大人になれないこどもたち/宮侑
▼▲▼
結婚をしている人の誰もがそれが自分の精神安定において大事なことと口を揃えて言うのだから、恐らくそうなんだろう。昨日の雨でしっとりと水分を含んでいるベンチに座りながら考える。でも、期待しないって選択をするってことは、少なからず期待をしたことがあるということで。そしてそれを裏切られた経験があるってことなんだろう。
けたたましく着信を知らせるスマホ。時間だけを確認して着ていたカーディガンのポケットにしまった。時間は20時半を少しすぎたところで、私がここに来てから20分程度が経っている。きっと家では、恋人の宮侑が騒いでいるはずだ。あれじゃないこれじゃない、そうではない。いくつになっても子どものようなあの人。
私、本当はもっと年上で落ち着いていて穏やかな、そう例えば怒る隙さえ与えないようなそんな人が好きだったのに。
ぼんやりしながらそんなことを思った。
まるで、侑を好きになったことを後悔するみたいな口ぶりに自分で笑う。
「ほんと、なんで侑なんだろ」
私の大きな独り言は夜の空気に溶けていった。
ようやく静かになったスマホを取り出して、機内モードにする。今電話しても話すことはないし、なにより彼に対して荒れている今この気持ちで話すことはお互いにとって良くない。
だって今の私は、侑のことを好きになった自分を後悔しているから。
こういう時は割とある。じゃあなんで別れないの?そう友達に言われる時も少なくない。だから誰かに相談したり話をしたりするのは止めた。私の中でそれは誰かに決められることでも提案されることではないから。
私のことは私が決めたい。だから、こういう時、私は侑との積み重ねてきた最初のやり取りを思い出すために見返すのだ。写真であったり、メッセージアプリのトーク内容であったり。
最近は本当に便利でありがたい世の中になった。つい先月スマートフォンを新しくした際には古いものと新しいものを並べるだけの簡単な作業でデータを全て移行が出来たのだから。
学生の頃なんて赤外線だなんだ、アドレスがどうだ、本当に面倒でアナログで。でも、まあ、今となってはそれさえ懐かしくて恋しいから人って結局ないものねだり。
まだぎこちない笑顔で侑の隣に並ぶ私を指先でつつく。侑の言葉は熱烈で、それに合わせる私もまだまだ初々しい。
暇さえあれば会いたい、電話したい、写真が欲しい、今何してる。そんな送られてきている言葉を見ながら、ああ、こんな気持ちだった。そうだ、こういう素直で真っ直ぐな言葉が嬉しくて擽ったくて。それまでしてきた恋愛の駆け引きのようなおままごとに近いそれらが急にバカバカしくなったんだ。懐古していくと同時に柔らかくなっていく心に笑えてくる。
馬鹿みたい。そんなことに絆された自分を今呪っている最中だって言うのに。
私と宮侑との付き合いはかれこれ3年前から始まる。きっかけは割とよくある話で、彼が私が当時働いていた飲食店に訪れた際に一目惚れをしたとかなんとかで連絡先を教えられて、それを目撃した同僚に「あれはプロバレーボーラーの宮侑で」とかなんとかととにかく連絡しないことには勿体ない。そんなことから始まった。
それから交際に発展するのには時間なんてかからなかった。さっき言った通り宮侑という人からの熱烈なラブコールに私が嬉しくなってしまったから。
彼のような魅力に溢れた人に求められること。それは私にとってとても価値のある事だったのだ。だから好きになったのか、そう問われれば、頷く。現金で情けない嫌な女。
それでも私は付き合ってしまえば彼の虜になった。不定休の私と多忙を極めるスポーツ選手とでは中々会う時間さえ取れなくて、でもそれがいい塩梅だったのだろう。会えない時間が愛を育てると言うが、その会えない空白が私の中の宮侑という存在をよりミステリアスで、でもどこが情熱的なそんな魅力に溢れた男にしたのだ。
