泣き言ばかりのブリキのおもちゃ/佐久早


※ こどもがいます(捏造)




家に帰ると最愛の妻が疲れきった顔で眠っていた。


最近掴まり立ちをしたがるようになった俺そっくりの息子は産まれたばかりの頃とは違って日中起きてることの方が長くなったらしい。
俺がいない間、俺が育児に追いつけないことがないようにとノートではなくアプリでつけてくれている育児日記を見るとそう書いてある。



隈あるな、寝れていないのか。


東京への遠征から約2週間ぶりに自宅の扉を開けた。東京に向かう前まではなかったベビーサークル、ちゃんと開くようになっているみたいだが開け方が分からないので跨ぐ。ずり這いをするようになった頃、何も無いというのに玄関に行きたがる息子に頭を抱えていた結果がこれに落ち着いたんだろう。

物音ひとつ聞こえないリビング。大阪駅についた時連絡をしたが返信はなかった。時刻はまだ16時半。リビングの扉を開ける前にアプリを確認すると、ここ最近はこの時間に一度寝るらしい。自分用のスーツケースを物置として使っている部屋に一旦入れて、やっと扉をそっと開けた。

「寝てる、のか」

もはや物置と化しているベビーベッドには触れてほしくない紙おむつとおしりふきで溢れていた。「せっかく可愛いの臣くんのお義父さんに頂いたのに、もう寝ないの。添い寝が好きみたい」と洩らしていたのはいつだったか。妻の上半身くらいの大きさしかない身体が、妻の胸元にしがみつくようにして眠っている。
小さく上下する背中を見つめて扉は閉めた。

『育児で大変なことはなんですか』

最近テレビ出演や雑誌の取材でよく聞かれるようになった質問だ。俺は、その質問に澱みなく答えられたことが一度もない。
スーツケースから荷物を取りだして整理をしながら考える。
大変だと思うほど、俺はきっと育児という行為そのものが出来ていない。
通常でも帰宅するのは20時を回ってからで、その頃には大半のことが終わってしまっている。もう寝るスタイルで目を擦りながら俺の足にしがみつく息子を1度抱き上げるだけ。
眠たそうにする割に俺の腕の中で眠ることは滅多にない。

「なんで俺じゃ寝ないの」
「んーそういうものみたいだよ。やっぱりママが安心するんじゃないのかな」
「……ふーん」
「大丈夫。こんなにかっこいいパパなんだもん。もう少ししたらママよりパパってなるよ」

疲れきった顔で笑う俺の奥さんは、知らないうちにママになっていた。

ごく稀に限りなくどうしようもない孤独感に襲われることがある。俺は、父親になれるんだろうかと。厳密に言えば戸籍上俺は父親に変わりはないけど、メンタルとしての話だ。
幼い頃から親と遊んだ覚えは無い。年の離れた姉と兄が学校から帰ってくると飯の面倒を見てくれて、風呂の用意をしてくれた。それに何かを思ったことは特別ないけど、俺は薄ぼんやりとした印象で両親のことを見ていたと思う。

なんとなく、シャワーだけ浴びようと思って熱いお湯を頭から浴びた。たぶん浴槽は洗えていないはずだ。久しぶりに握った風呂用のスポンジと洗剤を手にシャワーを浴びるついでに洗い上げ、スイッチを入れる。

やっと準備を整え終わった頃リビングから寝惚けたような声の泣き声が聞こえて、恐る恐る覗き込むと寝ぼけ眼で起き上がった息子だけが見えた。妻はまだ眠っていた。

「どうしたの」

いつも妻がしているように声をかけて背中を摩ってみる。息子はまだふにゃふにゃと泣いている。俺と同じような癖毛の黒髪はまだ柔らかい、その頭を撫でてみると何かを探すように腕を広げた。
それが何を求めているかは、わからない。こういう時はどうするべきなんだ。助けを求めて妻を見つめるが、余程疲れているんだろう。くっきりと出来た隈のある顔はピクリとも動かない。

「だ、抱っこしていいの?するよ……」
「ふ、ふぇっ……ふぇえええん」
「うわ、重くなってる」

久しぶりに抱き上げた息子はがっしりとしていた。たしか以前抱っこした時はまだ少し腰がふにゃふにゃだったのに、もう今はしっかりと俺の腕の上に座れている。戸惑うが、ビデオ通話越しに見ていた妻の抱っこを真似しながら揺れてみると俺の胸元にピッタリと寄り添い、俺のシャツの襟ぐりをぎゅっと握る小さな手。
心臓の辺りがきゅっとなって、それから温かいもので満ちた。あ、懐かしい。そうだ。コイツを抱っこすると、妻を抱きしめるのとはまた違う幸福感があったんだ。

