きっと僕らのハッピーエデン 中編/牛島


陳列されている色とりどりのシルクのネクタイ、そこからシンプルで無難な紺色に伸ばした手が止まった。そこから彷徨うように左右に手が動く。
どうやら、俺は悩んでいるようだ。
正直、初めての感覚に自分自身が戸惑う。そして、考えた。彼女は、どんな柄が好みだろうかと。

誕生日を迎えたこと、プロバレーボーラーになったこと、それらを踏まえて母が新しいスーツを一式揃えようと俺に声を掛けた。母は店に着くなりお抱えの店員を呼び付け、俺を試着室へ追いやる。素早く俺の採寸を終える店員。
さすが母のお抱えともあり、すぐに俺に入るであろうサイズのワイシャツを渡すと今度は革靴を探しに裏へと戻っていった。
喉が渇いたな。そう思えば差し出されるペットボトルの水。その完璧と言える接客に母は満足そうに頷く。もう何着着たのだろうか。普段着慣れないこともあって、俺は少し疲労さえ感じていた。

「好きなものを選びなさい。私はシャツを選んでいるから」

俺の疲労した顔を見た母はネクタイが陳列されている棚を指をさす。それから店員へ何言か注文を言うと、今度はシャツを見始めた。
俺は無言でネクタイの棚へと向かう。
これと言って特別身に付けるものに拘りがある訳ではない。だが幼い頃から祖母と母から「きちんとしたものを身につけなさい」と言われていたことも相まって、俺は同年代よりも目が肥えているようだった。

良いものを良いと言えること、それが決して当たり前では無い。そのことはこれまでの人生で経験から培ったことである。その目を養って貰えたこと、それは二人に感謝すべきことだ。

スーツを3点ほど誂えていたことを考えると、ネクタイも恐らく何本か選ぶべきなのだろう。そう思って無難なものが集まって置かれている箇所へ目を滑らせ、そこに手を伸ばした。
そうして1番合わせやすそうな紺色に伸ばした指が止まる。

脳裏に先日顔を合わせた小さな同じ歳の女性が思い浮かんだ。白いシンプルなロゴがよく映えたTシャツ、デニム地のスカート。街を歩く女性が履いているのをよく見かける踵の高いサンダル。見るからにまだ学生と分かるその姿と警備員に呼び止められている様子が気にかかって声を掛けた。
よく見れば胸元には【関係者】と書かれたネームプレート。来なさい、と声を掛けられるような怪しい人物とは思えない。そのような事を言えば警備員はすごすごと去っていく。
安心したように息を吐いた彼女の目には薄く水が張っていて、どれだけ不安だったか、容易に想像ができた。

聞けばたまたまここにいる父親の忘れ物を届けに来たらしい。親孝行な娘だな。素直にそう思った。メインアリーナまで到着すると、父親の姿を見つけたのかすぐに駆け寄っていく。
踵の高い靴を履いているのに器用なものだ、そう思った。そしてその真っ白なサンダルから伸びる細い足首が妙に、記憶に残った。

彼女は俺の目から見て、センスが良かったような気がする。色使いやスカートの形ひとつ取ってもまるで彼女のために誂られたかのように感じた。
そんな、彼女なら。彼女がここにいたのなら俺へどんなものを選ぶだろうか。そんなことを考えていると気が付けば手に取ろうとしていた単色ではなく、あの日見たような真っ白のラインが入ったものを手に持っていた。

『それは恋なんでないの?』

たまたま電話がかかってきた天童にそれらのことを話すとあっけらかんとした声でそう答えられた。
恋愛感情。その言葉には苦い思い出しかない。
以前告白された女性と少しの間交際をしたことがあった。周りに促されるがままに交際をした自分に非がある。
だが、その言葉を聞くと別れの間際に言われた「牛島くんはなんにもわかってない」その言葉が頭を過ぎるのだ。
天童の言葉に何を返せば良いか分からず返事に詰まる。

『ホラ、なんだっけ?試着室で思い出したら恋!みたいな言葉もあったじゃん』
『俺が思い出したのは試着室でのことではない』
『いや分かるけど。まあ思い出すってことは恋じゃないにしろその子のことが気になるってことだと思うよー?』

