君は僕の世界を変える唯一の人/佐久早
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「ストロベリーアンドベルベットブラウニーフラペチーノが飲みたい」
「は?」
「だから、ストロベリーアンドベルベットブラウニーフラペチーノだってば。期間限定なの先週からスタートしてるの」
魔法の呪文なのかそれは。帰宅して早々そんな早口言葉より覚えることが難しい単語を言われて俺は肯定するより早く否定するような言葉を口に出してしまった。
俺を出迎えた彼女はふわふわした髪の毛を揺らしながら俺へ除菌スプレーのノズルを向けてくる。
「なにそれ」
「フラペチーノって聞いてわからないの?」
「分かんない」
「スタバだよーコーヒーね」
「そのストロー何とかもコーヒーなの?」
違うよ、と笑う彼女。俺は手に出されたノンアルコールの除菌液を手に馴染ませた。それからシューズボックスの上に置かれている除菌シートでバッグを拭いた。まあ、明日は休みだし別にやることもない。
「明日?」
「明日……」
彼女は俺の言葉をもう一度繰り返した。多分この反応は嫌なやつだ。多分今日、今飲みたいんだろう。
俺はバッグを拭いた手を止めて彼女を見つめる。頬が少し膨らんでいて、ほんの少しだけ眉間にシワがよっている。可愛い。リスみたいだな。
その可愛い顔に手を伸ばしそうになったが、除菌だけしかしてないということを思い出して踏みとどまった。
今は丁度19時。多分これから着替えをして出かけても多分普通のコーヒーショップなら営業時間ギリギリには間に合うだろう。
正直面倒だ。別に俺はコーヒーを好んで飲むような人間じゃないし、なにより練習も終わってそこそこ腹も減っている。せっかくの休日前だしゆっくり風呂に入って、普段中々彼女との時間が取れないから2人きりでゆっくりしたい。
「……準備出来てんの?」
「いいの?」
俺の言葉に途端に明るくなった彼女の顔。キラキラと光る瞳が愛らしい。「終わってる!あと着替える!」と俺の腕に絡みついた彼女は、本当に甘え上手だと思う。
よく見ればふわふわの髪の毛はしっかりとセットされて綺麗だし、仄かに化粧品の匂いもするから多分メイクも済んでいるんだろう。違いは俺には分からないが。
ルームウェアとして着ているストンと落ちるようなラインのワンピースを外に出かけるための服に変えるだけ。なんとも用意周到だな、と笑いがこぼれた。
「晩御飯の用意終わってるの。完璧だよ!」
「……そ。じゃあ俺シャワー浴びて着替えるからその間に着替えといて」
「さすが臣くんだあーありがとう大好きー」
「もっと言え」
「大好き大好きー」
腕に絡み付いて離れない彼女をそのままにしてバスルームへと向かった。大好きだと言ってくる彼女、俺はその可憐な口から紡がれるその言葉が好きだ。ずっと聞いていたくなる。
そんな俺を知ってか知らずか最後にもう一度俺を背中から抱きしめた彼女はふらりと離れてクローゼットのある寝室へと向かっていった。
それを横目で見ながらまず手洗いうがいを済ませて、シャワーを浴びるべくジャージを脱ぐ。
洗濯物もあらかた纏めてあるらしく、次回すのはどうやら俺のバレー関係のものらしい。
そこに今日使ったものや今着ていたジャージも入れて蓋を閉めた。
「ねぇねぇ臣くん、これ可愛い?」
「可愛い」
俺がインナーとスウェットパンツで寝室のウォークインクローゼットのドアを開けると、随分襟ぐりの広い柔らかそうなニットに足のラインが強調されているスカートを履いた彼女がいた。
彼女は俺にその格好を披露するように一回転する。可愛いよ決まってんだろ。分かりきったこと聞くんじゃねぇ。そう思いながら答えると不機嫌そうな様子で俺の背後に立つ彼女。
「臣くん他にはなんかないの?」
「何感想が欲しいわけ?」
「うん欲しい」
俺は適当に彼女のニットと同じような色合いの目の細かいニットを頭から被って着た。それから改めて上から下まで彼女を見つめると、期待したいような瞳で彼女が俺を見上げた。
その目から逃れるように俺はブラックのデニムパンツを探すべくクローゼットを漁る。
褒め言葉が来ると思ってんだろうが、多分期待に沿うのは難しい。俺は彼女に感想を告げるべく息を吸った。
「まず胸元開きすぎ。別に俺がいるから構わないけど、俺以外に見せるとか訳わかんない。俺といる時以外それ着ないで。あとスカート。可愛いし似合ってるけど足のライン出過ぎ。言っとくけどエロいよ。多分他の男すげぇ見ると思う。俺に嫉妬させたいわけ?もしそうならまじ既に大正解だし成功してるからスカート違うのにした方がいいよ」
