親愛なる雨傘の君へ/三途


雨が降ると、あなたのことが思い浮かぶ。また人のために傘をさしているんじゃないか、自分はびしょ濡れなんじゃないか。その長く綺麗な髪をじっとりと濡らして、自分はいいから、とまた貼り付けたような笑顔を浮かべているんじゃないか。恐ろしいほどに自分のことなんて顧みないあなたのことを、私は考えて、そしてどうかその美しい髪が、肩が、体が、濡れていませんように、そう何かに祈るのだ。

天気予報で雨だと言われても、朝はボーッと聞き流してしまう。お母さんがどれだけ言おうとも私の手が傘立てに伸びることはなくて、きっと家では呆れたお母さんのため息が玄関に響いているはずだ。私は、よく傘を忘れる。
失敗から学ぶことがあるとよく人は言うけれど、裏を返せば失敗しなければ学べないことがあるということだ。私はしとしとと降り始めた雨を教室の窓から眺める。あー、やっぱり降ってきた。曇りだな、雨が降りそう。そうは思っていたけれど家に傘を取りに戻るのには時間もギリギリで一か八か、私は賭けた。そして今負けが確定したのだ。

今はもう五限目、しかもあと数分で終了のチャイムが鳴る。今日はさすがに、来ないよね。ふと頭の中に浮かぶのは綺麗な髪の毛を下ろして雨の中傘をさして立つ人のこと。三途春千夜くん。その人は、私がこうやって雨で困っているとすぐに来てくれるのだ。前回の雨の時もただ私に傘を傾けてくれた彼を思いながら、私は再びノートに視線を落とす。
どうせ止むことはないだろうけど、どうか、この雨が少しでも弱まりますように。板書を写す作業を続けるために動かしたシャーペンの先を見つめてそんなことを願った。

残りあと3分。この授業の先生はギリギリまで板書を続ける人で、カツカツとチョークを黒板に叩きつける音は止まない。
願いも虚しく、先程よりも窓を叩く雨音が大きくなっていて私はため息を吐く。だけれど目を合わせて笑い合ったり、嘆き合うような友人は私にはいない。私はさっき思い浮かべた三途くんの知り合い、という理由だけで周囲の人から遠巻きにされている。
彼は最近何かと耳に入る東京卍會と呼ばれる、所謂暴走族に所属しているらしい。確かに着ている黒い服には至る所に立派な刺繍が入っているし髪の毛だって眩しいくらいの金髪だし、不良だよ、と言われても別に疑わないような見た目だ。
それでも私の目に映る彼は、みんなが言うような怖い人には映らない。私の中の不良、と呼ばれる人のイメージはみんな怖くて、チラリと目が合うだけでも怒ってくる。口が悪くて声が大きくて、荒々しい。でも三途くんは違った。ああ、そうだ。彼と初めて会ったのもこんな雨の日だったんだ。私は空から落ちてくる水滴が、少しでも少なくなればいいのに、と下らない祈りを込めながらどんよりと暗い空を見上げる。そうだ、あの日もこんな風に真っ暗な雲を眺めていた。

その日の私は母から頼まれていた買い物をしにスーパーへの道を歩いていた。アスファルトに落ちて跳ね返る泥混じりの水滴が足に着くのがどうしても気持ち悪くて、早く行って早く済ませよう、とそんなことばかりを考えて足を動かす。ふ、といつもなら通らない裏道へ続く細い路地が丁度目に入って、何も考えず、その日はその道を選んでしまった。
数分前の自分にもし会えるなら、どれだけ近道でもこの道はやめろ、と絶対に言い聞かせる。骨と骨がぶつかり合うような鈍い音が前方から聞こえて、私は慌てて電柱の影になるところに身を寄せた。気を緩めると、ひ、と鳴ってしまう喉に蓋をするように口を手で覆い、必死に息を殺す。鈍い音はどんどん回数が少なくなっていった。きっとこの喧嘩も終盤だったのだろう。どうしよう、もしも、見たことがバレたら、私も、という考えで身動きひとつも出来ない。

