きっと僕らのハッピーエデン 後編/牛島




父親はいつも忙しく駆け回っている。そういうイメージだ。大学までずっと続けていたらしいバレーボールを今もずっと追い掛けて、中々夕食時には帰ってこない。
兄もその影響でバレーボールをしていて、高校生からずっと寮生活。4人家族が全員きちんと揃うことは、滅多になかった。
2人きりで食べる夕食にすっかりと慣れた私は、いつも通り綺麗に並べられたおかずを見つめる。味噌汁のお椀に手を伸ばした時、目の前に座った母がボソリと呟いた。

「結婚は墓場よ」

返事を求めているのか、大学生になったばかりの私に。結婚のイロハを。なんて私は一瞬思考が止まった。だけどお椀に伸ばした手は止まらず、それを簡単に持ち上げる。

母の作る料理はどれもこれも美味しい。出汁も粉末などは使わずにきちんと煮干しと鰹節を使っている(らしい。その時の私はよく分からなかった)
でも私と母以外その出来たてほかほかの1番美味しいご飯を食べない。それが悲しいんだろうか。そう思ったけれど気の利いた言葉なんて全く出てこない私は「男性がよく言うやつ?」とそれっぽい返事をしてみた。
すると母も父と揃えている夫婦箸を手に私の返事のような問い掛けに答えてくれる。

「女もそうよ。結婚したら、今まで自分のためだけに生きてきた人生が終わるの。旦那が帰ってくるからご飯作らなきゃ、洗濯しなきゃ、掃除しなきゃ。専業主婦になんてなったら、生活費節約しなきゃって言って自分にお金なんてかけられなくなるのよ」
「……お母さんは、そうなの?」
「結婚する前はそう思ってた。変わったのは子どもを産んでからね。貴方たちがいなかったら、とっくの昔に諦めてたと思うわ」
「え、お父さんと離婚を考えたことがあるの?」

この家族で過ごした20年、初めて知ったことに驚いて私は動かしていた箸が止まった。
母はそんな私を見ながらも今日のメイン、肉じゃがの白滝を箸でつまみ上げる。
「考えたことがないって言えば、嘘になるわね」と毒っけもなくただそう答える母。まじか、と茫然とした私の声がダイニングに響く。

別にもう成人もしていたからショックではなかった。周りには既に結婚している子もいて、SNSで旦那さんの愚痴をよく見かける。だから結婚がイコール幸せでは無いということも、何となく知っていた。ただそれが自分の母親にも当てはまる。そんなことを私は微塵も考えていなかったのだ。

母は大学で出会った父と社会人3年目の時に兄を授かってそのまま結婚をした。その後年子で私を授かってそのまま家庭に入ったらしい。
その頃のことはあまりの忙しさと大変さであまりよく覚えてない、人生の中で1番あっという間に過ぎた数年間だったと良く懐かしそうに話す。
そんな母と、それを気遣う父の図は幼い頃からよく見ていた。特別なことがなくてもケーキを買ってきてみたり、私たち兄妹がある程度大きくなってからは2人きりで出掛けたり。
もしくは母が友人達と旅行に行くのを父と3人で見送ったり。
この家に生まれて不幸だなんて思ったことは無い。それが当たり前ではなく、幸せなことだというのはニュースをきちんと見るようになったつい最近のことだけど。
結婚が墓場、誰も言わないけれど。それがもしもみんなが思う真理だったとして、じゃあみんなどうして結婚するんだろう。

「……じゃあ、お母さんはなんでお父さんと結婚したの?」

私の不安げな問い掛けに慌てた母は「お父さんのこと嫌いとかそういう訳じゃないのよ」と手を振る。

「結婚ってね、幸せばっかりじゃないのよ」

そう言った母、そのあとなんで父と結婚したのか、それを説明してくれたのに、意識がふわふわと遠のく。誰かが呼ぶ声がした。


いつの間にか、眠っていたらしい。運転手に「お客さん」と何度か声を掛けられて重たい目蓋を持ち上げるとコンタクトレンズがズレてしょぼしょぼとした。
何度か瞬きをして視界を安定させてから窓の外を見ると見慣れたマンション。いつの間にか着いていたらしい。まだ社会人になって3年くらいのペーペーの小娘が住むには敷居が高いこのマンション、多分もうほとんどの人が寝静まっているんだろう。

