あの日のこと

 別に大したことはなかった。
単にこの時期に珍しく雨が降って、偶然傘を持っていた私が、タイミングよく居合わせた傘を忘れていた友達と、駅まで歩いていただけ。

「私の傘小さくてごめんね。カバン濡れちゃってない?徐倫の右肩凄いよ、それ」
「大丈夫よ。どうせ中に大事なものなんて入ってないし、内側に入れたところで、レイラと距離空いちゃって余計濡れるわ」
 傘を持つ私の右手の上に添えるように、徐倫の右手が重なった。白く長い指が薄暗い雨の夕暮れにとても眩しかった。
「徐倫あったかいね」
「そう? 伝っちゃうのね。こういうのって」
 返事をしないままの私を、徐倫は気にしない風にまた口を開いた。
「あたしと同じ目的地だったらいいのに」
「遊びに行く?」
 家に帰りたくないのかなと思って、そう言ってみると、頭を横に振って徐倫は黙ってしまう。
 私は徐倫とは反対側の電車に乗るから、駅でバイバイするのがいつも通りで、もしかしたらその日はそうじゃない日かな、と思った程度。

 雨の日の駅はいつもより暗くて、タイルが滑りやすくて、私と徐倫はゆっくり転ばないように歩いた。他の人が居ないところを見つけたから、徐倫も拭きたいだろうと思って、ひとまず屋根のある所に行った。
「結構降るよね、はい、このタオル使って」
「ありがと」
 それだけ言って私の手からタオルを取ると、徐倫はカバンの表面を軽く拭いた。
 私は傘を畳んでクルクルと振って水を落として、徐倫が使い終わったタオルで手を拭こうと思った。
 それまでのことは、全部いつも通りで、確かにちょっと徐倫は口数少ないかなと思ったけど、ほんとに何でもない普通の日だった。
「ねえ、レイラ」
 顔を上げた徐倫が、前髪から水を滴らせながら、私を呼んだ。
「なに?」
「あたし、ずっと言いたいことあったの。もうずっと言わないままでいいかもと思ったけど、そんなのあたしらしくないかなと思ったの」
 内容が何にせよ、もし徐倫が言いにくいことを私に言ってくれるっていうのなら、それは友達としてとっても嬉しかった。私のことを信用してくれてるんだと思ったから。
「レイラがすき」
 徐倫が何を言ったって受け入れるつもり。だって私も大好きだから。
「なんでもない日に言うもんかって思ったけど、一緒にもっと歩きたかったから」
 泣きそうに笑う徐倫の手を、無意識のまま握って、頷いたら雨水が徐倫の頬を伝った。

 その日は本当になんでもない日で、徐倫が私たちの特別な日を作ってくれたってだけ。