「今息継ぎした?」
「してない」
着目点そこかよ。
佐久早の彼女ってズレてるよな、と古森に昔言われたことを思い出した。
俺は、多分結構嫉妬深い。彼女が初めて付き合った相手が俺じゃないことも多分墓まで根に持つと思うし、割と結構気にしてる。
結婚してからも他人の目に触れさせるのが嫌で買い物にはほとんど宅配を使わせているし、外に出かけるときには必ず俺から返事がなくても1時間に1回は連絡を入れろと言った。
宮にはうわぁとうんざりされたが、お前には絶対にそんなことしないから安心しろ。
「そっかあ細かくありがとうね。嫉妬させたいわけじゃないからスカートこれで行くね」
「全然聞いてないじゃん。まあいいけど」
でも多分彼女じゃなければ、俺はこんな風に本音を零すことも無理だったはずだ。受け入れることは受け入れてくれるし、嫌なことは嫌だとはっきりしてくれる彼女の対応に、少なからず救われている。
去年のクリスマスに贈ったバッグに同じデザインの長財布を入れる彼女は、もう用意が終わったらしい。「スマホどこだっけ」なんて言いながら寝室を後にした。
俺もスウェットからデニムに履き替えてベルトを締めるとその背中を追いかけるようにリビングへと向かった。
「アプリで頼んでおくね、臣くん何飲む?」
「普通のやつ」
「温かいのと冷たいのどっち?」
「……そのストローなんとかは冷たいの?」
「ストロベリーアンドベルベットブラウニーフラペチーノね。冷たいよ」
「じゃあ温かいのにする」
駅前にあるそのコーヒーショップへと向かう道すがら彼女はスマホを弄る。
家を出る際、車でドライブスルーにするか、と聞けば「新しく買った靴を履きたいから駅前がいい」と言われた。その言葉に手に持っていた車のスマートキーを置いて、新しいマスクを手に取る。
彼女は最近気に入ってるらしいメーカーのベージュのマスクを左手、新しく先日アウトレットで購入していた贔屓にしているブランドの靴を持っていた。可愛いな。
それに足を通して俺の腕を引っ張る彼女は楽しそうだった。
「ホットコーヒーにしたよ」
「うん」
「デカフェにしたからね。いつも通り」
「よくやった」
「上司かな?」
コツコツと彼女のヒールが地面を叩く軽やかな音が響く。俺達が住むマンションは駅から徒歩10分程度で、夜でもちゃんと街灯が光っていて明るい。
彼女の新しい靴も、よく見えた。
彼女が、新しい靴を中々履けないのは俺のせいだ。外に出させないから。出掛けさせないから。東京ではなく、大阪に彼女を住まわせたから。大学卒業後すぐに、結婚という甘い言葉で彼女の自由を奪ったから。
拳一個分、離れた距離を歩く彼女。左手の薬指には俺と同じデザインの緩くウェーブがかったラインの指輪が光っている。
「臣くん?話聞いてる?」
「……聞いてない」
「あ、そうなの。何?考え事?」
「……あのさ、今ちゃんと」
幸せ?と聞こうとして唾を飲み込んだ。聞いてどうするんだ。言葉ではいくらでも言える。彼女は、優しいんだから。
俺がしてやれることは、叶えるつもりだ。だってそうでなければ割に合わないだろう。どう考えたって彼女の負担の方が多いこの結婚。
俺は自分から見ても傍から見ても自由に自分のやりたいことをやりたいだけやっている。
彼女はどうだ。やりたいことをやれているのか。本当は、もっと、他にやりたいことがあったんじゃないか。
「臣くん?」
「いや、なんでもない」
考えてもしょうがない。分かっている。最後俺を選んだのは彼女だ。それが答えで、それが現実なのだから。
途端に口数が減った俺を下から訝しげな顔で見上げる彼女は、家でのように俺の左腕に絡みついてくる。
外では他の人の目があるから、とプロになってからは拳一個分の距離を外で保ち続けていたのに。どういう風の吹き回しなのか。可愛いからいいけど。
そう思って俺の腕に抱き着いている彼女を見ると、半分以上がマスクに覆われてよく分からなかったが目元はニッコリと笑みを描いていた。
「私ね、こうやって臣くんと外歩けるの幸せだよ。夢だったんだぁ、こうやって旦那さんとのんびり散歩するの」
「……ふーん」
「子どもが出来ればこんなふうに思い付いてコーヒー飲みに散歩行くなんて出来ないから、今だけだけど。あと、旦那さんの帰りを待ってご飯作ったり、日中のんびり掃除したり」
