乞うだけの祈りの言葉/迅




「迅くん、見たくないものは私が隠してあげる」
私がそう言って自分より頭一個半分程背の高い迅くんの目をふたつの手で覆い隠すと、彼はいつものようにへらりと口元だけだらしなく笑って見せた。俺の副作用は頭に浮かぶもので目に見えるものじゃないよ。そうやってあまりにも可笑しそうに笑うから、私は少しだけムキになって、私の手の温度にだけ集中してよ、と少しだけ突き放すように言った。すると迅くんは私の手に自分の手を添えて、本当だ、あったかい、と呟く。あったかいね、ともう一度言った彼はそのまま私の手に縋るように俯いた。私は自分よりも大きい彼の背中が丸まって小さくなっていくのをただ見つめる。手のひらが濡れていくのには気付かない振りをした。


私の恋人は、実力派エリートだ。自他ともに認めているらしい。彼は私にボーダーの話をするとき、そうやって言うから私はそれを信じている。彼は、未来を少しだけ垣間見ることが出来るらしい。詳しくどのようにすれば見えるのか、どんな風に見えるのかはボーダーの人以外に言うことは出来なくて、本来私に言うのもアウトギリギリらしい。

私の恋人はいつも選択肢に迫られているようだ。例えば分かれ道を右に行くか左に行くか。朝起きた時にすぐに寝癖を治すかどうか。そんな些細なことにも大きな未来を左右するかもしれない要因が含まれているらしくて、生きている時間を全てボーダーや三門市のために捧げているように私の目には映る。ボーダーというのも大変なものだなあなんて私が呑気にどら焼きを食べている間にも彼は忙しなく明日の未来のために働いていると言うのに。なんか無力だな、といつの日か私がぼやいた時、彼は大きく目を見開いた。それから私の二の腕をその大きな手でがっしりと掴むと、そんなことない、と切羽詰まったように言う。

「そんなことないの?」
「そんなことないよ。無力だなんて、感じなくていい。なにもしなくていい。俺のことだけ、信じて」
「うーん……わかった」

迅くんがそう言うなら。私がそう言うと迅くんは、ほ、と息を撫で下ろした。何か見えたのだろうか。見えたのなら、その先の未来の私はどうなったんだろう。聞いてもいいのかな、と思ったけれど、やっと安心したように揚げ煎餅を食べ始めた彼にこれ以上何かを聞くのは野暮かなとも思ってやめた。食う?と聞いてくる顔の呑気な様子が可愛くて、袋をひったくるように奪うとそれも視えていたのかもう一袋懐から取り出すので笑ってしまう。
彼とこんなふうに過ごすのはひと月に3回もあれば良い方で、私はこの穏やかな時間がとても大好きだ。彼もちゃんと生きているんだと思えることができる。ねぇ迅くん、私あなたの笑う顔が大好きだよ。目を細めてほんの少し眉間に皺がよるの。そう思いながら彼の眉間に寄った皺を人差し指で押した。擽ったい。そう言った迅くんは私の人差し指を握ってそこに口付ける。まるで祈るような仕草だな、と思った。


「三門市から出てほしい」
「……なんでかな?」
「なんでも。明日だけでいい。行くところがないなら俺が宿の手配もする。明日だけは、ここにいないでほしい」
「明日、なにかあることはわかったよ。明後日迅くんに、会える保証はあるの?」

朝早く、私が午後からの授業のレジュメを見返しながら焼き過ぎてしまって端の方が黒く焦げているトーストを食べているとふらりと迅くんが現れた。迅くんは私のそのトーストを見て食べてもいないのに苦い顔をすると、突然そんな風に話し出す。突拍子もないその内容に私が尋ねると彼は言い淀んだ。そうか、言い切れる保証はないのか。

「出ないよ」
「ダメだ。それだけはダメ」
「私の人生だよ。迅くんが決めたら、迅くんの人生になっちゃうじゃん」
「それでもいい。責任取れって言うならいくらでも取る。だから、明日」
「明日会えなかったら、明後日もその先も会える保証なんてないのに?」

