きっと僕らのハッピーエデン 前編/牛島



4本の爪を支えにして光る大粒のダイヤモンド。そのサイドを控え目なカラットのダイヤモンドが更に彩る。
滑らかなラインのリングが鎮座するスエードのような生地の箱に刻まれているブランド名は、女性なら1度は憧れるブランドとして先日読んだ雑誌に書いてあった。
キラキラと照明にあたる度に光を放つそれに負けないくらいの夜景が一望出来るレストラン。
テーブルに添えられた赤い薔薇。
向かいの席に座る、私の恋人の顔は未だかつて無いほど緊張に満ちている。
いつだって準備を怠らず、自分の強さを疑わない。やるべき事をやってきたという自信に満ち溢れた彼。
だけれどさすがにその時ばかりは、そんな顔見たことないよ、なんて笑ってしまいたいくらいに強ばっていた。


「いいなぁ、それ婚約指輪だよね?うわぁさすが牛島若利じゃん若き日本の主砲は買うものも違うね」
「へ?あぁ……うん、そうだね。すごいよね。怖くてこれつけたままトイレとか行きたくない」
「えぇ、そこ?」
「うん。置き忘れたり、間違って排水口に落としちゃったらとかって考えると。怖くて」
「可愛い悩みじゃん!牛島くんならまた買い直してくれそうだけど」

そう夢見るような顔で言った私の高校の時からの親友はレバーパテを塗ったバゲットを1口噛みちぎる。それから白ワインが並々と注がれたグラスを傾けて飲み下す。
軽やかなラテン系の音楽が流れ、オレンジ色の間接照明の明かりが揺らぐ雰囲気のいいイタリアンバル。
ここは社会人になりたての頃にたまたま2人の最寄りの中間で探し当てた店だ。
賑やかな駅からひとつ外れた路地、控え目な店名だけの看板。
隠れ家みたい、お洒落だね、なんて入ってみれば料理も美味しくて結局今までずっと通っている。私たち2人が会う時は必ずここ、言わずとも暗黙のルールになっているほどにはお気に入り。
今日も近況報告会なんてそれっぽいことを言って集合をした。カレンダー通りの休みを得られる私とは違い、シフト制で毎日忙しく働く彼女。2人で時間を合わせて集まろうとするとかなり前から予定の擦り合わせが必要で、今日は約4ヶ月ぶりにゆっくりと顔を合わせている。
そんな彼女は流行りのネイルの施された指先を私の前に置かれているグラスに向けた。

「どうしたの?今日飲まないね?もしかして体調悪い?」
「……ううん。なんかこの席寒いかも。寒いとお酒進まなくない?」
「あーそれわかる。大丈夫?ブランケットもらおうか?」

頼んでからというもの中々かさの減らないフルーツたっぷりの赤色の液体。丸みのあるグラスには水滴が張り付いてしまっている。
派手な顔付きだから誤解をよく受けるらしい彼女だけれど心配そうな顔で気遣いをしてくれる優しい子。だからこんな私でも長く付き合いを続けられているんだと思った。

寒い、なんて嘘。
私は寒がりだからみんながやっと長袖のカットソーで過ごす今の時期、既に厚手のニットカーディガンにインナーも長袖のものを着込んでいる。
ちなみに親友は細い両肩が出ているオフショルダーの薄手のニットだ。
サングリアが進まないのは、グラスに手を伸ばすための左手が重たいからだ。物理的ではなく、心理的に。

見つめた左手、手のひらの半分ほどを覆い隠す袖感のニットカーディガンはふわふわのシャギーが可愛くて最近購入したお気に入り。来年は多分こんなショッキングピンクなんて着ないから勇気を出して買った。
右側に置いているのはお気に入りのブランドのハンドバッグで、中身は三つ折りの必要最低限のものしか入っていない財布にミラー、化粧直し用のリップに、お気に入りの香水を入れたアトマイザー。
お気に入りのものばかりで埋め尽くしている私。その指に不釣り合いなほど光り輝くリングを見つめると溜め息が出た。