「それ、幸せなの?」
駅独特の喧騒が聞こえる。時折車道を走るタクシーのライトが目を焼いた。彼女も眩しそうにするので、庇うように前に出る。
そんな俺をクスクス笑いながら、彼女は話を続けた。
「幸せだよ」
「ならいいけど。ほら、着いたよ。飲んでくんでしょ?他になんかいらないの?ケーキとか」
「晩御飯前だけどいいの?」
「知らないけど食べたいなら食べれば」
「じゃあ買って!これ!」
ドアを開けてレジに向かう彼女に、ニコニコと営業スマイルを浮かべた店員。女か、ならいい。俺はこの手のチェーン店の接客が苦手だ。親身な接客、フレンドリーな対応。それらは万人にウケがいいが俺の好みじゃない。俺は必要以上に話しかけられるのも、いつも以外のものを勧められるのも嫌いだ。
彼女が指さしたケーキの会計を済ます。その間に彼女はドリンクを受け取りに奥のカウンターへと向かった。
「あの、佐久早選手ですか?」
「……はい」
「わー、私大ファンです!てことはあちらが噂の奥さんですね!お似合いだー!すごい!可愛い!」
「はぁ、どうも」
「やっぱり奥さんといるといつもとは雰囲気違いますね。おふたりとも素敵です。これからも応援してます」
これサービスです、と小さなケーキの切れっ端が付いてきた。雰囲気が違う、か。彼女と行動をすると特に言われる言葉がそれだ。柔らかいらしいが、よく分からない。首を傾げながらトレーを持ってソファ席へ進むと同じタイミングでカップをふたつ持った彼女も来た。
「わ、おまけ付いてる!さすがプロ」
「俺はいらない」
「でしょうね。私が食べるよー」
嬉しそうに笑った彼女は、ストローでそのストロベリー何とかを口に含む。チョコなんだろうか、赤なんだか茶色なんだかわからない液体だ。俺はぼんやりとその様を見つめる。
目を光らせて俺を見つめる彼女。多分美味しいんだろう。俺も喉が乾いた。彼女のカバンから除菌シートと持ち運びの消毒液を勝手に取りだしてテーブルに広げてからカップの蓋を外す。
真っ白な湯気が飛び出した。
「さっきの続きなんだけどね」
「さっき?」
「今の生活が幸せって話」
俺は彼女が持ってきてくれていたマドラーで真っ黒なコーヒーをかき混ぜる。
別にいいのに。俺は、お前が幸せならそれでいいんだ。そう思った。
「臣くん、ありがとう」
「は?急に何」
「言ってなかったなと思って。私すごくすごく幸せだよ。こうやって臣くんが苦手そうなお店に一緒に来てくれて、こんな話に付き合ってくれて。臣くんが私の生活をどう思ってるのかどう感じてるのかわからないけど、私はすごく幸せ。だから、私の世界をこんな幸せなものに変えてくれてありがとう」
マドラーをかき混ぜる手が勝手に止まる。ああ、クソ。昔よりもずっと、涙腺が緩い。ぼやける視界を隠すように俺は額に手を当てながら目元を隠す。
こいつ馬鹿なの?そんな話いまする必要あった?ていうか馬鹿なくせにどうしてこう鋭いんだよ。
あぁ、だから俺はお前が好きなんだ。手放してやれないんだ。自由にしてやれないんだよ。
ズコズコと間抜けな音を立てて楽しそうにストローで飲み物を飲む彼女は俺の様子なんて無視だ。
「早く帰ろ」
「え、何?急に。え?待って、なんか声震えてない?泣いてる?笑ってんの?」
「笑ってんだよ、だから早く飲んで。飲み終わったらケーキは箱貰ってテイクアウトにして。早くしろ」
「ええええ」
俺ばっかり好きみたいでアホみたいだ。なんてこと、俺は思わない。俺だって感謝しているんだ。
こんなにも幸せで、色に溢れた世界があるなんて知らなかった。
彼女じゃなければ、俺は結婚はおろか男女交際さえ出来たのか疑問だし、多分無理。
こうやってコーヒーショップで飲むコーヒーが美味いことも、女物の靴にキラキラしたものが付いているのが可愛いということも、全部知らなかった。
不思議そうな顔で飲み物を飲む彼女。
その緩やかなウェーブのかかった髪をゆっくりと撫でた。
彼女はすごい。俺の狭すぎた世界をこんなにも広くしたのだから。
「俺だっていつも感謝してる」
「あはは、知ってるよ」
「知ってんのかよ」
次の日、ネットニュースに【プロバレーボーラー佐久早聖臣 コーヒーショップで涙】という記事が出てあのコーヒーショップは二度と使わないと心に決めたのはまだ彼女には言っていない。
【君は僕の住む世界を変えることの出来る唯一の存在だ】
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