サウンド・オブ・サイレンス2
そんな閉鎖的な酒場の扉を開いて新たな客が入って来た。ふとその姿を一瞥した客は、その異質さに一瞬言葉を失ったであろう。この酒場で様々な客に愛想を振りまいてきたマスターでさえも、危うく笑顔を解いてしまいそうになった。
その来客者はそれ程この場の雰囲気には似つかわしくない容姿であったのだ。服は所々が破れた無地で白い木綿服のみで、足元はわらじのような物を履いているが、およそ現代人が履くような代物ではなく、素足は土や草でドロドロに汚れており、所々に血が滲んでいた。まるで古代人のような格好であるが、肩口まで伸ばした青い髪や、前髪は端正に整えられていて、服装との統一感がまるでない。前髪から覗く眼は赤く充血し、童顔の薄白い頬には泣きはらした跡がくっきりと見受けられた。それが15か16そこらのまだ若い娘であろうことは見紛うことがない。
もし、若い娘が旅行先で両親と喧嘩をして、散々泣き喚いた挙句に両親を困らせてやろうとホテルから飛び出してここへ来ただけであるなら、マスターはその唇をにっこりと釣り上げたまま
「やあ、お嬢さん、いらっしゃい。今夜は少し冷えるね。今暖かい飲み物を作ってあげるから、そこに座って待ってなさい。なに?お金?そんなもんは必要ないさ。君が笑顔でこの店からホテルに戻ってくれれば、いい宣伝になる。それがお代さ。だからほら、そんなに悲しい顔をしないで、涙を拭きなさい。この酒場で流していいのはつまらない愚痴と美しい音楽、あとは自分を慰める為の愛しい心の泪だけなのさ。さぁ、マイク!陽気な曲を一発頼むよ!、今日この地で感じた悲しみや怒りを美しき思い出に変える為に!」と小気味の悪い文句もって彼女に声を掛けていただろう。
なぜ、マスターがそうしなかったのか。それは彼女の異質性が、単に場末の酒場に訪れた麗しき珍客という域の話ではないからである。それは例えば、人体模型がさも当然のように列車の中に入ってきて、イヤホンで音楽を聞きながら足先でリズムを刻んでいるのを見たような感覚だ。それでいて、その人体模型は自身をまともな人間だと思っているのである。そのむき出した肌と、あまりにも露骨な体格を、臆面もなく曝け出した彼女の姿に皆は動揺せざるを得なかったのである。
「いらっしゃい」最初に声を掛けたのはやはり酒場のマスターである。周りの客はマスターが彼女を普通の客として扱う素振りを見せたことでいくらか安心したようであった。
「××××」それに対して彼女が何かを返事した。
声は涸れ、力はなく、うわ言のように語る彼女の言葉は、マスターには届かない。決して声が聞こえなかったわけではない。また、マスターが意地悪で無視したわけでもない。彼女の言葉が通じないのである。半ば諦めにも似た表情を浮かべ、その場に座り込もうとする彼女を、マスターは困った顔を一つも見せずに、とにかくカウンターの端の席に彼女を座らせて、マントを奥から持ってくると彼女に羽織らせた。一度客として扱うと決めたマスターは一切の偏見を捨てて、客のためにできることを尽くすのである。
「×××××。×××××」彼女はまた少しぐずりながら何度もうわごとのような言葉を繰り返した。何かを悲嘆したような物言いであるが、マスターは気にも留めず、ひたすら笑顔で彼女に接した。
それで彼女はどうにか落ち着いた様子を見せたが、よほど疲れ果てていたのか、カウンターの机に突っ伏したまま注文すらしなかった。全くもって迷惑な客ではあるが、マスターの懸念はそこではなかった。それは彼女の首に首輪がかかっていないことである。
そもそも、彼女に首輪がかかっていれば、このような姿で人前に現れることもあるまい。何らかの事情があって首輪が外されたに違いない。風貌からして、どうやら自然公園から一人で彷徨い歩いてきたようである。そこでなんらかの事情に巻き込まれたのであろう。
だが、その事情さえも首輪がなければ聞くことができぬ。マスターは先ほどから自分の首輪で彼女の使う言語を特定しようとしているが、彼のデータベース上には該当する言語が無いのであった。かなり特殊な言語なのであろう。マスターは一瞬森の奥に住むマスカレ達が人間に化けて降りてきたのではないかとも考えたが、首輪は彼女を人間に属する何者かだと判別していた。
マスターは翻訳アプリを解析モードに切り替え、彼女の言葉を蓄積して自動解析させることにした。これを使って100時間も話せば、日常会話くらいなら可能になるはずである。
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