探し物なんてなかった/赤葦



同棲の賞味期限ってどのくらいなんだろう。
連日続いた朝から夜までのハードな勤務に棒になった足を懸命に動かしながら考えた。凡そパンプスのヒール音とは思えないような足音を聞きながら、なんだか泣きそうになる。

疲れてると、ろくなことを考えられない。
辛うじて駆け込んだ駅前のスーパー。お米がもうないと言うのに、新米の時期だからなのかそれとも営業時間ギリギリだからかなのか、すっからかんの棚にも辟易した。お米を買ったなら、買えたならそんな自分を慰めるためにタクシーに乗れたのに。
またパスタだ。そう思いながら出来るだけ大容量のものを選んでカゴに入れる。ソーセージが家にあったような。それならペペロンチーノが食べたい。鷹の爪とニンニクをたっぷり入れて、なるべくオリーブオイルも多めに。疲れているとそんなことを思うことが多い。
同棲している彼は今日帰ってくるんだろうか。
迷いに迷って単売の缶チューハイに伸ばした手を6本パックの発泡酒の方へ方向転換させた。

やっとのことで迎えた金曜日。本当ならどこかで誰かと待ち合わせなんかして、人が持ってきてくれる料理と人が作ってくれるお酒を楽しく飲みたかった。
でもこのご時世、あまり外で飲むのはどうなんだろう。そこでもし何かあったら?自分だけならまだしも、私は彼氏と同棲をしている。
そんな暗い考えが頭をよぎるだけで、私の足は自然と家の最寄り駅に向かったのだ。
お会計は3,682円です、なんて声を聞きながら私は自分の財布からクレジットカードを出す。いつの間にか慣れ親しんだ仕草になった。
彼と付き合ったばかりの頃はカードなんて持っていなくて、小銭を上手く使うのに頭を使ったりしていたのに。何も考えずただただカードを出すだけ。少しだけ悲しくなる。

ガサガサと私のワイドパンツの裾に擦れて音を立てるレジ袋。6本パックなんか買ってしまったから指に持ち手が食いこんでくる。
疲れた。めちゃくちゃ疲れた。バスの終電まであと10分強。このまま徒歩で帰っても多分同じだけかかる。どうしよう。出来るだけ早く帰りたいのに、足が重たい。
取り敢えず自分の家の方に歩みを進めながら、頭の中に天秤をうかべた。どちらにも傾かず微妙な均衡を保つそれ。どうしようかな、なんて考えていると肩から下げていたトートバッグの中でスマホが振動する。

ロック画面に表示されたのは【赤葦京治】という名前と『今日帰るんだけど遅くなる。先に寝ててね』という文字。
その瞬間見えない何かが、天秤の片方に乗って、あまりの重さに片方の皿が飛んで行った。
タクシー乗ろう。決めた。ペペロンチーノだって1人分なら作らない。面倒臭い。せっかく買った乾麺の出番はまだ先になるようだった。
途端に軽くなった足で私はタクシーロータリーへと向かう。怒ってるわけでも悲しんでる訳でもない。ただ、何も感じない自分に、少しだけ自己嫌悪した。


「あ、ソーセージ、ないじゃん」

2人暮らしにしては大き目の4枚の扉の冷蔵庫。あると思っていたものはなかった。きっと京ちゃんが食べたんだろう。食べたなら言ってくれればいいのに。買って帰るのに。
別に大したことじゃないけど裏切られた気持ちになっていつもより扉を閉める音が大きくなってしまう。
作らない、なんて言っておきながらも作ろうとする自分がバカバカしくてそのままキッチンを漁った。
ずっと前に外国生まれの倉庫型のスーパーで買い込んだ私の上半身くらいある大きなポテトチップスの袋と、ミックスナッツを取り出してローテーブルに広げる。
ペペロンチーノ、いつ作ろう。今度スーパー行く時ソーセージ買わなきゃ。京ちゃんと最後に会ったのいつだっけ。時たま洗濯物を回してあったり、彼の箸や皿が食器乾燥機に入っているのを見るからに私のいない間に帰ってきたりもしてるんだろう。
あぁ、そうだ。2週間くらい前だ。

プルタブを引き上げて、コップを出すのも億劫だった私はそのまま缶の飲み口に口をつけた。
初めて本物のビールを飲んだ時は苦くて苦くて、ジュースを混ぜたビアカクテルを飲むのもやっとだったのに。今はこの苦さも喉を焼くようなきつい炭酸も癖になっているのだから不思議。
おじさん臭いため息が出て、慌てて飲み込むけど。別に聞いてる人なんていないんだった。
テレビの番組表をテレビで見る。なんだそりゃ、と最初は思ったけど今は当然で。子どもの頃一生懸命新聞を見た思い出が蘇る。時代ってどんどん変わるんだよね。だから、その時代を生きて、切り開いていく人が変わっていくのも、当然なんだよね。
そんなことを思いながらも自分の好みの番組を探すのはやめない。でも時間が時間でどれもこれも中途半端だ。聞いたこともないようなアイドルの番組、お笑い芸人がただ喋るだけのバラエティ。深夜の枠で放送されているのに子どもから大人まで夢中のアニメ。
ラインナップを見てから、私は録画していたドラマの消費をすることに思考を変えた。

