Claire de lune


<徐倫の独白>

遠い過去、あたしは海に縁があったように思う。大変なことがあったような気がする。
幼い頃の思い出だろうか。
海洋学者の父さんに連れられて、海でよく遊んでいたと、ママから聞いた。
そんなことより、あたしには今恋人がいる。レイラっていうのよ。
大学に入って同じ学部だって言うんで知り合って、妙に気があう、手首に薔薇の花のホワイトタトゥーを入れてる子。白い肌に白い花が薄っすらと見えるのがうつくしくて見惚れる。やさしいレイラに、あたしは何度だって、かわいい、愛してるって言うわ。
そう、海のことを思い出したのは、レイラの住むところが海沿いの街だから。

・・・・・・

もらった鍵でドアを開けて、インターホンも鳴らさずに入る。いつもレイラが履いてるダークブルーのパンプスが玄関の脇に寄せて置いてあり、部屋にいるとわかる。徐倫はレイラの後ろ姿を認めると、自然に笑顔になる。

「Hi. レイラ、なんかピアノで弾いてよ」

ソファに腰掛け熱心に本を読んでいた恋人に声を掛ける。

「アレ、アナスイとのデートは?」
「断ったって言ったじゃない。それにデートじゃあないし、あたし、レイラのガールフレンドよね?」
「ゴメン、ゴメン。揶揄っただけ」

レイラは本を閉じて、むくれる徐倫にキスをしてから、壁際に置かれたアップライトピアノへと歩を向ける。

「来ていきなり、ピアノ弾いてだなんて、今日はセンチメンタルなのね」
「昔のこと思い出したの」
「そう…」

レイラは緩慢な動作でピアノのカバーを開け、カタン、と黒の椅子を引いて腰を下ろす。そっと髪を耳にかけて、徐倫を待っている。
いつも徐倫がどこかに腰掛けたとわかるまで、目を閉じて、薄っすらと微笑んで、頭の中で弾く曲を選んでいるのだという。彼女はさっきレイラがいたソファに座った。

今日の曲は、ゆったりとしたものだった。

淑やかに、細い銀の糸を紡ぐように、丁寧に、レイラの指から奏でられる。
次第に増えていく音は、きらきらと反射して、グラスの端から零れ落ちる淡いゴールドのシャンパンみたいで。

最後の一音から離れがたいというように、鍵盤からそうっと指を離したレイラは徐倫を振り返った。

「今日の徐倫におすすめの曲を選んだけど、どう?」
「うん、最高。ありがとう」

徐倫は立ち上がってレイラを抱きしめた。レイラは徐倫の背に腕を回して、いつもより強く抱きしめられる力に小さく笑った。

「何か、大事なことを忘れてるような気がするのよ」

徐倫がひどく不安げに呟いた。

「なんだろうね」
「わからない」
「私のこと?」
「ううん、違う」

確信を持ってそう言った徐倫から、レイラはそっと離れて、包み込むように手を握った。
同じ左腕に刻まれたうつくしい二つのイメージ。
それは徐倫とレイラの心を映すようで、捕まるまいと飛んで逃げてきた蝶は今にも霞に消えそうな薔薇の蜜を求める。

「じゃあ、大丈夫。心配なんかしなくてもいい」

小さな子供をなだめるように、レイラは徐倫の目を見て言った。徐倫の姿を、凪いだ海に似た瞳の表面へ映し出す。徐倫はレイラの言葉に、波だった心がゆっくりと穏やかになっていく気がした。

「私たち二人がお互いのことをわかってる。それだけで、十分……そうでしょう?」
「ええ」

遠くに打ち寄せては引いていく波の音が響いている。


・・・・・・

<レイラの独白>

月明かりが鮮明で海にその影が綺麗に落ちるとき、決まって徐倫は泣きそうになる。
私はそのとき必ずそばにいて、愛してるって伝えるの。
明るくてかっこいい、そんな徐倫にみんな憧れる。私も彼女のそういうところはもちろん大好きだけれど、私だけが知っている可愛らしくて実はオトメなところが魅力的。
そうそう、辛いことを覚えているのって、心が悲鳴をあげるでしょ? 私はそれを誰よりも知っているから、誰より大切な恋人にはそんな思いさせたくないって思う。
信じてくれているから、私は彼女を悲しい海から守りたい。