それに名前をつけるなら/灰谷竜胆
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竜胆が車から転げ落ちた。断っておくが走行中ではない。オレが蹴り出した訳でもない。明らかにバスの乗り場だと分かる所で車を停めようとした竜胆のポンコツ側近がブレーキを踏んだその瞬間、竜胆はドアノブに手をかけて車から飛び出した。まだ停まってねーぞ、と掛けた声はおそらく聞こえていないだろう。ずしゃ、という布とアスファルトが擦れる音がしたので見つめると一回転してその勢いで走り抜けていく竜胆の後ろ姿が見えた。
「おー……まだ若ェなァ」
「蘭さんは降りられますか?」
「おう、車ヨロシク」
そう一声かけて、竜胆が飛び出たドアとは反対側のドアから降りる。開け放たれたドアは仕方がないので閉めてやった。兄たるもの弟の不始末は拭ってやらねばならない。オレが足で開けたままのドアを閉めると、あっ、あの、と運転席から戸惑う声が聞こえたが、気の所為だろう。すぐ後ろからはバスが迫ってきていて、運転手は迷惑そうにクラクションを鳴らしたが、気にせずそのまま歩き出した。
ここは梵天の息がかかった総合病院。立派な自動ドアを潜れば、一般人に混ざって見覚えのある人間がちらほらと受付に立っていてそういうヤツらはオレの顔を見るとすぐに駆け寄ってくる。
こんにちは、なんて人の良さそうな顔で笑うソイツに竜胆は、と聞くとそのままの顔です、と奥の方を指さした。アチラに、走られていたので注意はしました、と答えられる。
その方を見ると競歩かよ、と笑い飛ばしたくなるほど律儀にルールを守って最大限の速度で歩く竜胆が見えた。
「ダッセェ」
「ルールを守る、良い上司です……蘭さん、もしかしてお伝えしなかったんですか?」
「アー?……あァ、そういや、伝え忘れたかもなァ。ま、いいだろ」
オレがそう言うと、クスクス笑いながらソイツは受付に戻っていく。アイツの怪力が悪い、オレは特に何もしていない。そう思いながらオレもにやにやと上がる口角を抑え、竜胆の後を追った。
ルールって言うのは守るためにあるの。キミの仕事がそういう仕事なのは分かるけれど、エレベータや電車では出る人が優先だし、公共の場では走ったらいけないの、竜胆、約束してね。
まるで子どもに言い聞かせるように優しい声。押し黙ったオレの手を無理矢理開かせて小指に自分の細っこい指を絡めて「ほら、約束」と笑ったのはオレの最愛のオンナ。ある日一緒に出掛けた時、自動ドアで譲らなかった男を睨むと、そう言われたのだ。
反社にルールを叩き込む。なんてオンナだ。でもそういう正しい強さを持っている、そんな所が特別好きなオレは何も言い返すことは出来なかった。そして今も律儀に守っている。
不本意ではあるが道を歩く時には端に寄るのが増えた。ポイ捨てなんかしないし、どれだけ急いでいても彼女の言う公共の場ってヤツでは走らない。そんなオレを兄貴はおいおい、マジかよと笑う。正直ホントはやってられない。端なんか意識せず歩きやすい真ん中を選びたいし、ゴミなんかどこで捨てても一緒だと本当は思ってるし、急いでいるなら場所なんか関係なく走りたい。
でも、彼女に背くようなことはしたくなかった。クソ、と思う度絡んだ小指の細さと温かさが蘇り、約束、と笑う笑顔が脳裏に浮かぶ。どれだけ仕事のため自分のために他人を切り捨てられても、彼女だけはダメだ。失いたくないし、些細なことでも裏切りたくない。それは、ずっと、今も変わらずだ。
そんな彼女がいなくなったと連絡を受けたのは今朝早くのことだった。兄貴と出張に出ていて、朝一番の便で空港に降り立ち、面倒なので電源を切っていたスマホを起動させる。すると、待ち侘びていたかのように着信を知らせたので、ウンザリしながらも耳に当てる。電話で連絡を受ける時は大抵、ろくなことではない。そしてその予感は当たる。焦ったような声とともに彼女がいないと報告を受けたのだ。
彼女は特にオレの仕事とは関係の無い、所謂一般人だ。けれども梵天のフロント企業で働いている。あまり彼女を外に出したくなくて、秘密裏に手を回し、仕事はほぼ在宅。よく遊ぶ同僚には信頼のおける部下を配置し、お揃いのスマホケースにはGPSを仕込んである。
報告は彼女の同僚として配置している部下からであった。珍しく突然有給を取ったので何かあったのかと思い家へ様子を伺いに行くと誰も出ない。何かあったのかと合鍵で部屋に入るとそこには誰もいなかった。スマホも充電器が刺さったままベッドの枕元にあったらしい。
