手でも、明確に線を引くラインだろう。
 二人の吐息が混じり、チリッと炎が爆ぜる小さな音がした。吐息と共に、小さな火種がエースの口内に吹き込まれた。
「っ!」
 咄嗟に飲み込んでしまったエースは、驚き眼を見開く。温かなものが喉を下り、腹で熱を持つ。
 熱い、というほどではない、ぬるま湯で包まれているような温かさは心地よささえ感じる。
 フィアと触れ合ってるときの感覚に、似ている。
「前に昔の記憶があるって言ったでしょ? 昔は人間だったけど、死んじゃった俺の魂はさ、多分メラメラの実に宿ってたんだよね。それで一体化してたの・・・・・・だから厳密には俺自身が能力な訳じゃない」
「おい、フィア」
 その先を聞きたくなくて、エースが呼びかけたところで、フィアが言葉を途切れさせることはない。
 眼の前の小さな口が言葉を発するごとに、不安が、恐怖が、エースの背後に迫る。
「だからさ、俺がいなくても能力は今まで通り使えるよ。俺が他の人と一緒になることもない」
 ――他の人に渡したくないって言ってくれたの、すごく嬉しかったんだ。
 照れくさそうに、秘密を打ち明けるその微笑む姿は、平常時であればエースだとて喜んで受け入れただろう。
 しかし今は、その美しい姿さえ、不安をかき立てる材料にしかならない。
「おい、話聞けってフィア!」
 細い両肩を掴み、揺さぶり、どうにかして止めたかった。フィアの言葉さえ止めれば、まだ間に合うと思っていた。
 自分の体にある温もりに、もう手遅れだとわかっていながら。
「俺の魂、エースにあげる・・・・・・だから大事にしてね」
「フィアッ!!」
 フィアの輪郭がゆらぐ。それはいつも見ていた光景なのに、このまま消えればもう会えないことが分かっていた。
 嫌だ、行くな。なんでだよ。
 言いたい言葉はたくさんあるのに、エースの口から出たのは、ただただ縋るような響きのフィアの名前だけだった。
「エース、愛してるよ」
 伸ばしたエースの腕を取ることはなく、フィアは微笑み、そのしなやかな指先で最後に頬を撫でた。
 その刹那、炎が揺らいで消えるように、フィアの姿も、空気に溶けるように消えてしまった。
「フィアッ!!!」
 白い空間に自分の声が響き、視界が暗転。
 エースの意識が戻る。

 ◇◇◇

 ――必ず、連れ戻すから。
 それがどんな意味なのか。ルフィには分からなかった。
 眼を瞬かせた間に炎の人は消え、エースの物言わぬ体だけ遺されている。
 見ているだけで、鼓動が早まり、冷や汗がどっと出てくる。
(でも、あいつが待ってろって言った)
 ならば、待っていればこの状況が変わるのかもしれない。
 そう思えることによって、先ほどのように現実を拒絶しようとは思わなかった。
 よし、と白ひげの船員たちが周囲の海兵や赤犬を止めているところに加勢に行こう、と足を踏み出したとき――。
 エースの体が炎に包まれた。
 ぶわり、と人一人丸々飲み込んでしまうほどの大きな炎に、ルフィは咄嗟に一歩後ずさる。しかし、眼だけは兄から離さなかった。
 エースの腹に空いていた大きな穴が塞がれていく。その様子に、ルフィは胸に期待がこみ上げるのを感じた。
 炎は、肉を塞ぎ、再びその鼓動を燃え上がらせる。
 ゆっくりと開かれたエースの瞳に、奇跡を目の当たりにしていたルフィはその瞳に涙をたたえて笑みを見せた。
「エースが生き返ったぁ!!!」
 海賊からは歓声と涙が溢れ、海軍からはどよめきと驚愕が広がる。
 弟にその身体を抱き起こされながら、エースはその喉を小さく震わせた。
「・・・・・・フィア」
 か細く、しかし切実さに包まれたその呼び声に反応する者はおらず、周囲の騒ぎにかき消された。
 体を起こして見渡す限り、あの姿がないか確認したかったが、一度死の淵に瀕したせいか、エースの体は指一本も動かせなかった。
 そうしていれば、泣き笑いの船員たちが駆け寄り、ジンベエがエースとルフィを脇に抱えて走り出す。
 二人を抱えたジンベエのために、船員たちは道を開け、船へと誘導する。
 道すがらたくさんの人々から必死に声をかけられ、どれだけ己が心配をかけたのかがよくわかった。
 ――しかし、今、エースの頭を埋め尽くすのはただ一人で。
「エース」
 ふいに声が耳に届いた気がした。
 抱えられた状態で、己の拳を見下ろす。どうにか力を振り絞ってみるが、小さく炎が昇るだけで、その声は聞こえない。
「・・・・・・フィア、フィア」
 小さく震わせた唇が、何度もその音を形作る。しかし、どれだけ呼んでも、どれだけ体から炎を昇らせようと。
 そこから愛した者が姿を現すことはない。
 能力は変わらず使える。でも、いつだってエースの中にあった存在を、感じない。
 それが、どれだけ自身に絶望と失望をもたらすのか、エースはひしひしと感じている。
 体の穴は塞がっているはずなのに、今もぽっかりと大きな穴が空いたような喪失感がひたすらエースに襲いかかる。
 ――エース。愛してるよ
 耳の奥に、言葉が思い返される。
 ぐっと奥歯を噛みしめ、血を吐くような悲痛な声が、エースの喉から漏れ出た。
「返事ぐらい、聞いていけ・・・・・・ばかやろう」
 ――能力は今まで通り使えるよ。俺が他の人と一緒になることもないから。
 そんなこと、誰が心配した。あれだけ、エースが自分の名を呼んでいたのに、気づかなかったのか。
 あの時、恐れていたのは、能力を失うことでも、フィアが誰かの手に渡ることでもない。
 ただ、フィアが手の届かないところに行ってしまうという予感だったのに。
「お前がいなきゃ、意味ねぇんだよ・・・・・・!」
 ポロリと落ちた涙は、戦場の地を一瞬だけ湿らせ、すぐに消える。
 ・・・・・・フィア、フィア、フィア。
 心の内でどれだけ望んでも、喉がすり切れるほどに呼びかけても、それ以降、炎の麗人がエースの前に現れることはなかった。