針が喉に突き刺さる/竜胆
▼▲▼
「ごめんね。灰谷くんの気持ちはすごく嬉しいんだけど……今は、誰とも付き合う気なくて」
珍しく学校に来たかと思えば昼休み以外はどこにいるのやら、その姿を見せなかった多分学校には知らない人は存在しない六本木のカリスマ灰谷兄弟の弟、灰谷竜胆くんは私の言葉にバツが悪そうにするとそっか、と俯いた。
彼と私は別にすごく仲がいいとか、そういう訳ではなく。たまたま席が隣だった期間にたまたまふらりと現れた彼に勉強を教えたことがきっかけで本当にたまに挨拶を交わしたりするような関係になったのだ。
それからというもの先生たちは都合がいいと、灰谷くん(弟)への連絡事項は主に私を通して行うようになった。正直面倒であったし、いつ来るか分からない彼宛のプリントや言付けの付箋は大量に溜まって置き場所に困る。それでも私がなんだかんだと言いつつも断らなかったのは、彼が噂に聞くような手の付けられない不良とは程遠く、むしろ他の男の子よりもずっと優しいと思ったからだ。ぶっきらぼうな物言いや派手な見た目で近寄る人こそ少ないけれど、私のようなただのクラスメイトにもプリント悪い、とか助かるわ、等と言葉を添えてぎこちなく笑ってくれる。噂は噂でしかなく、彼は本当は普通の人なのではないか。そう思うくらいには、私の中の彼への印象は改められた。
そんな彼が、今日珍しく姿を現したので私は例に漏れず溜まりに溜まっていたプリントの束を渡し、言付けを書いた付箋を1つずつこれは現文の先生からとかと付け足しながら彼の机に貼り付けていく。すると、今日時間ある?と今までの話をちゃんと聞いていたのかすら危うい様子で灰谷くんが椅子に座った体勢で私を見上げた。
「え?」
「だから、今日、放課後、時間あるかって」
「あ、ごめん」
「……ムリ?」
「えっと、放課後だよね?大丈夫だよ」
じゃあ放課後、と灰谷くんは私から受け取ったプリントを乱雑に机の中へと押し込むとガタガタと音を立てて立ち上がる。そのまま扉の方へと歩いて行くのでその背中に、まだあるよ、と慌てて声を掛けた。彼は私の声にピタリ、と動きを止め、顔だけ軽く振り返る。私の手にまだまだ貼り付けられている付箋を見つめてニッコリと笑うと、残りも貼っといていーよ、と言った。
そしてそのまま歩き出してしまうので、私は手にビッシリと貼り付けた付箋と、もう3分の1は埋まってしまっている灰谷くんの机を見比べて息を吐く。灰谷くん、読んで処分してくれないと貼り切れないよ。そう思ったけれど当の本人はもう影すらも見えないので、私の口からはまた大きな溜息が漏れ出た。
そして放課後、ふらりと現れた灰谷くんはビッシリと机に貼り付けられた私の文字ばかり並ぶ付箋を眺めて声を出して笑う。スゲーこんなに溜まるモンなんだな、とすっかり他人事なので私は少し呆れた。もっと、学校に来てくれたら減るんだよ。そう言うと彼はいつも通り、ありがとな、と笑う。いつもなら、それに私がどういたしましてと返して終わりだけれど今日はなんだか違っていた。
灰谷くんは笑いながら、私の文字が書かれた付箋を指で撫でる。オレ、オマエの文字好きなんだよね。その言葉にドキリとしてしまったけれど、彼にそんなつもりは無いだろうと乾いた笑い声を出して、ありがとう、と返した。
すると、ゴメン、と灰谷くんが何故か謝る。謝られることだろうか、少なくとも文字が好きだと言われて怒る人なんてあまりいないんじゃないか、そう考えて首を傾げると灰谷くんは付箋を撫でていた指で私の肩に触れた。
「文字だけじゃなくて、ていうか、オマエが好きなんだけど」
「えっ」
「オレと付き合ってくんない?」