でもそれは私の勘違いや思い込みが殆どだということは半年前に始めた同棲生活で嫌という程わかった。
「今日飲み会なん?俺飯どないしたらええの」
「俺今日練習で遅なるって言わへんかったっけ?飯済ましてきたわ」
「ハンドクリームいつも使うてるやつやないとあかんねん、覚えてえな」
こいつは、ただ図体だけが大きいガキだと。
ただ私が勝手に作りあげた宮侑像に実際の宮侑を比べて、勝手にガッカリすることはよくない。私だって伊達に年齢を重ねてきているわけじゃない。大人はそんなことでは、怒らないのだ。そんな風に自分に言い聞かせて、私は必死にその生活に慣れようと懸命だった。
それは、彼が好きだと思うから出来たことだった。言われなくても渡される練習表から何となくルーティーンを見つけて遅くなる日は前もって私から明日は遅いかと確認をしたり、聞くのも億劫になった時は簡単に温めだけで済ませられるものを作り置きしておいてみたり。
彼が毎回購入する生活必需品や嗜好品を観察してよく覚えてみたり。おかげで私は宮侑よりも宮侑という男について詳しくなった。
通年使用するのはさっぱりとしてベタつかないタイプのハンドクリーム。秋から冬にかけては乾燥が激しくなるのでこっくりとした保湿重視のものと併用をすること。最近はネイルオイルにも興味を示すようになったこと。目玉焼きを栄養食のように思っていること。感染症が流行った頃からノンアルコールのウェットティッシュを持ち歩くようになったこと。覚えたことを数え始めたら、本当にキリがない。
喧嘩の原因はなんだったっけかな。真上で煌々と光る月と星を見上げて考える。ああ、そうだ。タオルの畳み方だ。思い返すと、なんでこんな寒空の下で臀を冷やしながら頭も冷やさなければならないんだと笑えてくるような喧嘩のきっかけ。
「タオル、3つ折りにして。4つじゃない。これ言うの何回目なの?」
「ええやん、どうせ広げて使うん一緒やん」
「私4つ折りのタオル使い慣れてないの。嫌なの。やりたくないなら置いておいて」
「細か……やるだけ偉いとか褒めてくれたってええやろケチくさ」
珍しく早く帰ってきていた侑が、これまた珍しく洗濯物を畳んでいたのだ。白地に黒い模様のラグの上。大きな背中をこっちに向けて、胡座をかいていた。そんな甲斐甲斐しい姿なんて、同棲初日以降見たことがなかったから、私はほんの少し期待をしたんだと思う。もしかして、変わってくれた?私の負担を減らそうとしてくれた?私の見様見真似でやってくれた?そんなことを。
だから余計に裏切られた気がしたのだ。乱雑に畳まれた長方形の大判のバスタオル。4つ折りじゃ棚に入らない。収まらない。それ以前に私はずっと3つ折りで、そんなふうに畳んだタオルを侑は当初嬉しそうに「自分めっちゃ畳むの上手いなあ。俺にもやらせてえや」なんて言ってたのに。教えたのに。
侑のウンザリしたような溜息にぶちりと何かが切れて、私は「覚えないんだったらもういいやらないで」とひったくるように彼の手からタオルを奪った。そこからは売り言葉に買い言葉で最終的に「もういい、別れる」と家を飛び出した私の負けで終結したのだ。
だからみんな口を揃えて言うのかな。男には期待しない。するだけ無駄だから。女の子のために変わるとか、気持ちを理解しようと奔走するとか、全くもって有り得ない夢のまた夢。
そう思ったらポロリと左目から液体がこぼれた。涙だった。左ばかりから流れるそれを右の手の甲で抑える。しっとりとした感触と濡れた箇所が風に吹かれてひんやりとする。
「なにしてんねん、寒いやろ」
「……あつむ」
「はい、侑くんやでー。寒がりのくせしてそんな格好で飛び出すわ、電話は出ぇへんし……なにしとんねん」
「べつに、なんにも」