何度見てもオレのところには昨夜、おやすみなさいというメッセージが来て途切れている連絡しか来ない。どこに行った。何があった。動揺し、兄貴を見つめると呆れたように出掛けただけじゃねェのか、と言われるが、彼女がスマホを持たないなんてことはまずないのだ。早く戻ろう、そう言って呼び付けていた車に飛び込む。向かう先は取り敢えず、彼女のいない家だ。
空港から自宅までは片道1時間半ほど。その途中でオレのスマホが再び震えた。ワンコールも鳴らないうちに耳に当てると、彼女が見つかったと言う吉報で、オレはほ、と息を吐く。だがそれも束の間で、次の瞬間自分の耳元でスマホが音を立てて壊れてしまった。
「出先で倒れているのを救急搬送されたようです。手を回して搬送先は梵天所有の病院にしましたが、倒れた場所が悪かったみたいでして」
その後に続くはずだった言葉は兄貴のスマホからスピーカーを通して流れる。要約すると随分急いだ様子で出掛けたらしく、普段なら使わない裏通りの抜け道から駅に向かっていたようだ。そこで倒れているのを運良く通りすがった通行人によって救急搬送された。だが倒れていた場所が悪く、恐らく30分ほどはそこで倒れており、今現在意識がない。搬送先にはもう五分ほどで到着する。病院へと行き先を変えた車は、俺を気遣ってか、法定速度なんか無視して走った。
怒ってくれて構わない。起き上がってまたいつもみたいに眉毛を少しあげて、竜胆、と窘めるように名前を呼んで、ダメだよ、と手を握って欲しい。これがもし人為的に起こされたことなら、首謀者はどんなことをしても見つけだして生まれたことやこれから先生きることを後悔し絶望させてやる。
車が走り続けているというのにオレが揺らした足で不安定に揺れる車。隣で足を組む兄貴が小さく舌打ちをして、咎めるようにオレの名前を呼んだ。いつもなら、謝るのに、今日は何も言えず、自分の膝に肘を置いて頭を抱える。兄貴、どうしよう、情けないほど震える声に兄貴はただ、大丈夫だ、と答えた。
「もしもし、あぁ……へぇ、了解、竜胆にはオレが伝えるから心配すンな」
兄貴はあと10分ほどで病院に到着するというタイミングでの連絡をそう言って切る。今の、何、耐え切れずそう聞くと、目覚まして、意識もはっきりしてる、心配いらねェだとよ、とスマホを操作しながら答える兄貴の口元は笑っていた。ウソじゃねェよな、念の為、聞くと兄貴は無言で俺の脛を蹴る。
「竜胆ーオレがそんなタチの悪ィウソ、吐くとでも思ってンのかァ」
「ち、違うけど……そ、か……よ、かった」
車での会話はそれきりだった。病院に到着して文字通り転がりながら車を飛び出す。後ろの方で喧しいバス特有のクラクションが鳴っていたが、もうどうでもよかった。
自動ドアが開くのも待てず、こじ開けるように手をかけて体を滑り込ませると待っていましたと言わんばかりに、この病院を仕切っている兄貴の部下が出迎える。
病室はこの奥、1027号室です、病院内は走らないでください。
辛うじて聞こえたその声に俺はギクリとした。そうだ、ルールは守らなければならない。きっと駆け込んできたオレを見て彼女は怒る。いつも通り怒られることは彼女が確かに生きていることを証明はするだろうが、無理をさせては元も子もない。舌打ちをしたい気持ちを抑え込んで、徒歩で出せる限界の速度で歩く。今ならきっと日本代表としてスカウトされても可笑しくない。
蹴破る勢いで開けた扉。ガシャン、と大きな音にびくりと肩を鳴らして顔をこちらに向けた彼女は、オレだと確認するとへらりと気の抜けるような顔で笑った。ぱっと見た感じ包帯が巻かれていたりそういうのはないようだ。上から下まで何回も何回も視線を往復させる。生きていた。
「あ、竜胆だーおかえり」
「お、おか、おかえりって……バカ!オマエ道で……たお、バカ!あー……もう、ホントに信じらンねェ、バカ、体は?どこか打った?なにがあったんだよ、」
「おお……ごめんね、心配かけちゃって」
彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げる。どこから話そう、と悩む様子を見せるので間髪入れずに全部話せ、と彼女のベッドの近くにあった簡易的な椅子に腰掛けた。
えっとね。視線を宙にさまよわせ、もじもじと指をにぎったり話したりをしながら彼女はぽつぽつと話し始めた。
