別れの挨拶さえ聞こえない
竜胆は優しかった。女とこんなふうに体を合わせるのは初めてだと言っていたけれど、私の数少ない経験では圧倒的に1位の座に君臨するほどに気遣いされたと思う。痛くないか、怖くないか、その筋肉質な体を私に乗せれば重たくないかと。好みが分かれるであろうその気遣いは、私からしてみれば大切にされている、と実感を持てるようなものだった。
竜胆は行為の最中に、自分のことも竜胆と呼んで欲しいと何度も私に囁いた。兄貴みたいに、と。どうやら彼の中で、私は蘭に想いを寄せる女の1人のようだった。
勝手に当て馬にならないでよ、と言いたかったけれど私を抱き竦めて離さない腕の中が心地よくて私は言葉を飲み込む。そしていつの間にか眠った竜胆の腕から抜け出した。
蘭はきっとあの日に起こったことを知っているだろう。片付けなければ、と向かったリビングのテーブルから2人分の皿もコーヒーカップも無くなっていて、流しに雑に置いてあった。端の方に置かれていた私の荷物はソファの上へと移動されていて、竜胆、と書かれたメモもきちんと仕舞われている。
思わず蘭の部屋の扉を見つめたけれど、そこから蘭はいくら待っても出てこない。もしかすると、弟に手を出したとんでもないオンナだと思われたかもな、と自嘲気味に笑って私は灰谷家を後にした。もしかするともう二度と、来ないかもしれない。そう思いながら。
それでも蘭は相変わらずふらりと現れては、いつものカフェで私と話をした。会話の内容は変わらず、今のチームは六波羅ナントカ、だとか、そんなことばかりで、竜胆のリの字も出ない。それは昔から変わらないことで、当たり前だったのに、私は蘭の口からいつ竜胆の話が出るのか気が気ではなかった。
例えば竜胆に彼女が出来た、とか。竜胆がオマエの顔も見たくねェって言ってる、とか。ほぼヤり逃げと同じ形で、あれ以来会っていない。竜胆の言葉を信じるなら、私は彼の初めての経験を奪ってしまったのだ。
その考えを振り切って私は自分のカフェラテを飲み干す勢いで啜る。そんな私を見て蘭は呆れたように呟いた。
オマエ、そんなに竜胆のこと気になンのか。ドキリとした。蘭は確信めいたことをはっきりと言うので、時々その見透かしたような目が恐い。
「な、んのコト……?」
「竜胆だよ。リ、ン、ド、ウ。オレの弟」
「し、知ってるけど。なんで、わたしと、竜胆、くんが」
「ハァ?だってオマエ、竜胆とヤ」
私は慌てて立ち上がって蘭の口を抑える。もごもごと手のひらで蠢く蘭の唇の感触にゾワゾワしてすぐに手を離した。そしてそれをすぐおしぼりで拭うと、蘭はオイ、ふざけんな、と怒る。オレは別に変なコトは言ってねェからな、と蘭はモンブランにフォークを突き刺しながら続けた。そしていつもなら私に奪われて無くなっているはずの栗を見つめて目を細める。
私は蘭がその形良い唇を動かして、次は何を紡ぐのか、その行方ばかり気にしていた。
竜胆は、イイヤツだけどオマエには合わないと思う。絶望の音が聞こえた。それは間違いなく蘭の声で、蘭の言葉ではっきりと私の鼓膜の中に響く。イイヤツ、合わない。
「そ、そうだよね。私、変なオンナだし、ほら、シチューも……まともに、作れ、なくて……ご、ごめ」
「……そういうコトじゃ、ねェよ」
蘭はもう一度、そういうことじゃない、と言った。それから私も蘭も口は開かず、ただ、過ぎていく時間を共に過ごす。あれだけ蘭しか知らずに、蘭とだけ友達で、蘭だけだった灰谷は、私の頭の中で竜胆がど真ん中に腰掛けて離れない。たった一度、本当にたった一度、抱かれただけなのに。自分はそんなに単純な女だったのか、と諦観する。蘭のモンブランは、あと一口分ほどしか残っていなかった。
蘭は、またチームが変わるらしい。次のチームの名前は教えてくれなかった。神妙な面持ちで端的な言葉だけを使って話す蘭が珍しくって、蘭、また負けたのと茶化しても、蘭は何も言わない。そうだな、と笑うだけだった。
様子の可笑しい蘭に、どうしたの、そう聞こうとした口が止まる。蘭が私の指先を握ったからだ。ここにあることを確かめるように握る手は温かくて、私の指の冷たさが際立つ。
蘭は私の指を見て笑いながら、冷てェ手だなァと呟いた。手が冷たいのは心が温かいからなんだよ、と私が言うと、そうだな、だからオレの手はいっつも温かいんだ、と本当に様子が可笑しいほどに素直な返事が返ってくる。
「オマエは最初っからヘンなオンナで、オレはソレが結構気に入ってた」
「アハハ、ありがとう。私も蘭の変わってるところ、すごく好きだよ。あ、友達としてね」
「オレのことダチだって言うアホはオマエだけだなァ」