そして話は冒頭に戻る。そっか、とやっとのことで吐き出したという様子の灰谷くんに申し訳なくなって、私も俯くと灰谷くんは、なんでオマエがそんな顔すんだよ、と態とらしく笑った。その表情がいつもよりもずっと痛々しい。灰谷くんは優しいし、嫌いじゃない。付き合ったらきっと今よりももっと色んな表情を見せてくれるだろうし、楽しませてくれるに決まっている。けれども、私はそんな存在として彼を見た事がない。これからそういう存在として見られるのか、そう聞かれて首を縦に振ることも難しい。
私は当たり障りのない言葉だけを選んだ。我が身可愛さに、灰谷くんから嫌われることすら選べなかったからだった。そんな私を分かったのか、灰谷くんは苦笑しながらも優しくその大きな手のひらで私の肩を叩く。
これからも、宜しくな。その言葉に、私は曖昧に頷くことしか出来なくて、狡い自分が少し、イヤになった。
それから1年が経って、私は灰谷くんとクラスが離れ言葉を交わすことは疎か廊下ですれ違うことすらなく、今の彼への伝達係が誰なのかも知らない。誰かしら、彼へのプリントや言伝を頼まれているのだろうか。時々そんなことが頭を過ぎる。
そんなことを考えながら、ぼんやりと昼休みに自動販売機で買ったカフェオレをストローで飲んでいると前の席にガタリと大きな音を立てて最近仲のいい佐藤くんが座った。佐藤くんは私の手の中にある紙パックを見ると、またかよ、と呆れつつも楽しそうに笑う。短い黒髪が爽やかだなぁ、と頭の中にいる学校というコミュニティの中で個性を放つ灰谷くんの髪型を比べて思った。
また、またかあ。そんなつもりはなかったなぁ。まだまだ頭の中に居座る灰谷くんを隅に追いやって、私は濃いブラウンとホワイトの如何にもなデザインをした紙パックを見つめ、そんな風に答える。きっといつもよりも惚けている私に佐藤くんは優しく笑いながら、少なくともオレが見るときはソレばっかり、と私の手の中にある紙パックを軽く小突いた。コツン、という軽い衝撃の後握っていた私の手に触れた佐藤くんの指先があまりにも熱くて目を開いた。
きっと手に触れたことは佐藤くんにとっても予想外だったのだろう。佐藤くんは、ゴメン、と慌てて立ち上がってじゃあ、と忙しなく少し離れた自席へと戻って行った。何がしたくて来たのだろう。漠然と生まれた疑問に首を傾げた。ああ、なんかこんなの前もあったような、そう思い返していると一連の流れを見ていたのであろう友人がニヤリと笑って今まで佐藤くんが腰掛けていた座席へ座る。
「佐藤ってアンタのこと好きだよね」
「えっ、そう?」
「そうでしょ。じゃなきゃアンタが最近ハマってるものなんか気付くわけないじゃん。いつも見てるよってことでしょ。鈍感」
「……そっか、全然気付かなかった」
そっか。思い返せば確かに最近は好んでカフェオレを飲んでいた。自分でも気付かないようなソレに気付くということは、友人である彼女の言う通り私は佐藤くんから好かれているのかも知れない。そんなことを考えていると、どうするのか、と興味津々といった様子で聞かれる。何が、と聞けば、佐藤くんと付き合うのかと言う話で私は言葉に詰まった。
別に嫌いじゃない。佐藤くんは私と同じような感じですごく地味というわけでもなければ特別目立つようなタイプでもない。多分普通の人なのだろう。そしていい人だ。でも好きなのかと聞かれるとそうではない。
彼女は断る理由ばかりを考える私に気付いたのか、付き合ってみたらいいとなんの気もなしに呟く。付き合ってからわかることもある、折角の学生生活に彼氏がいないなんて勿体ない、告白されたら断るんじゃなくて考えてみるべきだと当事者の私よりも真剣に話すので私は圧に負けて頷いた。頭の中からは1年前のことなんかすっかりと抜け落ちてしまっていたのだ。