「若利くんの、お義母さんってすごい怖いんだよね。別に敵意向けられてるわけじゃないし、嫌味言われたわけでもないんだけど。なんか、圧が」
「あー……なんか厳しい家だって言ってたもんね」
「うん。いつか孫はまだなの?ってなんの含みもなしに聞かれると思う」
「それ笑えるね。あんたの息子次第じゃん?って言ってあげな」
「あはは」

別にそんなことが不安なわけじゃない。でもなんとなくこんなことが悩みの種なんてことを言えば、私の左手の薬指も少しは軽くなるだろう。そう思って軽く笑えば、やっとグラスに手を伸ばすことが出来た。
そこから話題は友達が最近マッチングアプリで出会った変な人の話に移り変わって、2人目のマウントを取らないとやってられない男の話が終わった頃私のグラスはやっと空になったのだった。

「結婚式の日程決まったら絶対に教えてね!あと私スピーチするからね!」
「わかったって。気を付けて帰ってね」
「うん、また連絡するね」

ありがとうと何十回も繰り返すのは、彼女が気持ちよく酔っ払っている証拠。終電だと言う彼女を地下に続く階段のところまで見送って、私は体を翻した。

若利くんは心配症で、私がこうして飲みに行くと帰りは必ずタクシーを使えと言う。そんなお金勿体ないよ、終電で帰るよ、と反論をすれば「金額の問題なら俺が出そう」と言われてしまった。あぁ、そういう人だった。そこから彼をどう説得すれば納得してもらえるのか分からなくて、私はただわかったよ、とだけ言った。

カーディガンに合わせたマーメイドラインのスカートも、ハンドバッグに色を合わせたピンヒールのパンプスも全部全部お気に入り。
味もよく分からないままに次々と飲み込んだアルコールのお陰でふわふわとした感覚。親友にあんな風に喜んでもらえて、私は幸せなはず。
なのに、気分は全く優れない。俯いて歩く度に視界に入り込むアスファルトの欠片を数えた。
ヒールの踵が地面を控えめに叩く音を聞きながら、タクシープールまで歩く。

私は、多分流されやすい。いつも自分の選択が本当に正しいのか疑って、間違ったと思ったら過去の自分を呪わずにはいられない。だから日本バレーボール協会で働く父の紹介で出会った牛島若利という人に強く惹かれたんだと思う。

別に良い人がいるとかそんな下心満載な紹介だったわけではない。父はその日、彼の所属していたチームのサポートをしていて、いつもはしない忘れ物を、いつもは届けない私が、たまたま届けた。
関係者のネームプレートを下げているというのに、年齢が若いせいか警備員に止められて困っていた私を助けてくれたのが偶然通り掛かった若利くんだった。
偶然に偶然が重なった、人に話すと「運命みたい」なんて感激される出会いは本当にたまたまだったのだ。
牛島若利という期待のホープの後ろから現れた私に驚愕に満ちた顔をした父。ペコペコと頭を下げつつ私を彼に紹介して、彼が名乗って、そこから私たちの不思議な関係が始まった。

そんな思い出を懐古しながら、止まっていたタクシーに近寄るとドアが開く。乗り込んできた私をミラー越しに見た運転手は無愛想に「どこまで?」と、明らかに見下すような口調で聞いてきた。
どうせ大した距離を乗らないくせに、という運転手の気持ちがありありと伝わるようなその態度。
そっちがそのつもりなら、別にそれでいい。私だって乗りたくて乗ったわけじゃない。開き直った私は無愛想には無愛想だと、手短に車で1時間くらいはかかる私の自宅の住所を告げる。途端に顔が変わった。まるで疑うような顔だ。

「えっと、かなりかかりますけど……もう深夜料金だし」
「大丈夫です」
「……ほんとに?」
「払うの私じゃないので」

あぁ、と納得したような顔で頷いた運転手はようやくカーナビゲーションを操作してシフトレバーを握った。
こういうことは少なくない。タクシーの運転手の方がみんながみんなそうだとは決して思ってないけれど。かなりの高確率でこういう態度をされる。だから嫌なんだ。
でもこういうことを若利くんに言っても伝わらない。言ったことはないけど、多分言ったところで「なら違うタクシーにすればいい」なんて論点はそこじゃないよと言いたくなるような回答が来ると思う。
若利くんはズレている。痒いところに手が届かない、みたいな言葉が良く似合う。だから、意見を物申すためにはとんでもない労力が必要なのだ。
本当によくここまで関係を続けられたなあなんて彼にも自分にも感動をする。
流れていく景色を見ながら、私は若利くんと過ごしてきたこれまでを思い返した。