「だいぶ貯まってるなー……」

同じ職場のまだまだ20代も前半の子達。そんなにいつ見る時間があるの?なんて聞きたくなるほど毎日話題にする連続ドラマ。加えて韓国のドラマ。YouTubeの動画。話だけでも面白そうで、京ちゃんに話をして、休みが一緒の日に見ようねなんて言って買った録画用HDD。ドラマや映画、アニメのサブスクリプション。
一緒に見る時間をわざわざ作っていたのなんて、最初の1年半くらいだけ。今はお互い好きな時間に好きなものを見ることに変わった。

京ちゃんと付き合ったのは高校の卒業後から。かれこれもう8年くらいになる。だから、慣れが出てくるのは当然で。
お互いもう好きとか嫌いとかそういう次元になない、なんてことも分かってる。一緒にいることが当然で、今更離れることなんてきっと出来ない。
京ちゃんは少し変わっているけれど(高校時代の先輩の試合を見に単身で大阪まで一日で行って帰ってきたり)すごく優しい。生活力もある。掃除も洗濯も料理だって、割と普通に出来るから、別に私がいないと生きていけないなんてことは無いんだと思う。
今は目に付く家事は全部私がやっているけれど、多分やらなくても何も言われない。そういうところが好ましい。

でも、新鮮さは多分もうない。
適当にまだ見ていなかったドラマを流して、ナッツを食べながら思った。そしてほぼ空になった缶のプルタブを弄りつつ、2週間くらい前の京ちゃんの姿を浮かべる。
隈が刻まれた顔は疲れてることを物語っていて、起こすことが忍ばれた。アラームもかけていない様子だけが気掛かりで、リビングのローテーブルに広げてあった手帳をそっと確認する。休みであることだけを見て、それはそっと隅の方に閉じて置いた。
きっと明け方に帰ってきたんだろう。珍しく乱雑に重ねられたまま放置されている彼の食器。
食べるか食べないか分からないから、私はご飯を作る時いつも3人前を作る。
1人分まず自分で食べて、おかずはタッパーに入れて冷蔵庫にしまう。朝起きてそれがまだあれば1人分をお昼のお弁当に詰め、恐らく日中に1回帰ってくる京ちゃんの分だけをまた冷蔵庫にしまうのだ。

家に帰ればそれはちゃんとなくなっていて。いつの間にかそれが当たり前に変わった。繰り返し言うけれど別に悲しくは無い。
久しぶりに洗った彼の食器。本当に少しだけ虚しくなった。

結局京ちゃんが起きてきたのは夕方頃。もうその頃にはなくなっていた日用品の買い出しも晩御飯の用意も全部終わらせてしまっていたから、寝癖だらけの京ちゃんにすごく謝られた。
気にすることないのに。でもそうやって謝られてしまうと、なんだかすごく泣けてきて、私はその場で泣いてしまった。
何か考えているような様子で京ちゃんは私を抱き締める。その温かい感触が久しぶりで、やっぱりもっと泣いてしまった。

恋愛は約3ヶ月周期らしい。恋をした時に多く分泌される脳内物質が、大体3ヶ月くらいで止まってしまうから、ということだと雑誌で見かけた。
じゃあ私たちなんてもうとっくのとうに分泌なんて終わっているじゃないか。笑ってしまう。
結局もう一本飲む気にはなれず、棚の奥の方にしまってあった焼酎と炭酸水を引っ張り出した。
賞味期限切れ。きっとそういう表現が合う。
食べれなくはないよ。美味しくないけどね。
自分で作ったお酒を飲む前に私は頭の中でそう思い浮かべて、噴き出して笑った。
その通りだ。きっと美味しくない。だって私たちこんなに擦れ違っているけど、それに見ないふりをして。私は京ちゃんが何を考えているのか、全く分からない。

ねえあんなに謝るんだったら、最初からちゃんとアラームかけてよ。自分で起きてよ。私と一緒にいる時間、もっと大事にしてよ。なんにも話さないから、言わないから、言い訳しないから。私全部分かんないよ。

ご飯を作る気にもならなかった私は、録画していたドラマを見る気にもなれず。お酒を飲んでお風呂も軽く済まして、彼が帰ってくる前にとそのまま早々と眠りについた。
別れた方がいいのか、このままでいていいのか。考えなくちゃいけないのに、彼と離れるなんて今更考えることも嫌で。ただただ眠った。


「おはよ」
「お、はよ」

起きると京ちゃんが座っていた。本当に座っていた。帰ってきたままなのか、この時期よく着ているジャケパンスタイルのままで体育座りをしてローテーブルの前に佇む姿は起き抜けには恐ろし過ぎる。
扉を開けた私に無表情で挨拶をしてくれる京ちゃんは目が死んでいた。怖い。なんだろう。なにか様子がおかしい。そう思って私はソファに腰掛けて声を掛けた。

