ふたりぼっちの宇宙にて/灰谷蘭


 蘭の愛情表現ほど真摯で分かりにくいものは他にないと私は思っている。何が真摯かと言えば彼は私に他の女の影を匂わせたりしないし、実際にいない。あんなにも派手で人を引き寄せる魅力に溢れた人なのに周りには屈強な男の人ばかり。おかげで私は蘭の見えない部分を思って泣いた夜なんて一回もない。
 じゃあ分かりにくいというのはどんな所なのか。全てだ。彼は好意を無闇に口にしない。好きの価値が減ると考えているのかもしれない。蘭は独特の世界観と価値観を持っているから、私なんかでは測りきれないような確固たる何かによってそんな風に行動をしている、のかもしれないけれど、まあ、本当のところなんて何も分からないのが本音だ。
 
 以前、彼の弟である、灰谷竜胆に尋ねたことがあった。蘭は昔からそうなのか。私の唐突な問いかけに竜胆くんは、そうってなにが?と不思議そうに首を傾げる。センターで緩やかに分けられた前髪が揺れて、メガネのフレームがちかちかと光った。
 
「蘭って好きな人に好きって言わないタイプ?」
「知らね。兄貴の女紹介されたのなんてナマエさんが初めてだし」
「ふーん」
「……なに、好きって言われたコトねェの?」
 
 竜胆くんの問いかけに、私はなんて答えようか考えあぐねる。そんな態度がもはや答えだった。竜胆くんはえー、と消え入りそうな声で苦笑いを浮かべる。困らせてしまったようだ。
 私のハッキリとしない答えに竜胆くんもうんうん唸りながら、蘭の面影が少し感じられる顔を顰め、思考に耽ってしまう。そして閃いた、と言わんばかりに顔を上げると、兄貴って好きなもの人にはあげないタイプ、と励ましになってるんだかなってないんだかよく分からない言葉を口にした。
 微妙に繋がらない。好きなものを人にあげないことと、好きなものを好きと言わないのは決してイコールで繋がらないけれど、閃いた時の顔の輝きを思うとそんなことは言えなかった。
 へぇ、そうなんだ、ありがとう。私が口だけでそう言うと竜胆くんは世界で1番いい事をしたかのように鼻を鳴らして、ドーイタシマシテとニッコリ嬉しそうにする。キミは可愛いね。そう思って、私は竜胆くんの頭を撫でた。
 
 
 
「前ね、竜胆くんが教えてくれたんだけど……蘭は好きなもの、人に譲らないって」
 
 そうなの?私は蘭からもらったモンブランにフォークを刺しながら尋ねた。綺麗に分けられた前髪を人差し指で撫でて、蘭は笑う。底意地の悪そうな笑顔だ。揺れる長い三つ編みなんか、きっとほかの人がやったなら笑われるのになんでか違和感すら感じない。
 この世界がもしも漫画なら灰谷蘭は悪役、圧倒的なヴィラン。きっと最後の方で主人公の手助けなんかして人気をかっさらっていくようなタイプ。だけど私の中では少女漫画のヒーロー。蘭は前髪を撫でていた指をちょうど真ん中より少し私の方に寄せられた皿に向ける。
 今、オマエ誰のケーキ食ってンの?
 蘭のモンブラン。
 大正解。
 自分の問いかけに対する私の答えに満足そうに頷く蘭。どんな仕草でどんな顔でも絵になる人だ。さすがカリスマ。そんな私の思考を読み取ったのか、蘭は私のフォークを握る手首をとってそれをそのまま口に運ぶ。セルフあーん。可愛い人。寄越せ、一言でもそう言えばいくらでもやってあげるのに。そんな些細なことさえ頼めないなんて不器用な人だと思った。
 
 
 そんな日々も今は昔のこと。今日現在も私は蘭との交際を続けている。ちょうど先週12年目に突入したらしい。
 らしいと言うのは、私がそういうことに頓着しないからだ。多分女性にしては珍しいのだと思う。それを補うかのように、蘭は存外マメな男だった。
 1年、毎年記念日近くになると蘭は花をくれる。最初こそなんでこの時期になると花をくれるのだろうと首を傾げていたけれど、いつだったか、唐突に気付いたのだ。記念日だということに。
 それからというもの花を貰い受ける度に「何年目だっけ?」と訊ねた。蘭はそれが億劫になったのか、いつからか花の本数で私たちが一緒にいる年数を表すようになったのだ。
 それが蘭の照れ隠しなのだと気付いたのはここ数年のことである。蘭は器用に見えるけれど、恋愛、私のことに関しては不器用になるようだった。
 