数日もしないうちに佐藤くんは私にやはりとも言うべきなのか、好きだと言ってくれた。目の前で顔を赤くして俯く佐藤くん。友人の言った言葉が蘇る。付き合ってから、わかることもある、勿体ない、考えてみるべき。妙に緊張感を孕んだ沈黙と、嫌に耳につく時計の秒針の音が私になにか話せと急かしてきて、焦りに手に汗を握ってしまった。急だよな、と苦笑いを浮かべる佐藤くんに思わず首を横に振って、私は返事をするべく息を大きく吸う。佐藤くんの肩が強ばった。
考えさせてください、という私の言葉にほ、と肩を撫で下ろした佐藤くんは、いくらでも、と笑う。良い人だと素直に思った。これは、きちんと考えなくては相手に失礼だと、私はやっと人として大きく成長出来たのかもしれない。私は一人自分の成長を感じながら満足感に満ちていた。
部活だと言う佐藤くんとは教室で別れ、私は荷物をまとめて帰ろうとピタリと閉まっていたドアに手をかける。するとドアは勝手に開いた。勢いよく開くそれに驚いて引っ込めた手をもう片方の手で守るように包み込むと自分よりも少し高い位置から聞いたことのある声が、悪い、と謝る。
「あ、灰谷くん……?」
「……誰も、いないかと思って。悪い、ケガしてねぇ?」
「あ、大丈夫。すぐ引っ込めたから。どうしたの?誰かに用事?」
「……イヤ、オマエの声が、聞こえたから」
先程の会話を聞かれていたのだろうか。自分の脳内で断片的に繰り返される佐藤くんからの告白に顔が熱くなるのを感じて、私は俯いて、そっか、と小さな声で呟く。灰谷くんは何も答えない。どんな顔をしているのか少し気になったけれど、赤い顔を見られるわけにはいかなくて、出来るだけ早く落ち着くようにもっと別のことを考えるよう脳に指示を出した。すると、告白、というキーワードで検索でもかけたのか1年前同じように灰谷くんに告白されたことを思いだして背筋がヒヤリとする。
灰谷くんは、やっと声を出して何かを呟いたけれどあまりにも小さい声で言うので、外の陸上部の笛の音に掻き消されて聞こえない。なあに、と聞くと、なんでもねえ、と返された。
「今から帰り?」
「うん、そうなの。灰谷くんも、だよね?」
「ん。送る」
「えっ!大丈夫だよ!全然、まだ明るいし」
さっさと歩き出してしまう灰谷くんを追いかけながら断れば、いーよいーよと軽く流されてしまう。どうしよう、と断る理由を探していると灰谷くんは前を見つめたまま話を続けた。
「ここら辺最近物騒なんだよ。オマエになんかあったら仕切ってるオレがイヤなワケ。だから黙って送らせろ」
そう言って笑う灰谷くん。やっぱり札付きの悪、のような存在には全く見えなくて私も釣られて笑ってしまった。灰谷くんは優しいね、と言うと、そうでもねーよ、と返される。なんだか少し前の関係に戻れたようで私は安心した。灰谷くんもすごくいい人だ。私が告白を断ったことを、気にしないように振舞ってくれるなんて。良いことばかりだなあ、と鼻歌でも歌いたい気分だった私は、この時何も分かっていなかったのだ。
佐藤くんがあの日以来学校に来なくなった。噂によると不良グループに絡まれていたのを見かけた人がいるらしい。やっぱり灰谷くんが言っていた通りだと、私はゾクリとした。あの日もしも灰谷くんと会っていなければ、今居なかったのは私かもしれない。灰谷くんへの感謝と同時にやっぱりこんな時でも自分ばかりが可愛い私という人間の矮小さが際立つことに自己嫌悪する。