「……クソッ」

きっと喧嘩を制したであろう人の声はどこか苦しげだった。どこか怪我をしたのだろうか。なら救急車なり警察なりを呼んで、その騒ぎに乗じて元の道に戻ろうか、そう考えて私はポケットの中の携帯電話に手を伸ばしながらそっとそちらを覗き見る。するとそこには傷だらけの男の子が一人だけ立っていた。その男の子はここから見ても綺麗なことがよく分かる髪の毛に所々血をつけて、喧嘩を制したにしては立っているのもやっとという様子であった。
彼の足元に転がって呻いている男の人たちはきっと、彼よりも年上であるし、体もがっしりしている。さらに近くには金属の棒のようなものも転がっていて、付着している赤い血液のようなものから察するに、恐らくこの喧嘩の中で使われていたことが伺える。
どうしよう、警察を呼んでいいものなのか。そう悩んでいると、彼がよろよろと私の隠れている方に向かって歩き出した。その途中で何かに蹴躓き、どさ、と大きな音を立てて彼の体も道に転がる。あ、と私から思わず洩れた声に、転がった彼の体が起き上がって、鋭い目付きが私に向けられた。

「あ、あの……だ、大丈夫ですか……」
「……ほっとけよ」
「いや、でも、その、このままだと、死んじゃうし……きゅ、救急車、呼びますか」
「やめろ。なにもすんな」

彼は私にはなにも出来ないというのを雰囲気で察したのか、そのまま地面に座り込んでいる。どうしよう。もしもこのまま彼の言う通り放っておいて、次の日のニュースでこの場所のことが流れたら。意識を失ったまま何時間も放置、意識不明の重体、先日見たニュースキャスターの声が私の中に再生される。ここは裏道で、学校でもよく不審者が出るから、と注意喚起されるような道だ。今日はこの雨だし、そもそもの人通りが少ないこの道を選ぶ人は、もっと少ない。どうしよう、どうしたら。
ぐるぐると頭の中がぐちゃぐちゃになり、私が下した決断は、多分正しかったのかもしれない。

「何してんだよ……」
「ぬ、濡れたら寒い、ので。使ってください。私、家すぐ近くだし、も、もう帰るところだったので。あ、返さなくていいです、使い終わったら、す、捨ててください」

今年の誕生日に新しくプレゼントしてもらったばかりのピンクと白の水玉、フリルとリボンがついた傘をしゃがみ込んで動かない彼の体に立てかける。その後、これも、と鞄からハンカチタオルを出して彼の肩に置いた。傘もハンカチもどちらもお気に入りで、買ったばかりのものだったけど、その時の私は、それを差し出したから、私のことは見逃してほしいし、私に責任はないのだ、と思いたかったのだと思う。濡れていく衣服は足が濡れていくことよりもずっと不快だったけれど、もうなんでもよかった。

「せっかく、綺麗な髪の毛なので、大事にしてください」


彼が三途春千夜という名前で、なんと同じ学校だったということを知るのは、その四日後のことだった。まだその時はクラスの女の子の中に言葉を交わすような仲の子がいたけれど、特段仲が良いということでもなかった私は、帰りのホームルームが始まる前の喧騒の中、特にやることもなく、今にも雨が降り出しそうなどんよりと暗い空を教室の窓から眺める。
傘、忘れた、というより先日の一件で自分用の傘を失ったのだ。
あの後、彼が何か言う声を全て無視し、脱兎の如く逃げ出した私。
勿論買うべきものを買わずに蜻蛉返りした挙句、買い与えたばかりの傘をなくし、びしょ濡れで帰ってきた私に母は得体の知れないものを見るような目を向けた。なにかあったの、とタオルで包み込んでくれる母に私はやっと安心することが出来てそのまま大号泣した。
事情を聞いた母は、逃げたことを褒め、その後その道は絶対に使わないこと、帰りが遅くなる時は逐一連絡を入れることを私に言い聞かせる。そして、ぎゅ、と私をキツく抱きしめた。そんな風に抱き締められたのはずっと前が最後だったので、私はさっきまで感じていた恐怖を忘れ、気恥ずかしさを覚える。逃げ出そうと蠢く私を、強く押さえて母は、約束よ、と懇願するように呟いた。私の耳には、まだその声が残っていて、1日に何度も再生される。