 私でさえも何年目か分からなくなるほど一緒にいる年数を、自分が毎年楽しみにカウントをしていることを知られたくない。
 2年か3年ほど前、泥のように酔って帰ってきた蘭は竜胆くんの肩口でそう小さく呟いたそうだ。蘭は仕事柄よく酒を飲む。それでもそんな風になることは滅多にないのだが、その時は空腹に酒を大量に入れたとか、あまりの多忙で三徹目だったとかそんな理由で普通に立って歩くことすら難しい状態のようであったらしい。
 そんな蘭を連れて帰って、寝るのに困らないような状態にしてくれた竜胆くんはくつくつと笑いながら私に自分のスマートフォンを掲げた。聞いてよ、めっちゃウケるから、あ、兄貴には言わないで、なんて言葉の後に再生された音声。ガサガサとスーツの布摺れの音の後、いつも以上に間延びした蘭の声が聞こえた。
 一々年数数えてるなンか言えねェだろ、カッコ悪い、でも好き、アイツ以外はゴミ。途中から録音したのだという音声には、うんうん、それってナマエさんのコトだよね、と揶揄うような竜胆くんの声も入っていた。
 
 当たり前だろ、くだらねェコト聞くな。

 音声はそこで終わる。勿論、蘭には秘密。
 私は元気がない時、それを聞いて幸せな気持ちを取り戻すようにしている。例えば仕事でうまくいかなかったとき、蘭に会えない時間が続いたとき。
 仕事と言っても暇を持て余した私を見兼ねた蘭の計らいで、ちょっとした事務仕事をやらせてもらっているだけだけれど。だからこそである。上手くやれなかったりしたら蘭に示しがつかない。
 蘭は私に直接好きとは言ってくれない。でもそれは蘭が私に対して気持ちが無いわけでも、それによって私が蘭になにか思う理由になるわけでもない。だから私はこうして蘭に知られないように彼の気持ちを噛み締める。
 
 
 
 それでも寂しいものは寂しい。特に今日のようにお酒を飲んでアルコールで鈍る思考回路だと特に。
 いつもならお酒を飲むような会合では常に隣には蘭、もしくは蘭の側近の人がいるのだけれど今日はどうしても外せない別件があるらしい。
 ただそんなことがあろうとも彼が私に誰もつけない、なんてことは有り得ない。今日は初めて見る女の人だった。
 
 灰谷さんから聞いてますか?そう優しく問われて、私は一瞬戸惑った。蘭が女性の部下を私に会わせるのは初めてだったからだ。
 きっと蘭は、この人のことを信用してるんだ。嫉妬にも似た感情は、蘭と一緒に過ごす中で初めて抱くもの。嫉妬なのか、羨望なのか。よく分からないまま私は彼女の問いかけに頷く。今日はよろしくお願いします。やっとのことで呟いた言葉にその人はにこやかに微笑みを返してくれた。
 
 
「ナマエさん、楽しかったみたいです。はい。今は自宅近くのコンビニに、飲み物が欲しいと仰ったので」
 
 蘭の側近の部下の部下。私なんて名前すら知らされない人の運転する車は蘭が寄越した送迎の車だ。私は帰る道すがらどうしてもコンビニ限定のチルドカップの飲み物が買いたいのだと駄々を捏ねた。らしい。よく覚えていない。
 今日知り合ったばかりの女性の静かで、でもはっきりとした声に目を覚ます。傾いていた頭を上げてスモーク越しに外を見ると見覚えのある駐車場だった。女性の言う通り、ここは私の住むマンション近くの1番大きなコンビニ。
 いつもなら蘭やその側近の人に注意をされて、途中から飲み物はソフトドリンクに変わるけど今日はそんなこともなく、ずっと酒を飲み続けた。勧められるがままワインを飲んで、時折水も挟んだけれど単純に飲み過ぎたようである。
 なぜコンビニ限定のドリンクなのか。家には蘭が買ったり貰ったりしてくるそれこそコンビニなんかではお目にかかれないようなコーヒーもワインもビールも水だってあるのに。
 ぼんやりとする頭の中で眠る前の記憶を遡った。この隣の女性を困らせたい、そう思ったことだけよく覚えている。私は眠りこけてしまうほど酔っているのに、隣に座る女性も私と同じボトルワインを何杯か飲んでいたけど涼しい顔のまま。蘭に似ていると思ったのだ。冷静で、計算高そうなところが。
 