竜胆が出張に行った、えっと、3日?くらい前から体調が良くないっていうか……元気なんだけど、ぼーっとしたり、眠気がすごくてね、病院が今日しか予約取れなくて。それで、あの、ご飯とかもなんか食べる気しなくて、水も飲めなくてね、どうしようって悩んでたら眠れなくて……、それで今日目覚ましたら予約の時間ギリギリで慌てちゃって、スマホ忘れたのは気付いたんだけど間に合わない、と思って走ってたらくら、っと来ちゃって……その、今に、至ります。
彼女はチラリ、とオレの様子を伺う。なぜ、そんな状態であることを言わなかったことを咎められると思っているようだ。正直許されるならその細い肩を掴んで、問い詰めたい。
なんで言わなかったのか、そんなにもオレは頼りないのか。けれども彼女が普段からオレに心配をかけまいと振舞っていることを知っている手前何も言えない。
彼女は、辛い時、何も言わない悪い癖がある。自分が辛い時、喉元まで出かかる言葉を飲み込んで、相手の心配ばかりする、良いんだか悪いんだか分からない、でも優しく正しくあろうとする彼女らしい癖だ。
「心配、するだろ」
「うん、ごめんね」
「スマホだけは持って行ってくれ、家の鍵掛けるとかそンなのどうでもいーから」
「はい、ごめんなさい」
「病院はさ、連絡すりゃいーじゃん、間に合わねェって」
そう言うと彼女は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。でもね、産婦人科って予約取るの至難の業で、遅刻すると自動でキャンセルされちゃうの、といじけたように呟く。
さん、え?いま、とんでもない単語が聞こえたような気がした。思わず彼女を2度見し、やっとのことで吐き出した声。
「は」
「人気な病院なんだよ、だから予約取るの苦労してね」
「ちょ、ちょ、ちょっと、ちょっと待って。え?なんて?」
「だから、人気な病院なんだって」
「違うその前、え?なんの、病院……」
「産婦人科だよなー?つーかそンなの竜胆に任せとけ、な?」
ガラガラ、と静かに戸を開けて体を滑り込ませた兄貴はニコニコと機嫌良さげに笑った。体大丈夫かァ、貧血だってな、メシはちゃんと食えよ、と彼女に話し掛け、断りもなく彼女のベッドの足元、僅かなスペースに腰掛ける。
なんで、は?兄貴、なんで、と自分でもあとから聞き返せば腹を抱えて笑うだろう情けない声が自分の口から飛び出した。訳知り顔の兄貴は彼女の顔を見て、その後オレの顔を見てニヤリと笑う。やられた、そう思った。
「ヨメの口から聞いた方がイイと思ったンだよ。イイ兄貴を持てて幸せだろ?竜胆」
兄貴はそう言って、すぐに病室を後にする。きっと待合で時間を潰しているのだ。生憎とまた数時間後には兄貴との仕事の予定がある。畜生、また兄貴がいいとこどりだよ、と思っていると彼女の白く細い指がオレの手を握って引き寄せた。
ぽん、と軽く音を立ててオレの手が着地したのは彼女の下腹部。ほんのりと暖かいそこから彼女の鼓動が伝わってきた。
「あと、7ヶ月くらいで生まれるんだって」
「……こんな、ペタンコの腹から?」
「ふふ、すぐ大きくなるらしいよ」
「重てェのかな……」
「どうだろう。重たかったら、竜胆が持ってくれる?」
持つよ、当たり前じゃん。そう答えたかったのにオレの口からは震える熱い息ばかりが漏れる。泣かないで、竜胆。そう言ってオレの頭を撫で、頬を拭うように手を動かす彼女。
泣いてねェよ。さすがに無理があるだろうが、雑に腕で拭うとそっか、そうだよね、と優しい声で頷く。女っていうのは、スゲェ生き物だ。もう母親の顔をして笑っているのだから。
「オレ、父親になンの?」
「うん、パパになってね」
まだペタンコ、ペラペラの腹を撫でる。ここにいるであろう命の塊は、オレの仕事のせいで後暗い人生を送ってしまうかもしれない、思うことは沢山あるし、やらなければならないことだって山積みだ。本来なら彼女や腹の中の子どものために、離れなければならない。そんなことも、分かっているのに。
オレの手は彼女の腹を慈しむように撫でることをやめられず、瞳からはもう誤魔化しきれないほどの涙が溢れて止まらない。
「ふふ、パパはもうキミのことが大好きだって、よかったねぇ」
とくんとくん、といつもより高い体温をした彼女の鼓動を感じているとこれを手放すことなんか出来やしないと心の奥底でオレが訴える。ああ、そうか、これが、幸せなんだと、そう思った。
ありがとう。意識せずオレの口から飛び出した言葉に彼女は嬉しそうに笑って、どういたしまして、とオレの額に口付けを落とした。
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