さて、どうしようか。傘がないのは困る。母に迎えを頼もうか。そう考えを巡らせる私を嘲笑うようにポツポツと降り出した雨が教室の窓を叩いた。ああ、と嘆くような声が私の口から飛び出す。仕方ない、と鞄から携帯電話を取り出すために手を伸ばすと、背中をポンポンと優しい力で叩かれた。振り返ると、青褪めた顔のクラスメイトの女の子に、三途くんが呼んでるよ、とこれまた震えた小さな声で囁かれる。サンズ、くん。どれだけ脳内の引き出しをひっくり返そうとも私の知っている人物にそんな名前の人はいない。女の子の後ろに見える教室の引き戸へ視線を滑らせて、私は、ひ、と息を飲んだ。そこには先日傘を押し付けた男の子が真っ直ぐに立っていたのだ。

なんで、どうして、とかそんな言葉が頭の中に巡る。同時に、約束よ、という母の温かい声が警報のように何度も何度も耳の中で響いた。教室の中は突然の彼の来訪に恐れ慄き、しん、と嫌な沈黙に包まれている。本当に小さく、彼には聞こえない程の声量で、ヤバくない、とか、先生に言った方が、とかそんなことを相談し合う声が聞こえた。
その異様な雰囲気に彼が、そういう畏怖の対象なのだと私はようやく思い知る。人に迷惑をかけるわけにもいかないし、流石に彼がどれだけの不良だったとしてもこれだけの注目を集めた上で私に何かするわけがない。そう自分に言い聞かせて私は震える足を叱咤し、立ち上がってのろのろと彼の元へ歩いて向かった。

「え、と……なにか、御用ですか」
「……三途、春千夜です。先日はありがとうございました。傘、返そうと思ったんですけど、汚れてて。これだけ」

彼はボソボソと、書かれたカンペを読むような棒読み加減で私に真新しいビニールに包まれた新しいハンカチを差し出す。先日私が彼の肩に無理矢理押し付けたハンカチと似たようなカラーとデザインのものだった。受け取れません、と私がやんわりと押し返すと、彼は眉根を寄せて、受け取ってくれないと自分が困るので、と無理矢理私の手に押し付けてくる。
もしかして親御さんとかにそう言われたのだろうか。そう思うと途端に彼が同年代の普通の男の子のように思えて、私は強張っていた肩の力が抜けるのを感じる。
じゃあ、ありがとうございます、と私が受け取ると三途くんは寄せていた眉の力を抜いた。マスクで顔の半分が見えないけれど、綺麗な顔をしているんだなぁ、と私は彼の長い睫毛に見惚れる。すると、彼の目が私の背後にある窓を見つめた。そして、傘は、ありますか、と聞いてくる。
さっきのお礼のような言葉とは違い、彼の気遣うような感情が籠った声に私は自然と首を横に振っていた。ありません、忘れちゃって、と口からポロリと溢れた言葉に、私の方が慌ててしまう。傘を押し付けた本人のくせになんてことを、と口を覆うけれどもう遅かったようで、彼は何かを考え込むように黙り込んだ後、小さく、送りますよ、と呟いた。そして、また来ます、と踵を返していく。その背中は教室棟ではなく恐らく昇降口につながる階段の方へ向かっていくので、私は首を傾げてしまった。
教室には戻らないんだ、変な人。でも、悪い人ではなさそう。なんて思いながら振り返ると、三途くんに向いていた異形のものを見るような目は今度、私に向いていた。私はその日から、クラスメイト達に遠巻きにされたのだ。

そして微妙な空気のまま帰りのホームルームを終えてカバンを背負えば、再びしんと静まり返る教室。みんながチラチラと視線を向ける前方の扉へと視線を向けるとそこには、やはりとも言うべきか三途くんがカバンも持たず立っている。なんとも言えない空気が漂い、おそらく私に用事がある彼をなんとかして遠ざけて欲しいのか、クラスにまだ残っている生徒が道を開けてくれた。そこを縫うようにして歩き、彼の元へ辿り着くと頭一個分彼より低い私を見つめ、もう大丈夫ですか、と尋ねてくる三途くん。
何が大丈夫なのかはよく分からなかったけど、もう学校に用事もないので私は頷いた。

