ナントカは犬も食わない/灰谷蘭
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兄貴の機嫌が悪い。寝起きでは無いということだけは知っている。何故なら兄貴はさっき外出から戻ってきたからだ。
帰宅して早々、昨日食い散らかしたピザの空き箱を邪魔クセェな、と蹴り飛ばし舌打ちを1回。空き箱が壁に当たって、そこにトマトソースが付着したのを横目で見てさらにもう1回。
コートも脱がずにソファに腰掛け、足を組んだ兄貴。ローテーブルに置かれたまま放置されていた空き缶をその爪先が掠めて1回舌打ち。缶は鼓膜に突き刺さるような甲高い音を立て落ちる。その音が不快だったのか、兄貴の眉間に皺が刻まれた。そして、一際大きな舌打ちの後、組んだ足を下ろした兄貴はそのまま缶を踏みつける。ただ重力に逆らわず床に落ちただけの空き缶は無惨にもペシャンコになった。飲み口からほんの少し残っていた酒が溢れて床に本当に小さな水溜りを作る。また、舌打ちが聞こえた。オレの頭の中で兄貴の舌打ち正の字が1文字、完成する。
「あ、兄貴……?」
「……ア?」
駄目だ。めちゃくちゃキレてる。俺は確信した。基本兄貴は呼び掛けると「んー?」とか「どうしたー?」とか間延びした声で返事をする。今のはヤバいヤツ。前に兄貴が寝てるからとダチを呼んで楽しんでいた時、不意に起きてきた兄貴と同じ反応だった。その時は兄貴の好物を献上したことによって事なきを得たけど、今回オレは家にいただけである。ちなみに今まで兄貴の動きを尽く邪魔してきたゴミたちは全て昨日の兄貴が産出したものなので、オレは悪くない、はずだ。
呼び掛けた後言葉を何も言わないオレに、滅茶苦茶に機嫌が悪い兄貴の眼光が突き刺さる。ヤベェ。何かを話さなくては、と謎の焦燥感に駆られたオレは出掛ける前は滅茶苦茶に上機嫌だった兄貴を思い出す。今日どこ行くって言ってたっけ。イヤ、誰とだっけ。そうだ。
「きょ、今日どうだった?アレ、兄貴のヨメと出掛けたんだろ?」
「……」
セーフ。取り敢えずあと何分かは生きられる。兄貴はソファに大きく腕を広げ、脱力した。来る者拒まず、去るもの追わずな兄貴に最近出来たヨメ。ゲンミツにはまだ、カノジョだけど。今まで侍らせていた女達と全く違う雰囲気の女は、なんというか、案外フツウの女だ。
特徴を挙げるなら、溢れる清潔感と穏やかな人柄だ。今までの女がゲラゲラと大声で笑うタイプだったから余計にそう感じるのかもしれないけど。クスクスと笑う姿はなんというか、上品だ。
あと礼儀正しい。兄貴が初めてこの家にヨメを連れてきた時、兄貴は玄関先からオレを呼んだ。なんだよ、と思いつつもリビングから顔を出すとそれはそれは恥ずかしそうに俯くヨメの肩を抱いて笑う兄貴。オレのヨメ、挨拶しろ、と言う言葉にオレは慌てて駆け寄り、名乗ろうとするとヨメはオレを止めた。
その後大きく深呼吸をして、私の名前は、と名乗る。ハキハキした元気のいい挨拶に度肝を抜かれた。今思えばそれは努めて大きい声を出したのだと分かるけれど、まあ、好感しか感じなかったのはまだ記憶に新しい。
要するに不良と呼ばれるオレや兄貴には無縁そうな女なのだ。面倒臭がりな兄貴が自分の相手にとそういう女を選んだことすら信じられないが、オレの女、ではなくオレのヨメ、と紹介するほどハマっているのは確かである。
因みにヨメ、とオレが呼ぶのは兄貴から彼女の名前を呼ぶことを許されていないからだ。兄貴は結構嫉妬深い。
話を戻す。脱力した兄貴は天井を見たあと大きく舌打ちをした。ミスったな、とオレは頭を抱える。どうやら兄貴の機嫌の悪さは、ヨメと関係があるようだった。
何があったんだ。出掛ける前はあんなに機嫌が良かったのに。ちら、と兄貴が出掛けたまま開け放たれている部屋のドアを見ると、床には衣替えの途中なのかと思うほどの服が山積みにされている。
早起きが得意じゃないのに、ヨメと出掛ける日は必ず出掛ける3時間前に起きて緩慢な動作ながらも準備を始める。普段の兄貴を知っているオレからすると、そののそのそと動く姿は兄の皮を被った別の生き物にすら見えた。だがそれはまごうことなく兄貴なのだ。