押し黙った迅くん。我ながらなんて意地の悪い質問だろうかと心の中で笑う。
入ってきたまま、座りもしない迅くんの手を取って下に引っ張ると、逆らわない彼の膝が地面についた。ごめんね、ごめんね。その気持ちが少しでも伝わるように私は何度も迅くんの冷え切っている手の甲を撫でる。明日、ここに残るなら、せめて俺に今助けてって言ってくれない?と本当に何もかもを諦めたような声で呟く迅くん。私は撫でる手を止めずに、私ね迅くんの笑う顔が大好きだよと囁いた。

「呑気にお煎餅を食べてるところも、寝てる顔も。私のこと一生懸命考えてくれるところも、全部大好き。大切。なくしたくない。ありがとう私にそんな気持ちを教えてくれて。でもね、私ボーダーで頑張る迅くんが1番大好きだよ」

私じゃなくて、みんなを救ってよ。彼がこの先何かに迷った時に、今日みたいに迷わないように、私があなたを守ってあげる。撫でるのをやめて彼の手をふたつの手で包み込むと、彼は首を横に振った。その顔を見つめると、私の胸は罪悪感でいっぱいになるけれど、それでも彼の望む言葉を一つも発することはない。
迷わないで、大丈夫。私は私を守るあなたよりも、みんなを救うあなたが大好きだよ。あなたが嫌いなあなたを私が一つ残らず愛してあげる。許せないなら、私があなたを許してあげる。

「私のことは、助けなくて大丈夫。大好きよ、迅くん」




冷たい。重い。痛い。迅くんは大丈夫かな、と考えながら身動き一つ取れない瓦礫の下で瞬きだけを続けた。ただ死ぬ選択肢を選ぶわけじゃないから、生きるための行動をするけれど。昨日の彼の様子から私はそもそもここに残っている時点で死ぬことが決まっているのかな、なんて視えもしない未来を予想する。忙しいだろうに、昨日はギリギリまで私の側から離れなかった彼は、色々考えを巡らせているのか言葉を発することは少なかった。
私は彼のそんな様子を見れて満足だった。好きな人が私のことだけを考えて、いっぱいになる。不謹慎だけれどそんな幸福なことはない。
せめて死ぬ前に、彼のことだけを考えよう。第一次大規模侵攻で家族を亡くした私はいつ死んでもいいと思っていた。それでも彼と出会って変わった。彼だって大切な人をたくさん亡くしてきただろうに、笑って生きる姿がとても悲しくて健気で美しかった。彼のように生きられたらと何度も思った。彼は彼の力がある限り生きることをやめられない。残していくのは辛い。ズタズタの彼の心にまた新しく傷を刻んでしまう。もう彼の手を暖めてあげることは私には出来ないけど、どうか悲しまないでほしいなんて無責任なことを願った。

どうか、明後日も彼が息をしていますように。ああ、でもやっぱり最後には彼の顔が見たかった。視界の隅で彼が置いていったお煎餅の袋やいつの日かもらったクマのぬいぐるみが爆発の振動で揺れるのを確認しながら私は瞼を下ろす。思い浮かべた迅くんの顔は、最後に別れた昨日の悲しげな顔で、想像の中でも悲しんでもらえるなんて生きていてよかったなぁと思った。



遠くの方から声が聞こえる。多分、私の名前を呼んでる。誰の声かはちょっとわからなくて私は真っ白な空間で首を傾げた。ここは温かいし、お腹も空かないし、何より痛みも感じない。目を閉じる間際まで押し潰されて痛かった足も今は全然痛くないし、傷もない。ここにずっといれたらいいのにと思うほどには快適。
私は死んでるのかな。三途の川とか渡らなくていいのかな、まあそんなの見えないんだけど。私は何もない空間でやることもなく、ただ膝を抱える。多分、死んだんだ。そう思うことにした。
死ぬ間際、自分が何を考えていたのかも思い出せない。誰かの心配とかそんなことをしていたような覚えはあるけれど肝心の人物を思い出せないのだ。なにか、すごく大切なことだった気がする。痒いところに手が届かない。そんなもどかしい思い。同時に大切な何かをなくしてしまったようなそんな気持ち。例えば、両親が死んだ後に迎えたクリスマス。サンタクロースを信じたわけじゃないけれど、というかそんな年齢でもないけれど。私を囲んで笑ってくれる人がいない、そんなときに感じた気持ちに似ている。