「ごめんなさい、降りてきてもらうので待って貰えます?」
「どうぞどうぞ」

一言了承を得て45分前に『下に着いたら連絡しろ』という若利くんのメッセージで終わっていたトークルームを開く。アルコールで気だるい体では文字をタップするのも面倒で、私は若利くんの初期設定のままのアイコンをタップして電話をかけた。

『降りる』とワンコールも鳴らずにその一言だけ言って切られたスマホ。そのスピーカーからは何も聞こえないのに私は数秒間耳に当てたまま固まった。あぁ、きっと待っていたんだ。早寝早起きが基本の彼が、こんな深夜まで。鈍った頭でそんなことを考える。降りてきます、と言った私の声に運転手が何を応えたのか、私はよく分からなかった。

ふわふわとした浮遊感。温かい何かに包まれる感覚。幸せだと思った。それでも、私の心は不安でいっぱいだ。

結婚が墓場で、幸せなことばかりではないのなら、私は若利くんに何をしてあげられるんだろう。若利くんは私に何をしてくれるんだろう。

わかってる。それを若利くんに求める時点で、私は結婚がしたい訳じゃない。
ごめんね、私は、あなたを幸せには出来ないよ。
そう思ったら頬に涙が伝ったような、そんな感覚がした。
私の答えは間違っている。きっと、幸せにできないのなら受け取るべきじゃなかったんだ。
左手の薬指にぴったりと嵌るその指輪は、まるでそんな私を嘲笑うようにキラキラと光る。
ごめんね、若利くん。私はあなたのこと、好きすぎるの。



「お父さんって、優しいでしょ。でもそれは家族にだけなのよ。今は年齢もあるから年相応に丸くなったけど。昔はもっと、こう、圧がねあったのよ」
「うそ、全然そんな風に見えない」
「そうよね。お母さんもこの人はきっと変わらないって思ってた。でもね、変わったの。飲み歩いていたのもやめて、家族のために働いて。お母さんを優先してくれるようになった。お母さんは、それが嬉しかったのよ」
「そう、なんだ」
「だから、結婚した理由は特にないの。強いて言えばまあ、妊娠したからね。でもその後は、こんなに私のために変わってくれて、頑張ってくれる人なら。この人となら幸せじゃなくてもやっていけるって思ったの。それが今もずっと一緒にいる理由よ」

穏やかに笑うお母さん。きっと言っていることに偽りはひとつもなくて、本当にそう思っているんだろう。それが伝わった。
自分のために変わってくれる。頑張ってくれる。もしもそんな人に出会えたなら、きっとそれは奇跡だ。
そんな風に思った時、私の頭に浮かんだのは最近知り合いになった牛島さんの姿。
私は彼のことをよく知らないけれど、見た目やたまに出る情報番組での様子、そして先日の出来事を鑑みると彼が人よりもずっと真っ直ぐな人なんだということは分かる。
彼は、どうなんだろう。もしも、自分と違う価値観があったとして彼は受け入れるんだろうか。
別に付き合うわけでもなんでもないのにそんなことを考える。そして頭を軽く振ってその考えを消した。

「貴方もきっと分かる時が来るわよ。いい?結婚すれば幸せにしてもらえるなんて思わないでね。大切なのは、この人となら不幸になっても大丈夫って思えるような人を選ぶことよ」

お母さんはそんな私を見てそう言った。お母さんの目にその時の私はどう映っていたんだろう。もう今、この時のことを聞いても覚えてすらいないかもしれない。

不幸って、どういう意味だったんだろう。
お兄ちゃんは知っているのかな。聞いた事があるのかな。私は知らない。
私の知らない、夫婦ふたりのことがあったんだろうか。
私は、若利くんとならそうなっても大丈夫なのだろうか。
自信に満ち溢れた彼の不幸になる姿なんて全く想像がつかなくて、答えが見つからない。

私、このまま今までの私を捨てて、若利くんと結婚が出来るだろうか。
目の前に広がる自分の墓穴には今まで集めたお気に入りたちがすでに埋まっていて、あとは私が入るだけ。迷ったような私の指先が、そこに触れた。