昇降口に到着すると、三途くんは傘立てに無造作に突き刺さっている傘の中から大胆に1本抜き取り、広げる。多分穴があいていないかだとか、そういうことを見ているのだろうけど、そもそもそれは彼のものなのか。よく分からなくて聞けなかった。
彼は傘になにもないことを確かめ終わるとそのまま1歩踏み出して、私に向かって差し出す。どうぞ、と言われたのでそれを握ろうと手を出すと違います、と短い言葉で制止されてしまった。
行き場を失った私の手がゆっくりと降りたのを確認すると、三途くんは綺麗に整った顔で笑う。誰のか分からないものは握らない方がいいですよ、と言うので、私はその傘はやっぱり彼のものでは無いのだと確信した。三途くんのじゃないの、と尋ねると彼は貼り付けていた笑顔をすぐに消して、何秒か黙ったあと、借りました、親切な人から、と再び笑みを貼り付けて答える。
嘘か本当かは私には分からないけど、なんとなく、嘘は言ってないのだ。その傘の持ち主なんて私には分からない。彼は本当に借りてきたのかもしれないし、若しくは何も言わずに抜き取ったことを借りる、という言葉で誤魔化しているのかもしれない。
分からないけれど、私のためにしてくれたことなら、と。私は呟くように、ありがとう、と小さく言った。彼の耳には聞こえたらしいその言葉を、どういたしまして、と優しく返される。

相合傘なんて甘酸っぱいものではなく、きっと傍から見たら何処ぞのヤクザの組長の娘とその付き人だ。きっとそう見える。それは私の見た目にそんな雰囲気があるのではなく、私の右斜め後ろをついて歩き私だけが濡れないように配慮する三途くんの姿によってだ。彼はその端正な顔が雨水で濡れていることを気にもかけず、ただ前を向いて歩き続ける。時折私の視線を感じてはこちらに貼り付けた笑みを向けて、濡れてませんか、とその長いまつ毛に水滴をつけながら問い掛けてきた。
私は大丈夫だけど、三途くんはそれじゃ濡れちゃうよ。私の気まずそうな声が傘にぶつかる雨音に混じる。三途くんはそれでも私の声を拾い上げて、オレは大丈夫です、と言うので私はただ俯くしかなかった。
ごめんなさいお母さん。私は人でなしかもしれません。そう心の中で懺悔していると三途くんはぽつりぽつりとこの間のことを話し始めた。
自分は東京卍會という暴走族に属していること、そしてその中の部隊の副隊長をしていること、先日はそれを知った他のグループが1人のときを狙って襲ってきたこと。
今まで特に変わったことも無く平々凡々とした人生を送ってきた私にとって彼の口から語られることは全てテレビや本の向こう側の世界のことのようで、まるで現実味を感じなかったけれど、彼の顔に未だに残る痛々しく生々しい傷がそれを現実なのだと私に思い知らせてくる。

そっか、大怪我しないといいね。
私の口から出たのはそんな月並な言葉だけだった。三途くんはその私の言葉に一瞬黙り込むとやがて少しだけ肩を揺らしふ、と息を漏らす。笑ったのかな、そう思って彼を盗み見ようとすると傘で隠されてしまった。
気を付けます。さっきよりも余っ程人間らしい響きを持って三途くんが呟く。そっか、気を付けてくれるんだ。私の言葉が伝わったのが嬉しくて私は彼に感じていた恐怖も全て無くし、アスファルトに跳ね返ってくる雨水を見つめた。不思議なことに、彼と歩くと不快でしかなかった雨も少しだけ楽しく感じて、ひっそりとバレないように私はニヤける。なんだか、私しか知らない彼を知れたような気持ちだった。


雨の日だけ学校にふらりと現れて私を家まで送り届けてくれる三途くんとの関係はその日以降もずっと続いた。さすがに梅雨の長い雨の時期は、来れないので、と真っ黒な傘を代わりに渡されたけれどそれも雨の時期が終わるとすぐに回収されてしまって、私はそれ以降も彼のさしてくれる傘で帰宅している。
傘を毎回忘れるのに濡れてかえって来ない私にお母さんは、彼氏でもできたのかと鼻歌でも歌いそうな上機嫌で聞いてきたけれど、お門違いもいいところだ。けれども否定すれば、なんで、と聞かれる。私は彼との雨の日だけ発生する変な関係に名前なんかつけられたくなかった。関係に名前が付くと、それはいつか終わってしまう。そんな気がしていたのだ。