とりあえず会えるんだったらもう1回会ってみたら?その後のことはその時にでも考えなよ、そう言われて切れた電話。自然と着信履歴を表示する画面に戻ったことを見届けて画面を落とす。恋。恋か。
その数日後彼女の父親が再びチームの練習に訪れた。良い機会だった。俺が彼女にもう一度会いたい、そう言えば彼女の父親は何度も頷く。
彼女に再び相見えるのにそう時間はかからなかったのだった。

その日の彼女は黒い体のラインに沿った丈の長めなワンピース、肩には優しい黄色の柔らかそうな薄手のカーディガンを羽織っていた。あの時のサンダルがやっぱり俺の目には眩しく映る。長い睫毛が、伏せているのが悔しい。どうかその目を俺に向けてくれないか。そう思って、はたと気づいた。
これは恋だ。

「連絡先を教えて欲しい」
「なんでですか?」

彼女は伏せていた目を俺に向けて訝しげな顔を隠さずに答える。なんで、そう問われるとは思わなかった。俺は、連絡をとりたい、そんな風に言うと彼女は呆れたような顔をする。
何故だろうか。連絡先を知りたいと思うのは、いけないことか?そう思っていると彼女の父親が苦笑いをしながらも横から声を上げた。

「いいに決まってますよ。な?」
「……まあ、牛島さんならいいですけど」

不機嫌そうに唇を尖らせる彼女。そんな顔も出来るのか。他にはどんな表情があるのだろうか。俺は期待に胸をふくらませた。

俺がその後更に彼女へ惹かれることにさほど時間は掛からなかった。見る度に表情が違う彼女。天童のように途切れずに話をすることも出来ない俺に怪訝な顔ひとつもしない。
それどころか相槌しか打たない俺にも臆せず大学生活や新しく始めたアルバイトの話を続けてくれる。
最近購入したアクセサリーを細い人差し指で指しながら「これはトップが可愛くてね」と話す彼女。俺はその飾りがアクセサリートップと呼ばれることを彼女から知った。
パスタひとつ食べに行くのに電車を乗り継いで行くこと。その途中でマカロンという焼き菓子を売っている店のケーキが美味しいということ。
コーヒーショップ毎に頼むものを変えること。
彼女のこだわりが俺にたくさんの世界を教えた。
そして、彼女で言う『お気に入り』の中に俺を入れて欲しい。そう思うようになった。

彼女のニットの網目を数えながら、俺は彼女に交際を申し込んだ。彼女が何かを勘違いしている。そんなことが彼女の言葉尻から読み取れたが、気付かないふりをして丸め込んだ。

俺は、そのくらい彼女という女性が欲しかったのだ。


彼女と交際を始めて、もうすぐ7年を迎えようとする今俺は彼女に結婚を申し込んだ。
ちょうど海外リーグがシーズンオフに入ったこともあり、日本に帰国した俺はいの一番に天童から勧められたジュエリーショップを訪ねた。まだ日差しが暑かった頃で、綿のポロシャツに熱が籠って気持ち悪かった覚えがある。
ガラス張りの、どこかの宮殿のような趣きのある店構えに入ることが忍ばれたがここを乗り越えられない者に何かを得ることなぞ出来ない。そんな使命感に駆られ、俺は店内に入った。

指輪には、サイズがあるらしい。なんとなく彼女に直接聞くことは忍ばれる。何故かそう考えて、脳内の【後で天童に聞くことメモ】に指輪のサイズの測り方を追加した。
考え込む俺に親身になって話を聞いてくれた店員は、彼女はどんなものが好みか、好きな色は、ブランドは、と事細かく聞いてくる。
答えられたのは色くらいなものでそれも曖昧だった俺は「出直そう」と呟いた。
やることも聞くことも多くなったが、これも彼女を家族とするため。そのことを思えば、どんなことでもやれる気がした。

