ドッペルゲンガー
ある朝、ニコル・ダレルが不安な夢からふと目を覚ますと、自分がベッドの中で見目麗しい可憐な少女の姿になっていることに気が付いた。彼が瑞々しく細長い腕を持ち上げて布団をどかすと、普段のだらしない太さが滑稽に思えるくらい、滑らかに丸みを帯びたしなやかな肢体が露わになる。
「これは一体どうしたことだ。」とニコルは思った。夢だった。
もう一度ニコルが目を覚ますと、自分が随分と窮屈な寝袋の中で横たわっていることに気が付いた。
覚醒しきらぬ重い体をよじり何とかジッパーを開けた彼の姿はいつもと変わらず、下着の上に乗りかかった腹を真っ白な腕で撫でると小さく溜息をついた。
うつ伏せになりながら体を起こし、少しふらついた足取りで自室を出て洗面所に向かう途中、彼はふと違和感を覚えた。開いたクローゼットから見えた整頓された衣類、テーブルの上で神経質に並べられていた道具類、測ったように正確な角度を保っていた家具、その何れにも薄い違和感を覚えた。
ニコル・ダレルはだらしない男である。毎朝決められた時間に起きることも、毎晩風呂に入ることも、きちんと歯を磨くことも
三食食べることも、適度な運動も、電気や水道の節約も出来ない。責任感がなく、危機感が欠如し、物が捨てられない。三日坊主である。物をすぐに失くす。約束を忘れ反故にする。人を大切に出来ない。毎日洗濯もしない。
洗面所の棚の上でテトリスのようにきっちりと積まれたタオルを手に取り顔を拭っている時、違和感は不安に変わった。「これは一体どうしたことだ。」とニコルは思った。夢ではなかった。
タオルを洗濯機に放り込み、自室に戻って改めて部屋を見渡す。いつも通りのような気もするし、いつもとは様子が違う気もする。ニコルは次にクローゼットに目を向けた。見るからに清潔なTシャツが律儀に畳まれ、皴一つないYシャツやスーツがハンガーにかけられていた。まるで自分がこれらを配置したとは、本当に信じられない事だった。
整頓された衣類を見て違和感を覚えるなんてことは、ニコルが生まれて初めてのことだった。綺麗に畳まれた衣類やバスタオルなどというものは実に当たり前のようにそこにあって、例えば世界にかけられた大きな魔法の力によって、誰もが気が付けばそこにあるものかのように。
それくらい、事も無げにそれらは綺麗に収まっていた。
ニコルは視線を落とし、自分の手のひらを眺めた。青白くふっくらとした手のひらから、やや短い指が五本伸びている。「綺麗な手をしやがって。」と言った父の言葉を思い出した。あれは一体どういう意味だったのか。のっそりと頭を抑えて考えたが、それがどれくらい前の事だったかも思い出せなかった。
ニコルはもう一度さっぱりとした自室を見回したあと、台所へ向かった。母親が料理を作っている気がしたのだ。ドアを開け、廊下を少し早足で歩き、階段を降りる。この階段はいつもこんなに軋んでいただろうか。
台所に母親の姿はなかった。それどころか居間や食堂のどこにも電気すらついておらず、あまりの静けさと暗闇にニコルは恐怖を覚えた。父も母も仕事に行ってしまったのだろうか。兄は遊びに出掛けてしまったのだろうか。自分をたった一人置いて。
点けて回った電気を全て消したあと、ニコルは背後に薄ら寒い気配を感じながら駆け足で階段を上り、自室へ飛び込んだ。静かに片づけられた部屋の真ん中に、寝袋が転がっていた。
皺くちゃに裏返ったそれを見てニコルはどうしても自分が内側からそのジッパーを閉じることが出来るとは思えなかった。
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