そんな思い出を懐古しているといつの間にか授業は終わっていた。まだ写し終わっていない板書も帰りを急ぐ日直に消されて、私のノートは埋まらないまま閉じられる。
仕方ない。誰か見せてくれるかな。無理だろうな。そう思いつつ、周囲を見渡したけれどやはり私の周りには見えない壁のようななにかがあるらしい。みんな私を見えないもののように扱う。みんなは知らないのだ。
三途くんは不良だし、少し、いや、結構変わっているけれど、義理堅い人なんだということを。今所属している東京卍會という場所も、尊敬する人のために入っていると言っていた。いつかその人の右腕になるんだと笑う姿は、いつもの貼り付けたような笑顔ではなく本当に輝いていたから、私はそれが本当に彼の思いなのだと受け止めている。
でもそんなことを私が大きな声で言ったところできっと何も変わらない。彼が振るった拳の数が減る訳でもない。
私が今彼と普通に話をしたり、雨の日という限定のもと、行動を共にできるのも、彼の暴力の矛先が私に向いていない今のうちだけなんだと私も知っている。
もう授業中に呆けるのはやめよう。そう心に決めて帰り支度をしていると、背後から控えめに声を掛けられた。振り返るとあの日と同じような青ざめた顔で女の子が、三途くんが昇降口で待ってるって言ってたよ、と私に告げる。
来てたんだ。そう思いながら、私は顔に笑みを貼り付けて、わざわざありがとう、と彼女に言う。いつの間にか、笑い方が彼に似てきたみたいだった。


何となく憂鬱な気持ちのまま昇降口まで降りるとそこにはいつもと同じように真っ直ぐと前だけ見て三途くんが立っている。
雨のせいで湿り気を帯びた廊下と私の上履きが擦れて高い音が鳴った。三途くんの綺麗な長いまつ毛がゆっくりと動いて瞬きをし、こちらにその視線を向ける。本当に綺麗な顔だなぁ。これで喧嘩をするんだから勿体ないなあ。なんでマスクをしてるんだろうな。なんて普段は思わない言葉ばかりが頭に浮かんだ。

「……待った?」
「いえ……帰りましょう」

彼はいつもの通り笑うと黒い傘を広げて私が濡れないように傾ける。ねえ、濡れちゃうよ。毎回そう言うけど、彼はもう言葉を返す気すらないようで、ただ私が大きな独り言を呟いただけの変な人になってしまった。
自分の口元がへの字に曲がるのがわかったけれど、彼に何を言っても通じないことはこれまでの経験で培ってきている。
憂鬱な気持ちは晴れず、積み重なったが、それを飲み込んで私は帰り道を歩み出した。

今日は私の方がよく喋った。それこそさっきの5限の授業でぼーっとしていたら板書を写せなかったこと、三途くんから貰ったハンカチを今でも使っていること、三途くんが毎回来てくれるから傘を忘れるようになってしまったこと。冗談っぽく言ったつもりのその話に、三途くんはすみません、と謝った。ちょうど、出会った時のあの道に繋がる分かれ道のところだった。

「え、いや、三途くんが謝ることじゃなくて……うん、全然違うの。私が、ダメなだけで」
「違います。もう、迎えには来れません」
「へ?……あ、そうだよね。うん、いい加減、三途くんも忙しい、よね」
「……すみません」

三途くんは相変わらずマスクをしているので目元しか見えない。目元だけでは彼が何を思っていてどんな顔をしているのかイマイチ私には分からなくて、どんな反応をしたらいいのかわからなくなる。
そうか、もう来れないんだ。ただその事実だけが私の胸を締め付ける。どうしよ。少しだけ泣きそう。ツンとする鼻で思い切り息を吸い込んでから、どうしてか、聞いてもいい?と尋ねる。
三途くんはいつの日かのようにぽつりぽつりと、東京卍會を抜けること、抜けた後はこの界隈には暫くというより全く帰ってくる予定はないことを所々曖昧にしながらも話してくれた。そしてここまで関わってしまったことを最後に謝る。
本当はもっと早く終わらせるつもりだった、アンタに渡そうと買っていた傘もある、それでも渡せなかったのは、アンタといるこの時間が好きだったからだ。
そう言ってもう一度、巻き込んでゴメンと頭を下げる。