私の右側から現れた侑は鼻頭が少し赤くて、肩を大きく揺らしていた。耳を済ませると息を大きく吸ったり吐いたりするような音が聞こえて、もしかして走り回ってくれたんだろうか。そんな淡い期待が私の心をまた柔らかくする。侑はじゃり、と公園の砂を踏みしめて1歩ずつベンチに座る私との距離を詰めていく。右側に寄って座っているから、もしも彼が座るつもりなら左側に来るしかない。それは嫌だ、すぐに泣く女だと、そう思われたくない。
「ベンチ、まだ濡れてるからね」
「知っとる。朝方雨降っとったし」
「しばらくしたら帰るから、先に帰って」
「アホ。彼女放って帰るポンコツやと思ってんのか俺を」
「……私まだ彼女なの」
「……駆け引きしたいんか」
侑は来ていたパーカーを脱いで私の肩に掛けた。汗なのだろうか、ほんの少しだけ湿っている。そこから香る侑の匂いに、安心してしまった。
好きだから、期待する。何がダメなんだろう。
思い描いた彼と現実の彼が違うこと、それは当たり前だ。侑は、普通の男の人で。褒められれば嬉しいし、怒られればバツが悪そうにする。そこに余裕なんてないし、なによりバレー以外のことで駆け引きが好きじゃない。多分ほぼ全ての思考をバレーに費やしてるからなんだろう。彼は良くも悪くも真っ直ぐで、そして、残酷だ。
「したくない」
「俺もそんなんしとる暇あるんやったらお前とイチャイチャ仲良うしたいわ」
「……うん」
「風呂、沸かしてあんねんけど。お前ケツ冷たなってテンション低いやん。しゃーなし1番風呂譲ったるわ」
「うん」
「あと好きそうなチョコのデザート3つくらい買っといてんけど。冷蔵庫見ぃひんかった?」
「……見てない」
「アホ。あとあれ好きやろ、じゃがりこ。あれも馬鹿みたいな量アマゾンで買ったんやけど」
「……あの大っきいダンボールそれだったの?侑のクローゼットの前に置いたよ」
「俺のやない、お前の。置く前に聞けや」
侑のパーカーが触れる肩からポカポカと温かさが広がっていく。そうだよ、こういうところが好き。全然私ばっかりじゃない。だって、私は彼にチョコのデザートが好きだとかじゃがりこが好きだとかそんな話は1度もしてない。だから今の話は侑が私を見て理解したんだ。
今度は右側の目からポロリ、と涙がこぼれて笑いが込上げる。
「太るじゃん、ばか」
「太ってもええて何回言うたら分かんねん」
「天下の宮侑の隣に並べなくなる」
「自己満ってやつやんなそれ」
「そういうこと」
「せやったらいつまでもべそかいとったらアカンやろ」
「うん」
「帰ろうや」
私の右手を侑がとった。ほれ、と言わんばかりに侑は私に薬指と中指を握らせる。手の大きい侑と繋ぐとき、最近私はその2本だけ握るのだ。マイブームってやつで、それを侑が知っているのか、覚えようとしているのか、分からないけど。私はそんな些細な仕草も嬉しくて、侑から差し出されたその2本を力を込めて握った。「いったー」とおどけて見せる侑にクスクス笑いながら、1人で走り抜けてきた道を今度は2人でゆっくりと歩く。
私はごく稀に、何も分かってないと、分かろうとしてくれないとそんな侑に絶望する時がある。でもそうやってどん底に自分で沈む私を侑は必ず救い出してくれるんだ。
家に帰ってソワソワしている侑に手を引かれるがまま、まずは侑のクローゼットの前にあるダンボールを開けた。そこには私が大好きなじゃがりこが色んな味で詰め込まれていて、声を上げて笑う。その後私の着替えをとって、キッチンの冷蔵庫へ立ち寄った。自慢げに扉を開け放った侑の顔が可愛くて、デザートはよく見なかったけどその薄い頬っぺたに口付けを落とすとさらに機嫌を良くする侑。
最後に風呂場に押し込められて、扉の向こうで「ゆっくり入り!」と大きな声をだす侑が子どもみたいで笑いながら服を脱いだ。ふ、とタオル置き場に目をやると雑ながらに3つ折りにして詰め込まれているバスタオルが目に入って、目を見開いてしまう。
「子どもか」
褒められたくて仕方ない。そんな彼の様子に、私はお風呂から上がったらどう褒めてあげようか考えた。これだから、私は彼に期待せずにはいられない。
▲▼▲
- 10 -