 だからその綺麗に整った顔が困った表情を浮かべたらいいのに。眉を少しでも歪めて、口の端なんかヒクヒクと引くつかせたらいいのに。
 なんだこの女我儘だなぁ、困る、そんなことを蘭に言えばいい。この人を呆れらさせて、その向こう側にいる蘭を困らせたい。試したい。それでも、蘭は見限らずに私をそばに置くのだろうか。好き、その一言さえも聞いたことがないのに。
 すみません、手には負えません、とか。今回限りにしてください、とか、言えばいい。どうしてそんなことを思ったのかはもはや思い出せないけれど、この人から漂う灰谷蘭を感じたのかもしれない。それでもこの人は何も変わらなかった。そんなところにも蘭っぽさを感じて、私は自分の矮小さを思い知った。
 
 コンビニのがいいの、飲みたい、今、すぐ。そう子供のように駄々をこねる私に、ただただ冷静に、そうですか、では自宅近くに寄ってもらいましょう。買いに行かせます、これですよね、といつの間に調べたのか、スマホの液晶に私が言っている飲み物の画像を出して見せた。
 きっとこういうところが蘭のお気に入りなんだなあ、瞼を閉じたり開けたりしながら思う。いいなあ、蘭はそういうところはわかりやすい。懐に入れた人間に、特別を与える。
 
「羨ましい」
「……なにがでしょう」

 私も私だけの特別が欲しい。蘭に、好きって言われたい。この人に言っても仕方がないことを私は呟いた。もう瞼は開かない。どうして車の微細な揺れはこんなにも心地よく眠りに誘うのか。私は毎回毎回思う。蘭が隣にいたなら、お酒と眠気の力を借りて頼めたのかな。本当は、私はもっと我儘なんだと、言えたのかな。馬鹿になってしまった思考のまま眠りについた。
 
 段々と鮮明になる頭でこれまでの行動を振り返り、少しだけ死にたくなった。あの灰谷蘭の女は、こんなにも我儘で傲慢で、弱虫。そんなことを言われたら、どうしよう。今まで張ってきた精一杯の虚勢も、なんの意味もなくなる。アルコールは涙腺までも緩くするのか、私の目尻からポロリと涙が伝った。
 
 コンコン、と窓を叩く軽い音がする。誰、と顔を上げるとそこには蘭がいた。仕事も順調だったのだろうか、機嫌の良さげな笑顔。私の頬に涙が伝っているのは、スモークガラスのおかげで見えていないようである。
 隣の女性も車内の暗さで見えていないみたいで、灰谷さん仕事が終わってそのまま来たそうです、なんて状況を簡単に説明してすぐに反対の扉から出ていってしまった。
 車内に取り残されたまま、涙を手の甲で雑に拭う。明日には呆れられて捨てられるかも知れないけれど、それでも蘭には、そんなへなちょこな姿を見せたくなかった。
 車外でどんな会話をしたのかは聞こえないけれど、2人は笑顔だった。消えたい。消えてなくなりたい。私がそんな思いを抱えていることなんか知らない蘭はそのまま私側のドアノブに手をかけて扉を開ける。
 
「ナマエ、飲み過ぎたらしい、なァ……オイ、何があった?」
「へ、なに、って……」
「泣いてンだろ。……イヤーなオッサンでもいたかァ?それとも変なオンナに絡まれたかァ?」
 
 私の顔を見てすぐに訝しげな顔をした蘭は私の微かに濡れていた頬をゆっくりと親指で撫でて、なァ、オイ、と横目で今日付き添ってくれた女性を睨み上げた。女性は驚くほどの速さで頭を下げる。
 蘭は私を車内からゆっくりと下ろし、背に庇うようにして立つとその女性に他からは見えない角度で銃を突き付けた。
 