気が付けば私はキングサイズのベッドに寝ていて、きちんとパジャマにしているお気に入りのボタンダウンのワンピースを着ていた。化粧も落としていたし、最後の記憶ではもう乾いていたコンタクトレンズも外している。
首を傾げたけれど、その私に答えてくれるような人はここにはいない。
部屋の空気が私の体から滲み出るアルコールの匂いで満ちていて、気分が悪い。
カラカラと音を立てて窓を開けると、爽やかな朝独特の冷たい空気と一緒に日差しが入り込んだ。
大きく息を吸って吐いた。すると背後の扉が音を立てて開き、若利くんが顔を出す。

「起きたか」
「若利くん、おはよう。昨日ごめん」
「久しぶりだったのだろう。構わない」
「着替えさせてくれたの?」
「俺では無い。眠っていたのでここまで抱き上げて来たが、部屋に着くなり自分で寝る用意を始めた。風呂を入ろうとしていたが、危険なので止めた。沸かしてあるが、入るか?」
「……ありがと。入る」

その前に水を飲め、と私のステンレスタンブラーを差し出してくる若利くん。大きくてゴツゴツとした手が明るい色の花柄のそれを持っているのが、なんとも似合わなくて笑ってしまう。
彼は多分日課のランニングをして、シャワーを浴びていたんだろう。彼の体から漂う私の大好きなローズの匂い。お気に入りのボディソープ。

「今何時?」
「8時だ」
「そっかぁ……昨日遅くなってごめんね」
「構わないと言った。友人の方は大丈夫だったのか?」
「後で連絡す、る」

言葉が途中で途切れたのは、あることに気付いたからだ。
タンブラーを受け取ろうとした左手。そこに何となく視線を走らせて、ゾッとした。
何もつけてない。驚いてタンブラーはそのまま若利くんの手に押し付け、私はサイドテーブルのリングケースを見た。ない。ない。
血相を変えた私に若利くんは「どうした?」と声をかけてくるけど、答える余裕はなかった。
ドタバタと寝起きでもつれる足を動かして、バスルームに向かう。洗面台はいつも通り清潔を保たれていて、何も置かれていない。

「ない」

ない。ない。指輪が。重たくてしょうがなかった、あの指輪が。三面鏡になっている扉を開けてみるけど、そこにもない。床に落ちたのか、そう思ってしゃがみこんで探すがやっぱりない。眼鏡、眼鏡をかければ見えるかも。とにかく落ち着こう。バタバタと走り回る私にタンブラーを持ったままの若利くんが近寄ってきた。

「落ち着け。何がないんだ」
「ごめっ……あの、指輪が、なくて」

ごめんなさい、と唇が震えた。ダイニングテーブルに置きっぱなしにしていたケースから眼鏡を引っ張り出した。探さないと。ただその考えしか頭の中になかった。
タンブラーをその横にそっと置き直した若利くんは私の両肩を掴んで制止させる。眼鏡を掛けようとしていた手が止まった。
それを確認した若利くんの何を考えてるか全然分からない両方の目が、私をじっと見つめる。

「エンゲージリングか?」
「そう!それ……ごめんなさい。酔っ払って、それで」
「それなら、そこにある」

太い指が指したのはキッチンカウンターに置いてあるトレーだ。料理をする時、傷を付けたくないなあと一々リングケースに戻す私を見兼ねた若利くん。彼の指南役の天童くんに相談したところ、それがすぐに送られてきた。
私好みのホワイトとゴールドが繊細で可愛いそこに置かれたリングは、探していたもの。
良かった、あった……そんな言葉と共に崩れ落ちた私を受け止めた若利くんは、ダイニングの椅子に私を座らせる。

「すまない、ケースに戻しておけばよかったな」
「ううん、私が酔ってたからいけないの」
「……もし無くしても、また買う」
「それは、違うよ」
「違うのか?」

頷いて、タンブラーから水を飲み込む。ひんやりとした感触が喉を通り、そのお陰か頭も落ち着いた。まだ目覚めて10分そこらなのに、どっと疲れたような。引っ張り出した眼鏡を再びケースに戻す。
溜め息と共に「違うよ」ともう一度言った。
あの指輪だけは無くしちゃいけない。絶対。
これから先どれだけ貧乏になったとしても、絶対に手放さない。例えが下品だけれどそれくらいの代物だ。

「あれは、無くしちゃダメなんだよ。替えなんてない」
「……そうか」

自分にも言い聞かせるように呟くと、若利くんは頷いた。
そしてゆっくりと向かいの椅子に腰掛ける。背筋が伸びているいつもの座り方。出会った頃から何一つ変わらない。彼の育ちの良さとしっかりとした性格さえ感じるその座り方が、私は大好きだ。