「巻き込んで……?私そんなふうに思ったことないよ。だって、私も」
「オレのワガママに、付き合ってくれてありがとう」

何がワガママなの。何もワガママなんかじゃない。だって、私はあなたに傘をさしてもらってただけで、なにもされてないのに。そう言おうとした私を遮るように、三途くんは私に傘を押し付けた。
捨ててください、と言われた傘はまだ全然真新しくて、きっと私のところに来る時にしか使ってないことが分かる。きっと初めて一緒に帰った日、他の人の傘を借りたことに私が難色を示したから、ただ私にさすためだけの傘を買ったんだ。だって彼は、傘なんていらない。
本当は知っている。彼は普段バイクや車に乗っていること。みんなが噂をするから、みんなにとっては見えない私にも聞こえるのだ。
三途くん、そんなの、捨てられるわけないじゃん。
私はその日、約一年ぶりに雨に濡れて帰宅した。お母さんはそれを最初、呆れたようにため息を吐いて出迎えたけれど私の手にある傘を見て黙ってタオル越しに抱きしめてくれる。
生まれて初めての失恋だった。


あれから彼は言った通り雨の日は勿論のこと、どんな行事があったとしても学校に現れることは無かった。きっと家だってそんなに遠くないはずなのに、彼とは全く会うこともないまま、時間だけが過ぎる。

当時彼の所属していた東京卍會は結局解散したようだけれど、代わりに梵天なんて言う組織を連日ニュースで聞くようになった。世の中はいくらも平和なんて訪れないみたいで、液晶の向こう側では抗争がどうのこうのと物騒な話ばかりが流れる。私はそれをただテレビの向こう側のこととして聞き流した。いつの日か彼の話をそうして聞いたように。

もう私は、天気予報を聞き逃すことはしないし、雨でなくても折り畳み傘をカバンに入れるようになったし、危険を予知して暗い道は避けるようになった。もうあの頃のように近いからと、危険性の高い道を選ぶようなことはしないし、万が一選んだとしてあの日のように倒れた人を助ける行動なんてもう、しない。
私は、あの頃よりも少しだけずる賢い大人になったのだ。

それでも、雨が降る日は、三途くんから渡された傘を必ず持ち歩く。まるでお守りのように。そうすれば、それに気付いた三途くんが、来てくれるような気がしているから。未だにそれは叶わないけれど。
頭上に広げた傘はシンプルなピンク一色の傘で、子どもだったあの時とは全く違うデザインのもの。そういえば三途くんは私に渡すための傘を用意したって言ってたけれど、それはどうしたのだろう。まだ私みたいに持っているのかな。きっと彼のことだから私が渡した傘と同じようなものを探してくれたに違いない。
大人になった彼が今どんな顔をしてどんな仕事に就いているのか、私には全く想像がつかなかったけれど、そんな彼が可愛らしい傘を持っているかもしれない。そう考えただけで少し幸せな気持ちになる。

三途くん。雨が降ってるよ。私はあなたが帰ってくるかもしれないって、あなたの傘を持ち続けてるよ。隣は結局埋まらなかった。ぽっかりと空いたまま、こんなところまで来ちゃったよ。
あなたはまた人のために傘をさしてるんじゃないですか。自分のためになんかささない人だから、私はずっとそれが心配です。
濡れてませんか。寒くありませんか。あなたが少しでも暖かく、明るい場所にいることを祈ります。

そう思いながら、私はひとり暮らしをしている家へ帰るために歩き始めた。突然背後から話しかけられた声はどこか聞き覚えがあって、私は警戒することも忘れて振り返る。目に鮮明に焼き付くピンク色の髪のその人は、にんまりと笑った。口には割かれたような傷跡があって、私は息を呑む。


「捨てろって言ったのにな」


可哀想に。そうまるで他人事のように呟くその人を私は知っている。だけれど記憶に残る彼と目の前のその人、全く異なる雰囲気に戸惑ってしまって私の口からは言葉にならない声だけが漏れた。その人は手に持っていた、昔、私が持っていたようなデザインの傘を掲げて笑う。


「迎えに来たぜ」


私の頭の中には、お母さんの声が警報のように響き渡った。

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