「どうしたァ?報告しろ。言ったよなァ、キズ1つでも付けたら殺すって……それとも、オマエに任せたオレがバカだって言いてェのか、ア?」
「すみません、私の配慮が足りませんでした。目を配っていたつもりでしたが、申し訳ありません」
 
 女性はただ地面を見つめている。綺麗な人はお辞儀さえも綺麗なんだと見つめながら、違う違うそうじゃないと蘭の腕を掴んだ。
 蘭、違う、その人は悪くないの。私がそう訴えると気にすンな、下がってろ、と元の位置に押し戻されてしまう。
 この人のことを困らせたいとは思ったが、こういうことではないのだ。その一心で私は、違うの、と一際大きな声を出す。深夜のコンビニの狭い駐車場に私の声が反響した。
 それには、とした蘭は落ち着きを取り戻したのかようやく私を振り返る。
 
「違うの、この人は悪くないの。……自分が、情けなくて、涙が出ただけ。本当に、嘘じゃない」
「あ、そ……悪かったな、もう、下がれ」
 
 女性は頭を上げて私を気遣うように見た。その目には心配の2文字がありありと浮かんでいる。早とちりと勘違いとは言え、私のせいで泡や大惨事であったのに優しい人だ。
 その人は蘭にもう一度深く頭を下げる。そして、戻ってきた運転手から受け取ったコンビニ限定のドリンクを私に手渡してくれた。ありがとうございます、と呟くように言うとドリンクを受け取った私の手を包み込んであの綺麗な微笑みを浮かべる。
 
「先程の、眠られる前の話、灰谷さんにしてください。大丈夫です、きっと叶えてくださいますよ」
 
 また御一緒出来たら嬉しいです、おやすみなさい。その人は内緒話をするような小さな声で私の耳に囁いた。
 けれども残念ながら静かな深夜の駐車場では意味もなく、蘭は訝しげな顔をしている。強かな人だと思った。出来ればこんな人が、ずっと蘭といて欲しい、何となくそんなことを思いながら、私はすぐ横に付けられていた蘭の自家用車に乗り込んだ。
 
 家に帰ると手に持っていたドリンクを取られ、こンなのが飲みたかったのかァ?、と笑われる。蘭はそれをそのままテーブルに置いて、自分のネクタイを弛めた。こンなモン、いくらでも買ってやるのに、そう不機嫌そうに呟くので、なんだか耐えきれずにその広い背中に抱き着く。
 
「もっと、欲しいものが、あるの」
「何?何が欲しい?オマエの欲しいものは全部やるよ。バッグ?ピアス?……あ、ネックレスかァ?」
「蘭、好きって言って」
「は」
 
 ぽかんとした顔はとても珍しい。顔だけ振り返った蘭の開いた口を見つめる。ああ早くその口から好きの2文字が降ってくればいいのにと私は願った。蘭は、あー、と迷ったように唸る。そんな姿は珍しくて少し笑ってしまった。
 
「蘭に好きって、言われたいの。駄目?」
「……そンなの卑怯だろ」
 
 
 大きな溜息を吐き出した蘭は顔を手で覆う。何秒かの沈黙の後、観念したように手を外して私に向き直った。蘭の動きに逆らわず、腰に巻き付けていた腕の拘束を解くと今度は逆に蘭の腕が背中と腰に回ってくる。まるでダンスでも踊り出しそうな体制にワクワクしてしまうのを押えた。
 彼はどんな風に愛を囁くのだろう。そしてそれはどれだけ私の心を満たしてくれるのだろう。抑えきれない期待にニヤつく顔。それを見た蘭も堪えきれずに悪戯っぽく笑う。
 