蘭が最初を語ることから、なんとなく、私は蘭に会えるのはこれが最後なんだと思った。蘭は垂れた眉をさらに下げて情けない顔で笑う。
蘭、私たちはこれからもダチだよ。私がそう言うと蘭は私の頭にゆっくりと手を置いた。
竜胆は、オマエのことが好きなんだ、竜胆には俺が言ったって言うなよ。蘭は私の耳元で内緒話をするように囁いた。この兄弟、本当によく似てるなあと思いながら私は笑う。
竜胆も蘭には内緒の話、私にしたよ。そう答えると蘭もようやく笑った。それから、蘭は勿論、竜胆も私の前には現れなかった。
灰谷兄弟、彼らが私の人生から消えてもう何年かの月日が経った。私はあれから普通に就活をして、普通の企業に就職をして、普通に日々を過ごしている。だけれど親友、なんて呼べる人は一人もいない。数合わせで呼ばれる合コンにヘラヘラ笑いながら参加しても、よくある作戦会議からは省かれる。女って、面倒だなあとこの頃よく思う。もしも蘭にこれを話せば、きっと蘭はお腹を抱えて笑う筈だ。この手の話題が大好きな男だった。
今日もまた人数合わせで呼ばれた合コン。空気を読んで余所行きの笑顔を張りつけ、誘われるがままに御手洗に付き添う。彼女達は二重人格なのではと思うほど、男の前とそれ以外とで態度を一変させた。いないもののように扱われる中、彼女たちがよれた目元のメイクを直したり、リップを塗り直ししたり、メイクを直しながら誰がイイだの、私はこの人がイイだのと器用に話すのをただ見つめる。念の為、彼女たちが囁きあった人の名前を覚えるため、何度も繰り返し、どんな顔だったかを思い浮かべた。興味が湧かない人の名前と顔を一致させるのは、とても難しい。それでも仕方ない。これで邪魔なんてしてしまった日には何を言われるかたまったものではないからだ。
最後に、恐らくこの会の主催者であろう真ん中の子がパウダーのコンパクトを閉じるとそれを合図に彼女達は手洗いを後にしていく。私もそれに習って後ろに付き従った。こういう時、女のチームワークというのは目を見張るものがある。席に戻ると彼女達は各々目当ての男性の隣にそのしなやかな体を滑り込ませた。器用なものだ、感心しながら私は適当に余っていた席に腰かけて、オーダーしたジントニックが届くのを今か今かと待ち侘びる。
こういう時はありがたく男性陣が明らかに多く会費を払ってくれるのだ。好きな物を飲み食いしなければ割に合わない。
そんな私に、隣にいた男性がお幾つですか、となんとまぁ女性に対してとてつもなく失礼な質問を不躾にぶつけてくる。でもこの人に対して何の感情も抱いていないし、マイナスとマイナスが合わさっても特に何も変わらない。そう思いなおして、自分の年齢の数字だけを答える私に、男性は笑った。
「じゃあオレの1個上だ。お姉さんですね。オレ、歳上の人が好きなんです」
「へぇ」
呆れた。人の良さそうに笑う男に愛想笑いを返すけれど、私の心は荒みに荒む。
1個上なんて誤差の範疇にも程がある。それを歳上と呼ぶなんて余程精神年齢が低いらしい。竜胆とは似ても似つかない。私の知っている1個下の男は、言葉なんかで誤魔化さないで、行動で私と対等になろうとした。
当時苦手で、さらにきちんと煮えていなかった人参も残さずに食べて、茗荷だって食べようとして、もうきっと今はそのどれもが彼の口に入っても、動揺なんてしないだろうけど、私はそんな彼の素直さが大好きだった。本当はお酒を混ぜたりする方が得意だろうに、コーヒーをしがない私のために淹れるようなそんな彼が、不器用で大好きだった。いや、未練がましく、まだ好きなのだ。
男はだんまりを決め込む私に、体を寄せ、耳元で囁く。
「どんな人がタイプですか?オレ、近いですか?」
「私の、タイプ、は」
竜胆。そう答えようとした。だけど言えなかった。質のいい生地感のスーツを纏った太い腕が私のその男性の間に入り込んだからだ。その腕は、男性の肩を掴んで私から距離を無理矢理にとらせる。ふわり、と香る匂いは私の知らない大人の男性の匂いだった。
誰だろう、そう思って見上げた。その瞬間私の頭の中はぐちゃぐちゃになった。自分がだいぶ酔っているのか、でもお酒まだ1杯しか飲んでない、そんなわけない、どうして、と。頭の中はめちゃくちゃなのに、体は正直なようで、私の口は勝手にその名前を呟いた。
竜胆。意図せず私は質問の答えを、その口から出すことが出来たけれど、きっともうその質問をした男はこの答えを聞いていないし、この場の誰もが私の言葉なんて聞いていない。ただ一人を除いて。
「オウ、久しぶり」
「竜胆?……なんで?」
「なんでは、コッチのセリフだよ。オマエ、アレから家来ないし……どうせ兄貴がそうやってたんだろうケド」