「アイツ約束の10分前から待ってンの。健気でカワイイだろー」と付き合ったばかりの頃惚気けていた。その頃は態と遅刻をしていったりをしていたようだが、一度ヨメがナンパをされているのを見てからは毎回ヨメの待っている、その10分前には待ち合わせ場所に立っているらしい。
以前家ですっかり寝入ってしまった兄貴を膝枕しながらヨメがナイショね、と教えてくれたのだ。ナイショもなにも、言えねェし、言いたくねェよ。仮にも六本木のカリスマ。兄貴に憧れるヤツを何人も知っているオレはヨメからたまにタレ込まれる、蘭ってこんなにいい彼氏なの情報を頭の隅にある鍵付きの引き出しにしまう。
また話が逸れてしまった。恐る恐るオレは「何かあったン」と聞いてみる。コレさえもミスなら多分オレは明日の朝日を拝むことはない。そんな感慨深く見たことないけど。
兄貴は長く深い溜息を吐いた。竜胆。オレを呼ぶ低い声に情けないが肩が鳴る。なに、恐ェよ、と軽く笑って見せたが兄貴は恐ろしい程に何も反応を示さない。
「オマエ、女いたっけ?」
「ハ?女って……カノジョ?別れたばっかりだケド」
嫌味か?口には出さないように細心の注意を払って、オレは首を横に振った。ていうか、兄貴も知ってンじゃん、そう言うと兄貴は天井を見ていた顔を起こす。なんで別れた、そう聞くけどソレも話したよ、と思った。
先々週くらいだったか、オレは気まぐれに付き合っていた女と別れた。別れよ、そう言ったオレに女はビンタを食らわした。ふざけンな、と思ったけど、最後だしこれくらいはと許し、赤いもみじを頬に残したまま帰宅したオレを笑ったのは紛れもなく兄貴である。ちなみに別れた理由についてもその時に話をした筈だ。すっかり忘れている。そもそも興味すらなかったのだろう。
連絡をもっとしろ、もっと会いに来て、時間を私に使えと執拗いところがムリだった。
オレが答えると、兄貴は先々週と同じようにフーン、と興味無さげに頷く。自分で聞いたのに。
やっぱり女ってそうだよな、兄貴は呟く。あれ?もしかしてヨメにその件で怒られた、とか?いや、そんな人には見えなかったような。オレは数回会っただけだが、彼女が、そんな、男がいないとダメになるような、そんな恋愛脳な女だと、到底思えないのだ。
高校を卒業してすぐに働きに出てね、ずっと同じ会社なの。良い人ばっかりで、よく同世代の人達で飲みに行ったり、5月の連休とかはバーベキューもするよ、楽しいの。
大学生なのか、そう聞いたオレにヨメは笑って答えた。兄貴はそれを知っているようで特に何も話さない。彼氏が出来たって言ったら、連れて来てって言ってたけど、とヨメはちら、と兄貴を見て続ける。行かねェ。バッサリと切り捨てた。予想通りだ。兄貴がそんなパンピーと煙たい場に行くなんて考えられない。ヨメは予想していたのか、だよねぇ、と苦笑していた。
男がいてもいなくても楽しく過ごせる、そんな人だと思っていた。違うのだろうか。オレが首を傾げると、兄貴はウゼー、と吐き捨てる。
「アイツさ、今度の連休ダチと旅行行くらしい。それはそれとして、その次の休みは姉貴の結婚式、今月最後の休みには中学のダチと遊ぶンだって、有り得ねェよな。オレがアイツに会ったの今月何回か知ってっか?竜胆。2回だぞ。ふざけてやがるよなァ」
「あー……そういう、コト……」
「オレのヨメだっつーの。譲れよなァ。ダチかなンか知らねーケド」
「ハハハ」
乾いたような笑い声しか出ない。これが六本木のカリスマ。ナントカの風のように、とかよくわかンねェ喩えをして、周りを凍らす灰谷蘭がただカノジョの交友関係に納得がいかないと怒っている。ちなみにそれはヨメに言ったのか、聞くと、言ったそうだ。注意されたらしい。時間を作れなくてごめん、でも先約だから、来月はたくさん会おうね、電話もいっぱいしよう、と。それは注意ですらない。もう一度言うが、注意では無い。