「なにか、あったの?」
「……ご飯、なかった」
「あ、ごめんね。遅くなるって書いてあったから食べて帰ってくるかと思って」
「……本当に?」
「本当だけど、え?なに?」
「その、俺に……愛想が尽きたとか」

そう言ってさらに俯く京ちゃん。どうしてそうなるんだろう。私の脳内はもうパニックだ。逆にそっちの方が尽きているんじゃないのか。だから帰ってこないし、何もしないんじゃないの。そんなことも浮かんで少しイライラもする。
何か言い返そうと、口を開いて、それから止めた。
気付かなかったけど京ちゃんの前に多分、リングケースが置いてあって、その特徴的な色はブランドカラーとしてとてつもなく知れ渡っている柔らかいミントブルー。もしかして、多分、そうだ。
心臓が大きな音を立てて、息が止まる。

「あの、京ちゃん」
「分かるよ。俺仕事忙しい時とそうじゃない時すごく差があるし、家事だって任せっきりで全然やれない。泊まりがけの仕事が多いし。その割に自分が好きなバレーには時間を割くって思ってるって分かってる。でも俺、ちゃんと好きなんだよ。もっと一緒にいたいって思ってる。ご飯も毎日ありがたいって思ってる。食べに帰ってくるのが1番の楽しみで癒しだったのに、何も言わなくて、ほんとにごめん」
「え、あ、うん」
「だから別れたくない。もう他の人となんて考えられないんだ。だから」
「ちょ、ちょっと落ち着いてよ。私別れるなんて言ってない。ご飯のことはごめんね。聞けばよかった」
「そ、そっか」

何かに取り憑かれたみたいに話し続ける彼の手を握って止めると、やっとこっちを見た京ちゃん。どれだけこの体制でいたのか分からないけれど、彼の手はとても冷たかった。その手を温めるように両手で握ると、やっと彼は安心したように肩の力を抜く。
その様子に、私は少し何かを勘違いしていたことがわかった。
私、何も感じないわけじゃない。ただ寂しくて、そう感じることがあまりに多くて鈍くなっていた。
私だけかと思っていたから。寂しいのも会いたいのも、一緒に時間を過ごしたいのも、全て私だけだと思っていたから、何も思わないようにそう言い聞かせるしか無かった。
眼鏡越しにこちらを見上げる京ちゃんの目がぎょっと見開く。

「な、泣いてる……?どうしたの?ごめん。俺何か嫌なこと言った?」
「ちが、その、わたし……私だけだと思ってたから」
「……なにが?」
「一緒にいたいのも、ご飯ちゃんと食べて欲しいって思ってたのも……全部」
「ごめん。俺が、何も言わなかったから」
「そうだよ、全部京ちゃんのせいだよ。だから、寂しくさせないでよ……もっと一緒にいてよ、ご飯だって、ちゃんと一緒に食べたい……」
「ごめん、ごめん」

ごめんね。と言いながら、私の横に座り直して抱き締めてくる京ちゃん。仕事終わりの大人の男性の匂い。京ちゃんの匂い。久しぶりの感触にもっと涙が出て、少し腹が立つ。だから京ちゃんのジャケットに涙を擦り付けてやった。
こんなことで仕事に行けなくなる、なんてことはない。そんなことは分かってるけど、それでも彼の仕事が恨めしい。
この涙の跡を見て、申し訳ない気持ちになればいい。

「結婚する?」
「……しない」
「しないか」
「うそ、する」
「うん。分かってるよ」

上手くいくかなんて分からないけど。同棲の賞味期限が切れてしまったんだから、なら新しくすればいい。
テーブルに未だ放置されている箱を見ながら思った。結婚したから、何か変わるわけでは決してないけれど。
私はそれでも彼と一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。そう思いながら彼とジャケットの背中を握り締めた。


「その代わりに、ソーセージ、買ってきて」
「ソーセージ?」
「ソーセージが無いからペペロンチーノ作れなかったの。食べたらちゃんと言ってよ……」
「……ごめん。買ってくる」
「あと録画のドラマ溜まってる。早く見ないといけないんだからね」
「うん」
「あと休みの日、ちゃんと自分で起きてきてよ。一緒に買い物したい」
「分かった」
「無理はしないで」
「うん」

あと、ずっと一緒にいて。
そう言ったら、分かった、と同じように答える京ちゃんの声は私なんかよりよっぽど震えていて情けないなあと思った。
情けなくって、ボロボロで、笑えてくる。
起きたばっかりで寝癖もついてるパジャマの私と私の涙でベトベトのジャケットにヨレヨレのシャツの京ちゃん。
綺麗なプロポーズじゃないから、またやり直してもらわないと。
でも、私はきっと今日この日のことをずっと忘れない。こんな情けないプロポーズを、情けなく受けたこと。

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