「蘭……?」
竜胆は文句を言っている男性の胸ぐらを掴んで、なンだよ、と昔聞いた話に違わないガラの悪さを披露している。数合わせで私を呼び付けた女性たちは我先にと端によって甲高い悲鳴を上げ、警察を呼ぼうとするので慌てて竜胆の腕を引っ張った。
大丈夫、大丈夫だから。そう自分で言ったけど正直何が大丈夫なのか私には全く分からなかった。すると竜胆は何事かと見に来た店員を呼び付けて、その耳元で何かを囁く。その言葉を聞いたあと深く深く何度も頭を下げた店員は、竜胆から歳上好きの男性を預かるとすぐに裏へと向かって行った。
何を言ったの、あの人、どうするの、オマエは知らなくていいよ、でも、そんな問答を繰り返す間に竜胆はスーツのジャケットを脱いで私の肩に掛ける。
「積もる話は、場所変えよーぜ。な?」
オマエのカバンは、ケータイは、あと忘れモン、はあったら後から届けさせるワ。竜胆はさっさと勝手に私の身支度を済ませる。そして最後に私の冷えた手をとると、相変わらず冷てェのな、と無邪気な顔で笑った。あの時から随分と伸びた髪は海洋生物を彷彿とさせるような特徴的なウルフカットで、彼の端正な顔立ちによく似合っている。変わったけれど、変わっていない竜胆に私はほんの少しだけ安心した。
場所を移す、と言った竜胆の呼び付けた黒塗りの車は繁華街から少し離れたこじんまりとした喫茶店に止まった。ここは、と聞く私に竜胆は人差し指を立てて静かに、という動作をする。
オマエと来るためにって、用意しといた店だから。そう耳元で囁かれた。竜胆の吐息が掛かった耳がそこから熱を帯びて顔に広がる感覚に、私は耳を手で抑える。そんな私に竜胆は喉を鳴らして笑った。
外からは決して見えない奥のボックス席に通された私たちは向き合って座る。竜胆の言葉を真実だと私に信じさせるように、まだ21時前だと言うのに客席は空っぽだった。まるで私たちがこの時間に現れると分かっていたように、真っ白のコーヒーカップが2つ、テーブルに置かれるとそれを合図にしたように竜胆が話し始める。
まるで初めて会ったあの日のように、無邪気な顔で話す竜胆。兄貴には、内緒な。それはこの兄弟が私に絶対に使う言葉で、私は懐かしくてじんわりと目に涙が溢れる。ああ、生きているんだ。よかった。
竜胆は私が懐古に胸を撫で下ろしている間もペラペラと自分のことを話す。蘭のお喋り好きに、竜胆はよく似ているらしい。最近あったこと、蘭は相変わらず寝起きが悪いこと、最近モンブランを1個食べれなくなったこと、面白おかしく笑いながら話すと、竜胆は一口コーヒーを飲んだ。
オレ、今兄貴と同じ仕事しててさ、オマエ、梵天って聞いたことある?私はその竜胆の問いを答えるのに、息が詰まった。そしてゴクリと唾を飲み込む。梵天。聞いたこと、と言うよりも小耳に挟んだ程度で、私はそれを知っていた。
都市伝説のようなもの。最近はよくニュースでもその名前を聞くようになった。とてつもない、犯罪組織らしいということしか知らない。
私が大学の時からその名前は、友人伝いに聞いていた。
私の彼氏の先輩が梵天のメンバーと友達で、とかそんな程度だ。若い世代の中での、それこそ昔の蘭が入っていた天竺、だとか、六波羅ナントカ、とかそんなものだと、思っていた。だけど竜胆の口からその名前が出ることに、何故か私は背筋が冷える。
「ぼ、梵天……?」
「知らねェか。まァ仕方ねェよ。表向きは無いようなモンだし」
「えっと、竜胆は、蘭と、その、梵天?にいるの?」
竜胆は私の問いかけにニヤリと笑った。それは肯定を示す笑みだった。竜胆はその後自分がその梵天でやっていることを事細かく、私に話し続ける。今まで蘭から聞いていた喧嘩をしただとか、死人が出ただとか、そんなことは全て子どもの遊びだと思えるようなそんな思わず耳を塞ぎたくなるような内容に、私の指先は震えた。
するとその指先に目ざとく気付いた竜胆は、寒いか、と聞いて私の手を握る。竜胆の手は温かいのに、全くその温もりで指は温まらない。
兄貴は、オレにオマエを探すなって言ってたんだ、だから探さなかった、でも今日、たまたま、オマエを見つけた。竜胆は愛を語るように恍惚とした目で私を見つめ、そう話す。
「もうコレは、運命だろ。運命じゃなかったらなに。オレ初めて会ったあの日からずーっと、オマエのことが好き。大好き。愛してる」
「り、竜胆……私は」
「兄ちゃんは、オマエのこと離してやれって、普通に幸せにしてやれって、言うンだけど、オレはムリ。耐えられない」
選んで、オレか、死ぬか、今ここで。
竜胆はハッキリとそう言った。私の手は、ずっと冷たいままだった。