担任の教師は、登下校はなるべく多人数で纏まって、暫くは放課後の部活動は禁止、やむを得ない理由で帰宅が遅くなる場合は人通りの多い道を通り怪しい人には近付かないように、と大きく声を張り上げた。保護者向けに注意点が纏められたプリントが私の手元で乾いた音を立てる。教師は、配布物は必ず保護者に渡すように、と念押しした後で、佐藤は退院後転校することになった、と小さく言った。
その言葉は静まり返っていた教室に小さな波紋を起こす。途端にザワつく室内に、時計をちらりと見上げた教師は詳しくは言えないが、としっかり前置きをして佐藤くんの転校先はこの近隣ではないことを告げて以上と締め括った。質問は受け付けないという暗黙の訴えだった。
詳しくは言えない、ってことは言わないでって口止めでもされたのだろうか。私はプリントを折り畳んで手帳に挟み込む。帰宅したら出すのを忘れないようにしないと、と思いながら残りの荷物を鞄に詰め込んでいるとドアの方から私を呼ぶ声がした。先程とは違う沈黙が緊張感に似たものとして教室に広がる。ドアの外で私を呼んだのは、灰谷くんだった。
今日来てたの、とか、なんでここに、とか言いたいことは山ほどあったけれどとにかくその存在感に私は目を疑ってしまう。灰谷くんは自分に気付いているのにこちらに来ない私に痺れを切らしたのか、おじゃましまーす、などと呑気な声で他のクラスにズカズカと踏み込んだ。あっという間に私の前まで来るといつもと同じようにニッコリと笑って、送るから帰ろーぜ、とこれまた呑気に話す。
「え、と……今日、来てたの?」
「おー。ホラ、物騒って言ったじゃん?」
「だから、来たの?」
「ウン。オマエになんかあったらイヤだって言ったろ」
「えぇっと……」
「まだなんかあんの?帰りながら聞くから早くしろよ」
灰谷くんはそう言うと私の荷物を勝手に机から奪い取ってさっさと歩いて行く。まだ入れてないものもあるのに、と私は何個か残っていたポーチやペンケースを腕に抱えてその背中を追いかけた。不安を感じていたはずなのに、灰谷くんが現れたことでそんなのはすぐどこかへと飛んでいってしまう。なんてゲンキンな女。佐藤くんには申し訳ないけれど、告白はメールでお断りしなければ、と家に帰ってからやることリストに追加した。
だけど、何故かメールは宛先不明で何度送っても返ってきてしまった。そうか、メールアドレスを変えたのか。それとも携帯電話も壊されてしまったのだろうか。考えても無駄なことは考えたくなかったけれど、あの日の彼を思うと考えてしまう。なんで、佐藤くんのような人が不良グループに絡まれてしまったのか。そこまでに考えが至ってしまって、私は慌てて頭を振った。不良は、きっと理由もなく人を殴ったりそういうことをするんだろう。そう言い聞かせて、私は手帳から抜き出したプリントを親に渡すためリビングに向かったのだった。
「オレのことは灰谷じゃなくて竜胆って呼んで。兄貴と区別つかないから」
「オレもオマエのこと名前で呼んでいいよな?」
「帰りだけじゃなくて朝も迎え行く。連絡するから」
それからと言うもの灰谷くんは今までの関わりの希薄さがまるで嘘だったかのように、驚くほど私の生活の中に入り込んできた。灰谷くんは、と私が呼ぶたびにその垂れた目で私を見つめた後自分のことは名前で呼べ、と言ってきたり、その代わりに自分も私のことを名前で呼ぶと有無を言わせない様子で聞いてきたり。佐藤くん以降誰も不良たちに絡まれておらず、その事件すらもみんな忘れようとしているのにも関わらず朝も帰りも送迎してくれる。あまりにも近い距離に一度、竜胆くんは友達にはそうなのか、と聞いたことがあった。
