au theatre

*長編 "infinitif" と同じ世界線



取材に訪れたイギリスで、早咲きの薔薇の香りをまとった人と出会った。
テート・ブリテンに行った時のことだった。
ある絵画の前に立ち止まって全く動かない女性がいた。他の人々の邪魔にならないように、少し離れたところで、鉛筆を片手に、もう一方の手にはリングノートを持ち、腕を組んでじいっとひとつの絵を見続けている。

妙に創作意欲を掻き立てられた僕は、鉛筆と小さめのスケッチブックを取り出して、彼女同様、邪魔にならない程度の場所に立ち、その真剣な面差しを描き取った。
彼女は時折その手元のノートに、短い鉛筆で何やら書き込んでは、またじいっと同じ絵を見る。
全身、顔だけ、手元、目元など色んな部分をざっとスケッチし終わった僕が鞄にしまったところで、彼女がこちらを見た。

「終わりました?」

明朗な調子で声を掛けてきた。
少し離れたところにいた僕は彼女の元へと近寄った。
子供たちが花に囲まれている絵が目の前にある。何がそこまで彼女を執着させるのだろう。

「ああ、勝手に描いてしまって済まない」
「構いませんよ。それより、どんなのか見せてくださいます?岸辺露伴先生」

僕の名前をサラリと言った彼女は、ニコニコしたままだ。

「どこかであったことが?」
「いいえ、私が一方的に知っているだけです。先日インタビュー記事を読んだばかりでして。ファンなんです」
「それはどうも。おっと、さっきの絵は……これです、どうぞ」

カバンからスケッチブックまた出して、先ほどの絵をミシン目の入った部分で切り離し、ささっと鉛筆を走らせてから彼女に手渡した。

「え?くださるんですか」
「僕のファンだって」
「うわぁ!サインまで!ありがとうございます」

彼女は隅に書いた僕のサインを見て嬉しそうに言う。

「この絵が好きなんですか」
「寂しいでしょう。それが好きなんです」
「絵を描いていたんですか」
「いいえ、文字ですよ」

そう言って手に持ったままだったノートを開いて僕に見せた。アルファベットが踊るように並んでいる。

「物書きをしているんです。創作意欲が湧いて」
「そういうことだったのか。いや、僕も君がやけに真剣なのにどうも描きたくなってしまって」
「ふふ。美術館はいいですね。こういう出会いがありますからね」

彼女はノートに僕の渡した紙を挟んで大切そうに胸元に抱えた。
僕は彼女の微笑みに惑わされたのだろうか。それとも、わずかながらに漂う、爽やかな花の香りに引き寄せられたのだろうか。
少しだけ、彼女の視線に合わせるよう、頭を下げて、なるべく紳士的に、と声を出した。

「名前、聞いても?」
「宝生です。宝生レイラ」

そのとき首を傾げて親しげに答えたレイラが、僕の隣でずっと笑ってくれたらどれほどいいか。
どれだけ惑わされようと、レイラには絶対ヘブンズ・ドアーを使うまいと心に決めた僕は、まるでどこぞの信者のようだ。
それでも彼女はまた、僕の気もしれず、「イタリア土産お楽しみに」と短い返信を寄越した。