サウンド・オブ・サイレンス3
「私の名前はビリーだ。喉は乾いていないかい?今何か作ってあげるから待ってなさい」ビリーは身振り手振りでそれを伝える。
「・・・・ビリー・・」どうにか彼女はそれを理解したようであった。ビリーが頷くと、ほんの小さな笑みを浮かべて、お辞儀をした。
周りの客は横目でそれを窺いながらも、はや興味を失いつつあった。このような場末の酒場にくるような客は何かしらの事情を経験してきた人物達である。彼らはそのような場合に他人から不用意な興味を向けられることが、どれほど不快かを身をもって知っているのだ。ビリーはそんな客を誇らしげに感じつつ、滞った作業を忙しなくこなしていく。
ようやく、ホールのスタッフだけで業務が回るようになった頃、ビリーは彼女の為に一杯の飲み物を用意した。冷蔵庫の中から凍えたフェアリを1匹取り出し、手でよく解すと、今度は力一杯にフェアリを絞り始めた。
「ぎ、んぎぃいい」フェアリが断末魔のような声を上げながら、何重にも絞られると、その身からドドメ色の液体がドポドポと湧きだし、グラスに注がれていった。
グラスの半分ほど絞ると、マスタはフェアリを絞るのをやめ、皺くちゃになって白目を向いているフェアリをぽいと籠に投げ入れた。そして、香草の煮汁にそれを注ぎ込んで、軽やかにステアすれば、一般家庭でも広く飲まれている「ゲロニカ」の出来上がりである。
ビリーは満足の出来であったのか、満面の笑みを浮かべ、彼女の前にそれを差し出した。一方、彼女は顔面を蒼白にさせ、目を見開きながら、口をパクパクさせている。どう見ても驚いた様子であるが、ビリーにはその驚きの正体は分からなかった。
「飲めば体が温まるよ」ビリーはなおゲロニカを彼女に勧める。
しかし、彼女は困惑しながら、やはりその勧めを素直に聞き入れられないようである。ビリーは彼女の眼が一瞬フェアリを投げ入れた籠の方に向いたのを見逃さなかった。
「フェアリが口に合わないのかね?しかし、安心しなさい。このフェアリは20年間、薄汚い暗室で自堕落な生活をさせて、適度の娯楽を与えつつ、少しずつ少しずつストレスと絶望感を感じさせるように、完璧な管理のもとに育てられた物だ。それも、今朝仕入れたものだから、鮮度は抜群さ。普段、ストックマートで売られてる既製品の物とはまるで味が違うのさ。と言っても、言葉が分からないのでは仕方がないが・・・」彼女はビリーが飲み物の安全性を説いている事はなんとなく分かったが、それでも得体の知れぬ生き物を絞り入れた物を飲むなんて生理的に受け付けなかった。
だが、ようやく逃げ込んだこの場所を手放したくない気持ちと、近くの客がもつコップについた水滴ですら黄金の如く映る彼女の喉の渇きが、正常な判断を狂わせていたに違いない。彼女はまた目尻に涙を溜めながら逡巡し、とうとう意を決してそのグラスを手にした。
雨と汗に塗れた衣服をそのまま天日干しにしたような臭いを放つ液体を舌にのせると、ドロリとした触感と共に、口の中にまろやかなコクと甘みが広がった。極度の渇きと疲れに陥っていた彼女は、半ばやけくそになりながらゴクゴクと一息にそれを飲み干してしまった。
すると胃に流れ込んだそれは、即座に身体中に行き渡り、冷え切った身体を内側から温めて行く。不思議な飲み物である。
「××××」内から湧いてくる安堵感からか、目尻に溜まった涙をポロポロと溢しながら、彼女はビリーに対して何度もお礼を呟いていた。ビリーは一度コクリと頷き返し、優しい笑みを浮かべるのみで、それ以上は何も言わなかった。
すると、奥のピアノに座っているマイクという男がハーモニカを吹き始めた。そして、3拍子のピアノと酒で焼けた渋みのある声が囁くように歌うのである。ノスタルジックな音楽は、アルコールと共に体に溶け込み、聴く者の心の内に懐かしき情景を映し出す。カウンターに座る彼女には懐かしむべき過去がなかったのであるが、その音楽を聞いていると、もやもやとした様々な感情が紐解かれるような心地になる。加えて、先ほど飲んだゲロニカによって、芯から安堵した彼女が眠りに落ちるまでさほどの時間は必要なかった。
「素晴らしき世界!美しき世界!ようこそ幸せの果てへ!ここはあなたの心の故郷、シルクイの街!」そんな街の看板が月明かりに寂しげな影を落とす頃、街の奥からは尽きることのない喧噪と音楽が響き、巨大な山々とエメラルドの海はそれを静かに見守り続けていた。
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