Sound and Vision


穏やかなる日常。
穏やかさは好きだ、と言えども退屈は嫌いだ。家主の居ない屋敷。一つ伸びをして、ぺたぺたと裸足で冷たい木の縁側を歩く。ガラス戸の向こうは腹立たしいほど、いいお天気。

「退屈だ!」

私は彼に聞こえると思ってないけれどそうやって文句を言ってみる。「君が休みなら私も早く帰ってくるよ」とは言ったが、彼がいなければこんなに退屈とは。帰ってくるまで二、三時間ある。
彼が居ない時に一人で外出しても、この街は特にすることも無い。それに、あまり出歩いていると彼が心配する。本は読み終えてしまったから、テレビもつまらないし、結局、座布団を引っ張ってきてその辺に腰を下ろしてぼんやりとする他ない。
雲が猫のような形を作っている。猫なんぞ家にいれば良いな。今度話してみようか。私が何かやりたいとか欲しいとか、これいいな、だとか言えば大抵は二つ返事で了承するのだ。料理だとか手を怪我するかもしれないことだけは、全力で止められるのだけど、暇つぶしになるものくらい増やしたってバチは当たらないだろう。そうだ、ピアノとかどうだろう。小さな頃習っていたけど、器用な彼の事だからもし一緒に始めれば私より上手く弾きそうだな。そう言えば彼も昔やっていたとか言っていなかったか。
庭に目を移せば、冬毛にまん丸くなった雀がまだ硬そうな木の芽をつついている。鉛筆と紙が欲しい。彼の机から拝借してこよう。

また立ち上がった。ちょっと足が寒いので靴下を履いておこう。冷えて風邪を引いたら呆れられてしまうから。彼の書斎へ行く。私も本を探すのに使うから、一概にも彼だけのものとは言えないが、整頓された机の様子はやはり彼の家なんだなと感じる。私も住んでいるのに。
いらない紙はないか、と机の上にあるものをさっと見る。このノートは私の手の記録で、どんな色のポリッシュを塗ったかとか、つけたアクセサリーはどんなのだったかを書いている。これは彼の爪の記録だし、無駄らしきノートはない。もうちょっとこういうところにゆとりがあってもいいんじゃないか。ふと、悪戯心に彼の爪用ノートとその辺にあった鉛筆一本と掴んだ。
縁側に戻ってきて日向ぼっこ。持ってきたノートを開く。至って普通の大学ノート。数字がきちんと書かれている。余白は思った通り上と下にあって、どのページも書き込まれていない。ちょっとはしたないかな、胡座をかいて座布団の前に置いて、落書きを始めることにする。彼の似顔絵、さっきの猫っぽい雲、スズメらしき何か、手、手、指輪、ピアノ、音符、りんご。今朝食べたりんごは蜜がよく入ってて甘かった。
上手くも下手でもない絵を調子に乗ってかいていると、外から、塀の向こうから声をかけられた。

「おーい、レイラ、風邪ひくよ?」
「吉影さん! おかえり」
「ただいま」

遮るガラスにくぐもった彼の声が聞こえて自然と笑顔になる。さようなら、退屈よ! 彼の前にあってはお前なんかひとっ飛びなのだ!
オレンジ色が顔を出し始めた青空に、彼の美しい髪の毛がふわり揺れてこちらへ向かう。
玄関に行くより私の元へ来てくれた。ガラガラ、とガラス戸を開けると私の手元をみて眉を八の字にして笑った。

「私のノートじゃあないか」
「退屈だったから。それに紙が見つからなかったんだし」
「可愛いことをしてくれるね。さ、ここだと冷えてしまう。ああ、手が冷たくなっているじゃあないか、ほら、早く中に入って」

私の手からノートと鉛筆を取ると、吉影さんは私の指先に片手ずつキスを落として戸を閉めた。あたたかさが伝わって、心もほかほかとする。
私はパッと立って玄関へと向かう。靴を脱いでいる彼の後ろ姿をじっと見ている。綺麗な人だなあ、と毎日思う。

「そんなに見て、何かついてたかい?」
「ううん、何も」
「……どうしたんだ、私のいない間に嬉しいことでもあったのかな?」

たぶん頬が緩みまくっている私の顔を見下ろしてくる。彼の鞄を取ると温もりと重みを感じた。

「吉影さんが帰ってきたからうれしいってだけ」
「……」

黙ってしまった吉影さんはなんだか変な顔をして、私の手元と目とを交互に見て、大きくため息。

「何?」
「レイラはいつも私の欲しい言葉をくれるんだね」
「照れてます?」
「私も嬉しいんだよ」

カバンを持っている私の手の上に、するりと吉影さんが指を触れたと思ったら、腰を屈めて頬に口付けを落とすように呟いた。

「美しい手と声の君と、こうやって暮らせることが、ね」

最後に息を吐くように笑った吉影さんに手を引かれて私たちは暖かな部屋へと戻るのだ。
青い空が憎い退屈なひとりの休日よ、さようなら。私たちの夕闇がくる。