「ナマエ、好き」
「うん」
「好き、好き、愛してる。好き、好き」
「蘭、笑っちゃうから、も、もういい」
 
 蘭は楽しんでいるのか、私の耳に直接吹き込むように囁き続けた。好き、愛してる、永遠と繰り返される言葉に声を出して笑う。あまりにも擽ったい感触に逃げようと背中を反らしても後を追って来る蘭。好き、ともう何度繰り返されたか分からない。最後にちゅ、と耳の下に口付けを受け止めて、そのまま抱きすくめられる。
 満足したか、と可笑しそうに聞かれて私もくすくす笑いながら頷いた。もう何年と一緒にいるのにほぼ初めて囁かれた言葉は、想像していたような甘い雰囲気のそれでは無かったけれど、こんなにも満たされるものなのか。私はニヤける顔をそのままに蘭を見上げる。彼も口の端を持ち上げて、にたにたと楽しそうであった。
 
「なァ、ナマエチャンよォ。カワイーお願い聞いてやったオレにご褒美はねェの?」
「ご褒美?ふふ、なぁに?私で叶えられるの?」
「んー、オマエにしか、出来ねェコト」
 
 蘭が話す度に笑いが込み上げてきてしまう私は口から漏れ出る笑い声を噛み殺して、なあに、と蘭の言葉を促す。すると蘭は私の額と瞼に口付けを1回ずつ落として私の左手を取ると、薬指の付け根にも唇を落とした。ちゅ、と可愛らしいリップ音の後、そこから目線だけ私の顔の方に下ろし、見つめ合う。
 真っ直ぐに私を見つめる蘭の目は優しかった。その視線からも愛の大きさが伝わってくるようで、幸せが溢れる。ナマエ。名前を優しく呼ばれて私は首を傾げた。
 
「結婚しよう」
 
 耳を疑った。蘭の首、丁度喉仏の辺りにある芒に月を模した刺青を見つめる。これは彼が裏社会に生きる人間ならば知らない者はいないとまことしやかに囁かれる梵天の一員であることを示すもので、それが指すのは彼が決して陽の当たる人間では無いということだ。
 反社会的勢力。表に立つことは許されず、失敗は死に直結する仕事。大凡の幸せというものには縁遠い。蘭の口からまろび出るような言葉では無いことに今の今まで漏れ出していた自分の笑い声が途切れる。
 見上げた蘭の顔は相変わらず笑っていたけれど薬指に薄らと触れる唇から振動が伝わってきた。震えている。
 
「蘭?……結婚って」
「そのまま。オマエのミョウジって苗字を捨てて、灰谷っつーカリスマの苗字名乗れって話だよ」
「……なに、それ」
 
 私がそう言うと蘭は私の左手を握り締めた。そして恭しく私の手の甲にシミなんてひとつもない綺麗な額を付けて祈るように口を開く。
 ナマエ、オマエだけは絶対に幸せにする、必ず。だから、頷け、なんて言葉が耳から私の脳内に入り込んだ。
 馬鹿な人。不器用な人。視界の端で先週の記念日にもらった花が揺れる。12本の赤い薔薇は英語圏ではダズンローズなんて呼ばれるんだと語っていたことをふ、と思い出した。
 そうなんだ、意味があるの?と聞いた私に蘭はほんの少しだけ眉を顰め、どうだろうなァと目を逸らしたのだ。きっと、意味があったのだろう。
 
「馬鹿な蘭。私だけって、なあにそれ。信じられない、馬鹿」
 
 あなたも一緒に幸せになってよ、じゃなきゃ頷けない。私がそう答えると蘭は目を見開いて、その後すぐに私を抱き締めた。ギシギシと骨が軋むような感覚は珍しい。彼は私をいつも丁重に扱う。いつだって、蘭は私に優しくて甘くて、不器用だった。
 自分の好きなケーキを食べさせて欲しいだとか、付き合った年数をちまちま数えてるなんて知られたくないだとか、好き、の一言も言えないだとか、その割に私がメソメソと1人で泣くことはさせたくないだとか。
 蘭の愛とは本当に真摯で分かりにくい。だけれど私はもうこの人以外、愛せない。
 
「私と一緒に幸せになって、蘭」
 
 私が放った言葉に蘭は何も返さなかった。その代わりに元々痛いくらいに抱き締めていた腕の拘束を強める。それは不器用な蘭の精一杯だった。
 灰谷蘭という人を選ぶことは、きっと世間から見たら幸せなんてひとつも無いのかもしれない。でもそんなものは関係ない。私が、蘭でなければだめなのだ。このどうしようもなく不器用で可愛い男を、愛しているから。

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