すると竜胆くんは、その問いかけが意外だったようで目を大きく見開くと声を出して笑う。そんなに変な質問だったのだろうか、とお腹を抱え笑い続ける彼を見つめて返答を待つ。恐らく私が不思議がっているのをわかった竜胆くんは、ワリーワリーと罪悪感なんて毛ほども感じていない様子の謝罪を並べた後、またいつものようにニッコリと笑みを浮かべた。
「オマエはオレのトクベツだから」
「えっ、親友ってこと?」
「どうだろうなー」
親友、親友かぁ。嬉しいなあと喜んでいる私に竜胆くんは笑顔を崩さない。そしてオマエは可愛いな、と頭を撫でてくれる。なんだか子ども扱いでもされているようで私は恥ずかしくなった。可愛くないよ、とやっとのことで言葉を返すと、竜胆くんはすぐに可愛いよ、と返してくる。ムキになって言い返しても、きっとこの繰り返しになるはずだと私はぐ、と言葉を飲み込んだ。そんな私を竜胆くんはまた声を出して笑うので、悔しくてなんとかしようとその逞しい肩を殴る。何故か殴った私の拳の方が痛い。肩まで強いだなんて、とふざけながら言った言葉に竜胆くんは笑いを止めて私の痛めた方の手をまじまじと見つめる。
小せぇ手だな、と呟くとゴツゴツとした大きな自分の手で私の手を包み込んだ。オマエは弱いからオレが守ってやるよ。輝く笑顔が眩しくて、本当に竜胆くんは優しい人なんだなぁと思った私は同じく笑顔で、ありがとうと彼を見つめる。本当に彼と友達になれてよかった。その時私は本当にそう思っていたのだ。
「最近どうなの?」
「どう、ってなにが?」
「そんな誤魔化さなくっていいよー。灰谷くんと付き合ってるんでしょ?もうみんな知ってるって」
ある日いつも通り竜胆くんに教室まで送ってもらって、いつも通り授業を受け、いつも通りお弁当を食べていると以前私に告白を無碍に断るなと勧めた友人がニヤニヤと笑いながら聞いてきた。あまりにも唐突な問いかけに箸からミートボールがつるりとご飯の上に着地する。甘酸っぱいトマトソースに卵風味のふりかけが纏わりついてしまったのがショックで、箸の先でそれを取り除きながらも聞き返すと、予想の斜め上を行く答えが彼女の口からと飛び出した。その余りにも予想外な言葉に箸が滑って、ミートボールを貫通する。もうミートボールなんてどうでもよくなっていた。
「え、なんて?」
「だから灰谷くんと付き合ってるんでしょ?すごいなぁ……怖くないの?六本木のカリスマも彼女には優しい?」
「ま、待って。私、竜胆くんとは付き合ってないよ?」
「いやいや。名前で呼び合ってほぼ毎日送迎されて、あんな甲斐甲斐しく世話焼いてるのに彼氏じゃないとかないから」
それとも付き合おうって言われてないとか?灰谷くんなら有り得そう。言葉にしなくても分かれよ、ってことかもよ。そう言って彼女は笑う。どくりどくりと自分の心臓がどんどん速く鳴るのを感じた。彼女の言葉は、尤もである。きっと今の私を、私が客観的に見ても彼女と同じことを言う。あまりにも自然で違和感がなかったから全く気が付かなかったけれど、友達としてのこの距離は少し、いや、かなり異常だ。どうしよう。じわりじわりと自分の逃げ場所がなくなっていくのを感じて、食欲なんて失せてしまった。きっと顔色は最悪だろう。突然お弁当箱の蓋を閉じた私を見つめて、彼女は大丈夫かと聞いてきた。
正直全く大丈夫なんかではない。今日も帰りは迎えに行く、と竜胆くんは言っていた。ダメだ。とにかく逃げた方がいいと私の本能が言っている。