牛島くんがお前に会いたいみたいなんだよ、となんとも言えない顔をした父が夕食の時私に言った。
当時の私は若利くんのことを、牛島さんと呼んでいて彼のことは救世主だと思っていた。
あの時は何を言っても取り付く島もなく、とりあえず一緒に来なさいという警備員に、恐怖さえ抱いた。気を緩めれば良い歳をこいて人前で涙を流してしまいそうな程。
だから声を掛けてきてくれた牛島さんは神様のように見えたのだ。
だからその父の言葉には断る理由もなかった。別にいいよ、とわざと素っ気なく返事をした私に胸を撫で下ろす父と微妙な顔の母。
次の週末に父に連れられて練習を見に行くと牛島さんは私を見下ろした。

「連絡先を教えて欲しい」
「……なんでですか?」
「連絡を取りたいから以外にあるか?」
「いやそこじゃなくて……」

なんでそんなことを聞くんだ、と言わんばかりの牛島さんへ私の代わりに返事をしたのが父親。いいに決まってる、なんて勝手な返事。今思えばなんて父親なんだろう。

それから彼と交際を始めるのには長くはかからなかった。毎日定期連絡のようにおはようからおやすみまで届いて、たまの休みが被れば出かけようと誘ってくれた。どうやら彼には司令塔とも言えるマブダチがいたそうで、全ては彼による指示だったそうだけど。

彼と付き合い始めたのは、出会ってから3ヶ月経つ頃だった。たしか、ボトルネックのサマーニットを着ていたと思う。人生で初めて働いたファミレスのアルバイト。初めてのお給料で買ったお気に入り。
彼と会う時にいつも待ち合わせにしていた駅前のコーヒーショップ。いつも通り彼はブラックコーヒー、私はカフェラテを注文した。
丸テーブルに向かい合うように座って、いつも通り私の他愛のない話に彼が相槌を打つ。

ただその日彼は、折角頼んだドリンクに一口も手をつけなかった。約1時間弱もだ。だけれどわざわざ言葉にして指摘はしなかった。別にそういう時もあるのだろう、と私なりの気遣いのつもりで。
そんな彼の様子を気にせずに私は自分のカップに手を伸ばす。その瞬間、彼が徐に口を開いた。

「付き合って欲しい」
「いいけど……どこに?」
「……どことは?次に行くところか?まだ考えていないが」
「は?」
「お前が行きたいところに、次は行きたい。もっと好きなものを教えて欲しい。俺は女心に疎いらしいから、迷惑をかけると思うが、お前を好きだというのはずっと変わらない。それは約束する」

いいけど、と軽く了承してしまった付き合って欲しいという言葉が、どこかへ行くことに付き合えということではなくて、男女交際を示すことだと私はやっと気付いた。
別に特別好きだったわけでも、嫌いなわけでもなかった。ただ撤回をするための労力を考えると、気が引ける。私は付き合っていくことを選んだ。ただ、それだけだった。それが、始まり。

夜だと言うのにまだまだ街は明るい。車窓から時折差し込む街灯の明かりに反応して煌めく指輪。それを改めて見つめた。

私は、指輪を無くすこと自体が怖い訳では無い。これは、若利くんの覚悟だと私は思っている。値段もそうだけれど、牛島若利という人間が私という存在を生涯の伴侶として選んだ、そういう覚悟。
この指輪を無くしてしまえば、このよく分からない悲壮感に満ちた気持ちも無くなるんだろうか。
そう思うけれど、もしも指輪を無くしてそれを告げた時の彼の反応を想像することさえ恐ろしくて仕方がない。失望されたくない。
「俺はお前にとって、そんなものだったのか」
そんな言葉を、彼に考えさせること。
私はそれが怖いのだ。

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