「お前は正直、結婚に前向きでは無い、そう思っていた」
「……まあ、否定はできない」
「それは何故だ?と聞こうと思う、と天童に聞いたらやめておけと止められた」
「それ、もう私に聞いてるよね」
「あぁ、知りたい。もしも……もしもお前が何か抱えていることがあるのなら、分けて欲しい。俺は、そう思っている」

若利くんのその言葉は何かを耐えているようにも聞こえて、なんだか少し胸が苦しくなった。
私は、横を向いて膝を抱える。行儀が悪い、と小さい頃親に散々言われたけれど、大人になった今でも止められていない。この姿勢は安心するのだ。
膝を抱えたり、腕組みをしたりすることは自己防衛の現れだと心理学に精通している、というどこかの偉い学者さんがテレビで言っていたことを思い出す。私は、今自分を守りたいのか。なにから?そう頭の中で自問自答する。

恐怖から、守りたいんだ。怖い。若利くんとの始まりこそ、なんとなくだった。それでも迷わずに生きる若利くんを好きにならない理由なんてひとつも無かった。
大好きだ。愛してる。もしも別れるなんて言われたら、一生立ち直れないと思う。というか呪い続ける。私以外と幸せになる彼なんて不幸になればいい。
だから、怖い。
私は自由な私が好き。
好きな時に好きな服を着て好きな人と出掛ける。嫌だと思うこともあるけど、努力して入った会社。後輩も出来た。割と期待だってされてる。それを全部、手放す。手放して、彼を選んで、私はその先もこれまでと同様に彼を愛せるのだろうか。

「私は、怖いの。若利くんを選んで着いていくってことは今までを全部捨てるってことだから、それでも今と変わらず好きな私でいて、若利くんを好きでいられるのか。こっちを選ばなきゃ良かった、って後悔する日が来るんじゃないか。そのときに、若利くんを今と同じかそれ以上に愛せるのか」

ごめんね、と囁くような声がワンピースに紛れる。若利くんはどんな顔なのか、想像するのも嫌で顔が上げられない。テレビも消されたままのこの部屋は静かすぎる。
私と若利くんの息遣いだけが鼓膜を擽った。

「では、捨てなくていい。怖いなら捨てる必要はない。俺は来年からまた海外に戻るが、お前は日本に残っても構わない」
「へ?」
「俺は、お前が一緒にいてくれる方が調子が良い。だが不安を抱えてまで着いてくる必要もない。一生海外リーグにいるつもりはないし、お互い長い休みがあれば共に過ごせばいい」
「ま、待って……それ、結婚する意味ある?」
「ある。結婚をすれば俺たちは法的に家族だ。家族でなければ出来ないことがあるし、なにより俺はお前に牛島を名乗って欲しい」
「そ、れだけ?」
「それ以外あるのか?」

知らないよそんなの君のことだよ。私を縛り付けたいんじゃないの?そうじゃないの?
結婚って人生の墓場なんだよ?知らないの?
私の都合よく事を進めようとしてくれている若利くんは俯いたままの私に気遣うような声で私の名前を呼んだ。

「お前は、どうしたい?」

どうしたいってそんなこと、ひとつしかない。頭を埋めたワンピースの膝が生暖かく濡れていく。
わかってよ、私貴方から貰った指輪を無くしたって思ったらあんなに動揺して何も手につかなくなるんだよ。眼鏡をかけないと視界なんてぼやけてるのにそれでも探しちゃうんだよ。
お気に入りのものしかそばに置かない私が、牛島若利という存在をずっと傍に置いているの。ねえ、わかるでしょ?

「そんなの、決まってるでしょ」
「顔を見せてくれ」
「無理だよ、可愛くない」
「お前が可愛くない瞬間などない」
「そう思うのは若利くんだけだよ」

バカみたいな言い合いが続く。しわくちゃだし昨日飲んだアルコールのせいで浮腫んでるはずだし、昨日辛うじて化粧を落としただけの私が可愛いはずなんてない。私はさらに膝小僧に顔を埋めた。ひたひたに濡れた質のいいワンピースの生地が私の膝から体に溶け込むように感触を広げる。涙が止まらない。ジワジワと侵食していく暖かい液体。
震える熱い息が唇から零れた。