彼女と家族になりたい、という漠然としていた目標が彼女と家族にならなければ、という明確な使命にも似た何か変わったのには理由がある。
彼女が社会人として働き始めた2年目の頃、急に連絡が途絶えたことがあった。
その頃俺はもう既に海外に移籍していて、彼女の変化に気付くことが出来なかった。距離がある、時差がある。言い訳が出来るならもっと並べたい言葉は沢山あったが、単純に俺は考えもしなかったのだ。
彼女の身に何か起こる、なんてことを。
日本時間の朝と昼と夜、必ず彼女はメッセージを送ってくれていたがその日は来なかった。
忙しいのか、そう考え、俺も自分の近況を手短に纏めて送信しその日は眠りについた。

『ごめん。実は昨日急性の胃腸炎になって病院にいたの。今日点滴して帰宅する予定だよ。若利くんは試合頑張ってね』

目覚めた俺はその言葉に目を疑った。聞きたいことは色々とある。体は平気なのか。倒れたのか。倒れたとしていつどこで倒れたのか。そもそもなぜ胃腸炎なのか。だがメッセージを打つための指が全く動かない。
とにかく彼女が、生きている。そのことに安堵と感謝を感じスマートフォンを両手で握った。
聞けば新しく彼女の上司になった男性と上手くいっていないらしく、自分でも気づかないうちにストレスを貯めていたらしい。
その時はたまたま実家にいて、そこで倒れたので大事には至らなかったとのことだった。
俺はその時思った。今のままでは、今の関係では、彼女に何かあった時俺は何も知ることが出来ない。じゃあどうする。家族になるしかない。それがきっかけだった。

彼女は俺を心配症だとよく言う。そんなことがあったのだ、過保護にもなるのは許して欲しい。
体調以外でも酔っ払った彼女はすぐ眠くなるらしく、飲み会の後終電を乗り過ごしそこからタクシーを使うことも多い。ならば最初からタクシーを使えば俺の心配事も少しは減るだろう。
そう思って提案したことに、彼女は何か言いたげにしたがいつも通り大好きだと言っていたミルクティーごと飲み込んだようだった。
彼女を言いくるめている。その自覚は大いにあった。だが、彼女に何も起こらなければ、俺はその方がいいのだ。

今日も繁忙期を終えた彼女は会社の飲み会の後、半同棲状態の俺の家へと帰宅した。
部屋に着くなりすんなりと眠りに落ちた彼女にそっとジュエリーショップからレンタルをしたサイズを測るための指輪をはめる。特に身動ぎもしない彼女はだいぶ深い眠りについているようだった。
彼女のアクセサリーケースから指輪を拝借していたお陰で大まかの予想はついている。7号ですっぽりと嵌ったそれを掲げて見つめると、その小ささに驚いた。
自分との体格の違いは十分理解していたつもりだったが、指さえもここまで違うとは。
試しに小指に入れてみようとしたが入りもしない。

「ん……」

寝苦しかったのだろうか。リボンタイのブラウスの首元に指をかける彼女。慌てて指輪を隠し、気休め程度に首元を弛めてやると穏やかな寝顔に変わった。
この寝顔を、どうか俺に守らせて欲しい。密やかにそう願って彼女の額にキスをした。


指輪を受け取って「ありがとう」と微笑む彼女。俺の光の加減で黒にも見えるネイビーのスーツと色を合わせた彼女のワンピースにキラキラとよく映える指輪を嵌めた彼女は贔屓目でなくとも美しく見えた。

「……結婚、したら一緒に住むよね」
「そのつもりだ。もう住む部屋も何軒かピックアップしてある」
「そっか。さすが若利くんだね。ありがとう」
「俺は半年後に再び向こうに渡る予定だ」
「ん。わかった。……ところでこの指輪、若利くんが選んだの?」
「ああ。店は天童に勧められた。だいぶ通って、店員に名前を覚えられた」
「へぇ……そうなんだ。見てみたかったな」

指輪を右手で撫でながら彼女は笑う。どこか自信なさげなその姿に、一抹の不安を覚えた。
万が一にも考えたくは無いが、彼女は俺と結婚したくないのだろうか。
食事を終えて天童に報告がてら、そんなことを零せば『それ絶対本人に聞いちゃダメだよー何か言うまで待っててあげなね』と釘を刺されてしまった。
出鼻をくじかれるとはこのことである。聞きたいことは聞けず、知りたい答えは知れぬまま。いつも通りを過ごす彼女に合わせて俺もいつも通り過ごした。