心の底から心配してくれている彼女に嘘を吐かせるのは心苦しかったけれど、背に腹はかえられぬ、と体調が悪いから帰る、と告げた。彼女はもう一度大丈夫かと私に聞いた後、先生にはそう言っておくね、と言ってくれた。灰谷くん呼ぶ?と気を遣ってくれたが、今は絶対にダメだと強張る表情を押し殺し、心配かけたくないからと笑ってみせる。少しでも健気な女に見えたのなら、それでいいと私はカバンに荷物を乱雑に詰め込んで階段を駆け降りた。
「ドコ行くんだよ」
「え、あ……り、りんど、くん」
「……あー……」
誰もいない下駄箱、震える手でローファーを床に落とすとぐ、と手首を握られた。その手の温度も、声のトーンも今まで全てが私に安心をくれていたのに、今はもう全てが恐怖の対象でしかなく、私は情けなく震える声で彼の名前を呼ぶ。するとその様子に何かを勘付いたのか竜胆くんはあの告白のあとのように罰が悪そうにした。だけどそれも一瞬のことで、すぐに笑顔を浮かべると、何がバレたんだ、と聞いてくる。
バレた。バレたって、と私が聞き返すと竜胆くんは淡々と話を続けた。
「アイツ、なんだっけ佐藤だっけ?ソイツのこと二度とナメたマネなんか出来ねぇようにやったこと?六本木に二度と来ねぇように言ったこと?あ、それとも引越しするように仕向けたこと?……でもさぁ、オマエも悪いだろ。今は、誰とも付き合わねぇって言ったのに。考えるとかさー……。でもオマエはイイコだから、オレのこと断ったのにあんなクソ野郎と付き合うなんてしねぇよな?そう思ったんだけど、よくよく考えたら今は、そういうつもりがないだけでこれからどうせ変わるだろうし、その時にオレ以外の選択肢があったらジャマじゃん。オレにはオマエ以外いないのに、オマエにはオレ以外がいるなんて、有り得ねぇだろ」
竜胆くんはそう話しながら私の手首を掴む力をどんどん強くする。ギシギシと骨が軋むような痛みに思わず声を漏らすと、ゴメンと謝られるけど体の震えは止まらない。竜胆くんは何度も何度とごめん、と謝罪を繰り返して私の体を包み込んだ。離された手首を目線だけで見下ろすとそこにはくっきりと竜胆くんの手の跡が残っている。それを見て、さっき竜胆くんがブツブツと話したことを繋げて、私はやっと理解した。彼は、悪い人なんだと。
耳元で囁かれる愛の言葉にときめきすらもない。それは愛を象った違う何かだった。ぞわりと背筋に冷たいものが走る。全部、私のせいだった。今は誰とも付き合う気がないだなんて、曖昧な言葉で誤魔化して竜胆くんの想いを蔑ろにし、佐藤くんへも他人の言葉で曖昧に返して。私が泣くなんて、お門違いなのに私の目尻からは涙が一筋伝う。恐怖からでもなんでもない。ただの罪悪感からの涙だった。
ごめんね、竜胆くん。ごめんね、と私の小さな声は押し付けられた竜胆くんの胸板に吸い込まれてしまう。くぐもった私の声に竜胆くんはより一層力いっぱいに私を抱きしめると、泣いているような震える声で呟いた。
「オレ以外、見るなよ」
オレにして。オレだけにして。擦り寄るように首を動かす竜胆くんの髪の毛が私の耳に擦れてチクチクと小さな痛みが走る。彼をこんな風にしてしまったのは、私なんだろうか。だとしたらその責任は取らなければならないのだろうか。ぼんやりとする頭の中でそんなことを考える。どうせもう逃げ場なんてどこにもない。逃げられるとも思ってない。私は彼の背中に腕を回した。竜胆くんはその感触に肩を震わせたけれど、私のことを離す気は毛頭ないようで私たちはただ抱き合う。
オレだけ見て。そんなことを言う竜胆くんに私はうん、と頷いた。でも、でもね、竜胆くん。こんなに近いと竜胆くんすら見えないんだよ。私があなたを見えてないのに、あなたは私が、見えてるのかな。
私は、そんなことすら言うことも出来ないままただ竜胆くんの背中に回した腕に力を入れた。もう涙すら、出なかった。
▲▼▲
- 34 -