だが兄貴は兎にも角にも今月はもう会えない、ということにご立腹である。ネンショーに入っていたことを考えれば、確かに次を逃せばいつ会えるのかと思うことがあるのかもしれない。
「ま、まァ……電話するって言ってたンだろ?じゃあイイじゃん」
「何もよくねェよ。バカが。直接会うのと声だけじゃ全然違ェ。普通に考えたらわかンだろ。殴られてェのか」
もう既にオレの心は磨り減っているしボコボコだ。気遣っているのに何も伝わってないし、火に油を注いでいるような感覚さえする。今の兄貴に何を言ってもムダだ。殴られる前に退散したいが、タイミングをミスすれば恐らく殺される。オレは普段はクソ喰らえと思っている神にすら縋りたい思いで、兄貴の携帯電話を見つめた。旅行、無くならねェかな。結婚式は、めでたいし、さすがに姉貴だし、大丈夫だろうから。あと、中学のダチだっけ。調べさせて男がいるならテキトーにボコるか。彼氏がそんなことになったら遊ぶどころの騒ぎじゃねェよな、多分。
消去法だ。兄貴をボコることは出来ないし、許されない。それに兄貴が喧嘩をすることなんて非日常ではないし、負けることなんかないと信じているヨメだ。兄貴が意識不明の重体とかそんなことにならないと動揺もしないだろう。それが出来る人をオレは数えられるほども知らないし、少なくともオレには出来ない。それにそういうヤツらは頼まれて喧嘩をするようなタマではない。そう。全ては仕方ない。必要な犠牲だ。
兄貴にバレないよう、そっと携帯電話を取るとけたたましい着信音が鳴った。オレのではない。兄貴のものだ。不機嫌を体現していた兄貴の眉間のシワが僅かに緩む。あ、ヨメだ。確信した。いつもならすぐにとる電話をなぜか今日は数秒見つめたあと、仕方ないとでも言うようにとる。少しでもヨメに自分の機嫌の悪さを分からせる為だろうか。ガキかよ、と言いたくなった。
「もしもし、なに……別に、フツー。……へェ、送迎キボーってワケかァ?イイケド。高ェーからなァ……ハハ、ウソだよ」
山の天気のように恐ろしい速さで機嫌を変えた兄貴。眉間に刻まれていた皺はどこに行ったのか、もうその顔には穏やかな微笑みが浮かんでいる。よかった。明日の朝日は拝めそうだ。初日の出でもねェけど見に行くか、とオレは改めてダチにでも連絡しようかと自分の携帯電話を広げる。ヨメの友達の男(仮)は命拾いしたな。いつも飲むヤツらへメールでもしようと携帯電話をカチカチといじる。傍らでは兄貴が楽しそうに話を続けていた。
結婚式に着ていくのをドレスにするか振袖の着物にするかヨメは悩んでいるらしい。今から見に行ってやろーかァと間延びしたいつもの話し方をする兄貴は、まだ聞いている途中だと言うのにソファから腰を上げた。
色良い返事がスピーカーから聞こえたのか、自分で踏みつけた缶を拾い、壁にぶつかって変形したピザの空き箱も纏めてカウンターへと乗せる。普段なら絶対にやらない慈善活動をする後ろ姿はやはり六本木のカリスマとは程遠かった。
兄貴はチラリとテレビに表示されている時刻を見て、今からなら30分位で着くワ、と電話を切り上げる。ここ六本木からヨメの一人暮らしのアパートまでは電車で1本、時間にして15分もかからない。敢えて長めの時間を伝えたのは、兄貴が来ると最寄りまで迎えに来てしまうヨメを気遣ってのことだろう。そこまで分かってしまう自分が気持ち悪い。
「竜胆。オマエも早く女作れよ」
「あー……ハハハ。ソウダネ」
帰ってきた時とは真逆に、すっかりと上機嫌になった兄貴は途端にオレの幸せを願った。そしてトマトソースがベットリと付いた壁を見て頭を搔く。オレがやっとくから、早く行ってやンなよ。待ってるよ、ヨメ。気遣ってそう言うと兄貴はサンキュー、といつものようにヘラリと笑った。
女を作るのはイイけど、兄貴みたいにはなりたくないな、と思ってしまったことは、墓場まで持っていく秘密だ。鍵付きの引き出しに目一杯詰め込まれているソレはこれから生涯をかけて増えていくんだろう。理由は無いけど、そう思った。
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