「明日友達と飲んでくるね」
「そうか。楽しむといい」
「ありがとう。多分帰り遅くなっちゃうんだけど……」
「明日も明後日も特に予定は無い。俺のことは気にするな」
「うん、わかった」

彼女はエプロンのリボンを結びながら俺を振り返る。ありがとうね、という声がか細く聞こえた。
本当に気にしなくていい。それは本心だ。だが言葉にせずとも伝わっている、少なくとも俺はそうだと信じている。彼女の細い背中が夕飯の支度を始めるのを見つめながら、俺はキッチンカウンターに置かれた指輪にも視線を向けた。
無くしたらどうしよう、と怯える彼女が一々寝室のリングケースまで指輪を置きに行くことが大変そうだ。そう天童に告げると1週間後に送られてきたアクセサリートレイ。
もしも、彼女が無くしたとしても俺はまた買うだろう。彼女の指輪の号数も、どの指輪だったのかも俺は忘れない。指輪はあくまでも形でしかない。何故なら、彼女自身に代わるものは俺にとってもはや存在しないからだ。

着いたという連絡にマンションの入口まで行けば、すやすやと健やかな寝顔を披露する彼女がいた。タクシーの支払いを済ませ、何か言いたげな運転手に礼を告げる。
アルコールの匂いを微かにさせる彼女の体をゆっくりと後部座席から抱き上げて、そこでやっと俺は胸を撫で下ろすことが出来た。今日も無事に帰ってきた、その事実に。
なるべく起こさないように歩いたが、車の振動とは違う浮遊感に彼女は瞬きを何回かして覚醒した。

「わかとしくんー……ごめんねぇ」
「大丈夫だ」
「力持ちだねぇ」
「軽いぞ」
「……あはは。わかとしくんはさ、あれだね。すなお。うん。あと優しい」

やさしくて、それが、つらいよ

彼女は酒気によって赤みを帯びた顔で笑う。そして静かに呟いた。一瞬動きが止まったが、とにかく部屋に戻ろうと足を動かすのを再開する。
辛い、辛いと言った。俺の優しさが辛い。言葉通りに受け取るなら、俺からの彼女への思いが負担。そういうことなのだろうか。
エレベーターの数字が上へカウントアップするのを見つめながら思案する。
ここ最近の自信なさげであったり、どこか所在なさげな様子であったりしたのは。そうか。つまり、俺のせいか。

「わかとしくんはなんでわたしなんだろうね」
「なぜとは、どういうことだ」
「わたし、これといって取り柄ないし、せいかくもそこまでよくないし、ぶすじゃないけどすごく美人でもないの」
「俺はそういうことでお前と結婚したい訳じゃないぞ」
「じゃあ、わたしを、どうしたいの」

部屋に着いて彼女をとりあえず下ろす。酔っているわりにはしっかりとした足取りで履いていた靴を脱いでいた。
俺も彼女の後について廊下を歩く。リビングまでのたった数メートルの距離で、俺は彼女から問われたことを考え続けた。
どうしたい。彼女を、どうしたいのか。
俺は、ただお前と家族になりたい。自分の母親と父親がかつてそうだったように、いつか自分も子どもを作り、育て、託したい。
それらは全て俺の願いであったり、目標であったり、将来成すべきことである。
じゃあ、俺は、彼女をどうしたいんだ。

リビングに着いた彼女は、気に入っていると話していたハンドバッグをそのまま地面に落として座り込む。その後ろ姿は幼い子どものようだった。

「わかとしくん、私、自信ない」

あなたを幸せにはできないと思う。

そう呟く彼女の声は泣きそうだ。
そう思った俺に間違いはなかった。なぜなら彼女の赤らんだ頬には一筋涙が伝っている。振り返り、俺を見つめた彼女に俺はなにか声をかけなければ、そう思ったが出来なかった。

言い淀むことしか出来ない俺は、とにかく、その左手の薬指にはまだ指輪が嵌っている。
その事実だけを確認した。

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