ふにゃふにゃ言いながらまた眠った息子を下ろしていいのか分からなくてとりあえず抱いたまま部屋に落ちているおもちゃを拾い集める。
俺に合わせて余計なものなんて置かなかったリビングには今カラフルで何が楽しいのかも分からないような玩具で溢れていた。
なるべく妻と息子を起こさないようにゆっくりと拾い集めて、一箇所にまとめる。
洗濯もの干しっぱなしだ。夕陽の差し込むベランダには大量の洗濯物。息子が動き回るようになってさらに増えたと笑っていた。

「ん……あれ?臣くん?おかえり……ってえ?今何時?やだ、ごめん!」
「いい。謝ることじゃない。ゆっくりしてて」
「いやでも遠征疲れたでしょ。ごめん抱っこ変わる……前に洗濯入れるのとお風呂洗うのとご飯の用意するから」
「風呂は掃除したしお湯張った。ご飯は俺たちの分はもうなにか頼めばいいし、コイツ何食うの?俺やってみたいんだけど」

寝惚けた顔で起き上がった妻は俺を見ると慌てて体を起こす。俺の腕の中で眠る息子を見て、ベランダ、それから浴室へと続く廊下、キッチン全てを見渡して大きなため息をつくので、俺は不思議だった。なんで、苦労を選ぶのか、俺にさせればいいのに。彼女の気持ちを汲むのは難しい。
今回の東京遠征では久々に自分の家族と妻の両親に会った。東京と大阪では中々会うことさえ難しい。「娘は甘えただから大丈夫かしら?」と聞く義母に首を傾げてしまった。口に出さないように努め、大丈夫です、とだけ言ったが果たしてそれが正解だったのかは分からない。

「聖臣、ちゃんと手伝うのよ」と言う俺の母親にも首を傾げた。さすがに両親は俺が何かを思っていることを察したらしく、なんだ?と聞いてくる。「手伝うってなに?俺は親なんだよね?じゃあやらなきゃいけないコトは多くても手伝うことはひとつもないよな?」と聞くと、2人とも面食らったような顔をしたから俺は時が止まった。

すると俺の姉が「よく言った。それでいいのよ、間違ってない。子育てって家族でやるものだから、聖臣はそれでいいんだよ」と笑う。お母さんもお父さんも古いよ、と手を振る姉は確かもう2人の子どもが小学生だったような気がする。

話は戻るが、俺のそのご飯発言に大きな目をさらに見開いた妻はそのまま何故か涙を零した。

「えっ、なに、ごめん。俺変なこと言った?」
「ち、ちがう……ごめ、臣くんがそんなこと言うって思ってなくて」
「……ごめん。俺、いつもいないから何したらいいか分からなくて、アプリは毎日見るんだけど」
「み、見てるの?」

うん、見てるけど。頷くと妻はまた泣いた。妊娠中も産後もメンタルはボロボロになるらしい。姉が言っていた。ただでさえ親戚もゼロの完全アウェイな環境、さらに俺という存在のせいでただ外に出ることさえ気楽では無いこの生活。ストレスフルに違いない。
きっと、俺の家族は、大変だ。俺はそう思っている。
涙を零してひくひくと泣く妻をもう片方の腕で抱き寄せて頭に唇を落とした。温かくて鼻をくすぐるいい匂いがする。

「俺は基本的に無力だから、なんでも言って。なんでもやる。指示がないと動けないのは悪いけど」
「うん、うん」
「そんな疲れた顔してるのに無理しなくていい。とにかく食べたいもの食べな。んで洗濯も俺が入れるし、コイツ軽いからいくらでも抱っこできるし、眠いなら寝ていいよ」
「うん」

真っ白な肌にポロポロとした涙が伝う様はまるで真珠のようだった。大丈夫、大丈夫と言い聞かせるように髪を撫でる。肩も張っていた。きっとこの甘えん坊を日中抱っこし続けているんだろう。
妻は途切れ途切れに離乳食の説明をしてくれた。妊娠中せっかくふっくらとした体はもはや見る影もなく痩せ細っていて心配になる。

「俺は明日と明後日休みだから、ゆっくり休んで」
「ごめんね、臣くん」

ごめんね、と繰り返す。なんだか小さい女の子のようで俺はこれまでの生活に対して申し訳なくなった。あぁ、これほどまでに、バレーを続けることがしんどいと思う時はないと思う。
謝ることじゃない。むしろ俺が謝るべきなのに、妻は寝ることさえ謝ることと思ってしまっている。

「大丈夫、大丈夫だよ。ゆっくり寝な」

そのまま今度はソファで眠りについた妻にそっとブランケットを掛けて俺は起きた息子をあやしながら電子レンジと向き直った。明日と明後日で過ぎてきた時間を取り戻す気なんて毛頭ない。せめて働きすぎている最愛の妻の心が整えばいい。明日は彼女の気持ちと体調を聞いて久しぶりに外へ連れ出してあげたらいいなと思った。

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