また、私を呼ぶ声がした。誰だろう。上半身だけを捻って振り返ってみるけどそこにはやっぱり真っ白な空間が拡がっているだけで何もない。子どもがお母さんを探すみたいな、闇雲で叫ぶみたいな悲しそうな声。その声を聞いてるとなんだか自分まで泣きそうになった。
大好きな人だった気がする。大切な人だった気がする。忘れちゃいけない。

「じ、んくん」

喉がカラカラで張り付く感覚がしたけれど辛うじて出せた声は情けないくらいに掠れていて聞こえたかどうかも危うい。私の手を両の手で握るその手はじんわりと濡れていてどれだけ長い間握られていたんだろうと思うほどだった。
私の声が聞こえたのか、びくりと波打った体はゆっくりと起き上がって私を見つめる。真っ赤でほんの少し腫れた目はまるでウサギみたいだ。迅くんは何回か確かめるように私の名前を呼んで、握っていた手に力を込めてくる。

「痛いところは?ここ、病院なんだけど、分かる?自分の名前は?俺の名前言ってたけど分かるんだよな?……ちょっと待った、その前に先生呼ばなきゃか。その前に、もう1回声、聞かせて」

堰を切ったように矢継ぎ早に色々聞いてくる彼になにか答えてあげたいけれど目が回って取り敢えず手を握ることで起きてることと彼の存在を認識していることを伝えた。取り敢えず感覚があるので、瓦礫に押しつぶされていた自分の手も足もきちんとまだ機能しているのだと確認はできる。声を聞かせて欲しいだなんて、そんなこと起き抜けの私に言うなんて拷問でもしてるのかな。そう思いながら安心してもらえるように目を細めてみると、迅くんの目尻からそっと涙が伝う。綺麗だなあ。てことは私まだ生きてるんだな、視損ねた未来ってやつなのかなと思ってもう一度彼の名前をカラカラに乾いた喉で紡ぎ出した。

「じん、くん」

呼ばれたのに反応するみたいにボロボロと泣くものだから可笑しくなってしまって私は身体中痛いのを堪えて笑った。やっぱり喉が渇いて声は出せなかったけれど、それが伝わったのか迅くんも泣きながら笑う。今日がいつなのかは分からないけど、迅くんは元気そうでよかった。ボーダーでもなんでもない私が傷だらけなのはなんだか少し間抜けで、それにもまた笑う。
迅くんは先生が来るまでに、と一生懸命袖で涙を拭っていた。だけど間に合わなくて入ってきたお医者さんと看護師さんに苦笑いされている。死ぬ覚悟をしたけれど、死ぬ思いをしたけれど、こんな風景が見れてよかったな、と思った。


それから迅くんはほぼ毎日お見舞いに来てくれて、先日起こったことを話せる範囲だけ話してくれた。2度目の大規模侵攻があったこと、私はそれに巻き込まれて助けが間に合わなくて命を落とすことになっていたこと。何かが違ったのか分からないけど、とにかく救命やレスキューが予定よりもずっと早く三門市に入ることが出来て、それで私は助かったこと。
本当なら、俺が助けられたら良かったんだけど、と申し訳なさそうに俯く迅くんは本当に辛そうだった。私はようやく起き上がるまでに回復した体を捻って、彼の目を覆い隠した。いつの日かそうしたように。

「見たくないものは、私がこうやって隠してあげる」
「死んだら、もう出来ないよ」
「うん、そうだね」
「俺は君を選べないから、君が俺を選んでよ」

彼はそう言うと彼の目に被せた私の手をそっと握った。その力があまりに優しくて大切そうに包み込むものだから、今度は私が泣きそうになる。泣きべそばっかりの情けないカップルだね、と茶化して見せると迅くんは生きてればなんでもいいよ、と言った。
ごめんね、あなたを選べない私で。ごめんね。
その言葉は飲み込んで私は彼の心が少しでも安らかになりますようにと祈った。
私はね、あなたが救うこの世界が大好きだよ。
救うために使うあなたの両手が大好きだよ。
あなたが逃げないなら、私も逃げないよ。あなたが視る未来を、私も視たいよ。
私たちはお互いないものを補うように抱き合った。

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