「俺は、お前と家族になりたい。暗いことを考えさせるようで悪いが、もしも万が一のことがお前にあった時に連絡を受ける一番の人間でありたい」

ダメ押しだ。懇願するような声に顔を上げるとそこにはリングを貰ったあの時とはまた違って、不安げな顔の若利くんが真っ直ぐに私を見ていた。
向き合いたい、そう思って私は抱えていた膝を下ろしきちんと椅子に座り直す。ガタリ、作りのいい椅子の足がフローリングに擦れた。
このダイニングテーブルも合わせて購入した椅子も、全部私の趣味で、若利くんには似合わないような可愛らしいデザイン。
分かっていたことなのに。こうやって、彼は私の望むものを全部叶えてくれる。
もしかすると、プロポーズされてからこんな風にゆっくりと向き直って話すのは初めてかもしれない。今まで、なんとなく迷わない若利くんにただ着いていくように一緒にいた。
彼の言葉はいつでも正直で迷いがなくて、私はそれがいつも正しいもののように疑わなかった。

「私だって、若利くんと家族になりたいよ」
「本当か?」
「嘘なわけない、本当だよ」
「日本に残るか?」
「……ううん。若利くんと一緒に行く」
「大丈夫か?それでは、仕事を辞めることになるが」
「……うん。私は、それでも若利くんを選びたい。多分ストレスも溜まると思う。八つ当たりもしちゃうかも。若利くんはいいの?」

若利くんは考え込むように視線をテーブルに走らせた。そして「分からない」とだけ答える。
分からないんかい。分からないのかよ。なんですかその答え。そこは「大丈夫」って嘘でも言いなよ。素直すぎるでしょ。
本当は、彼も迷いがあったのかもしれない。気取らせないだけで、本当はどこかで間違ったんじゃないか、そう疑いたかったのかもしれない。
下がっていた口角が自然と上がっていくのを感じる。ぷ、と空気が抜ける音が自分の口から出た。若利くんを見つめると、彼も同じように口角をにんまりと上げて笑っている。

「分からないね。だって、未来だもんね」
「ああ、そうだ」
「それでも私と一緒にいてくれるんでしょ?」
「無論そのつもりだ。でなければ、この様なものは買えない」

その言葉と共に若利くんの視線が走ったのは件の指輪だ。無難なものを選ぶ彼にしては随分ハイセンスなものを選んだなぁ、と思ったのは記憶に新しい。聞けばそのお店に足繁く通って、最終的には自動ドアが開けばスタッフがすぐにこれまでの接客を見返さずとも「牛島様」と対応してくれるようになるほどだったらしい。
そうなるまでどれくらいかかるのだろうか。まあ彼は今や世界で活躍する日本の大エースだから元々のネームバリューもあるのだろうけど。
その光景を改めて想像する。やっぱり似合わなくて笑ってしまった。
きっと若利くんは、いつだって私が間違えたと思わないように私なんかよりずっとずっと考えてくれていたんだろう。何を迷ってるんだ。

「若利くん、ありがとう。私、若利くんとなら不幸になっても笑えると思う」
「そうか。不幸にはあまりさせたくないが、そう思ってくれているのなら嬉しい」

私はもう一口タンブラーの水を飲み込んで立ち上がる。今度こそシャワーを浴びたい。ベランダに続く大きな窓からは温かい日差しが差し込んでいるからシーツも枕のカバーも干したい。
あとは最近出来た新しいパン屋さんにも行きたかったんだ。まだダイニングテーブルに向かっている若利くんに今考えた今日のスケジュールを告げると、彼は頷いた。
口許だけで微笑む若利くんはシーツを取りに寝室へと向かって行く。
結婚を決めたなら、この部屋には恐らくもう3ヶ月程しか住まないだろう。2LDK、オートロック、カウンターキッチンどれもこれもが私のお気に入りだったこの部屋。
きっと海外での生活も私のお気に入りのもので溢れるだろう。

人生を左右するような決断を、流されてはいけない。もしかすると、私は今日この瞬間に選んだ選択を後悔する時がいつか来るのかもしれない。
それでも、構わないと思った。だって若利くんは全力で愛してくれる。分けて欲しいと、そう言ってくれた。私は今日この日自分の目で見た若利くんを信じたい。

迷う余地なんて、本当はなかったんだろう。
答えはいつでもここにあったのだから。

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