06

 鬱々とした気分だった。それもこれも、今朝方読んだ新聞記事のせいだろう。日刊預言者新聞の一面を飾った見出しはエミリにとってある種気が滅入る内容だった。
 『魔法省、遂にブラックへの吸魂鬼の接吻を許可』。そんな言葉と共にシリウスの写真が並ぶ。そんな記事はエミリは見たくなかったし、何より見せたくなかったと思ったのだ。



 シリウスが家族を捨てて出て行ったのは学生時代のことだった。グリフィンドール寮に組み分けされたシリウスは、代々スリザリンの名家としてその名を轟かせていたブラック家を毛嫌いし、幾度となく家族とぶつかった。そうしてついには家を出て、残された家族を支えるためレギュラスが苦心していたのをエミリはよく覚えている。嘆き悲しむ母親を支え、一家の跡取りとして社交界に顔を出し、長男を失った父親の期待を一身に背負う。その仕事は、本来であれば学生のうちは猶予されたはずの役割であった。
 そうして家を飛び出したはずなのに、レギュラスが姿を消してまもなくシリウスは殺人の罪で捕らえられた。親友をヴォルデモートに売り、それを糾弾した友を殺害する。多くの無関係な命までをも奪ったその犯行は酷いものだった。
 なぜそんなことができたのだろう。エミリはただただそう思う。七年間を共にしたはずの友人を死に至らしめたという事実はとても許すことはできなかった。そして、シリウスがヴォルデモートに加担してそんな罪を犯したというのなら、家族を守ろうとして死を選んだレギュラスの覚悟はいったい何だったのだろうか。



 そんなことを考えながら、エミリは魔法史の教室に繋がる廊下を歩いていた。ビンズ先生が持つ、とある歴史書を借りるためだ。古代ルーン文字学にも関わりのあるその歴史書を所持する魔法使いは多くはない。ホグワーツの図書館にも所蔵されていないその希少な本をビンズ先生が持っていることを何とか突き止めて、やっとのことで借り受ける許可を得たのが昨日のことだった。魔法史の教室のどこかに仕舞い込んだというそれを、探して借りるというのが今日のエミリの目的だ。そうして魔法史の教室に辿り着き、ドアノブに手をかけたところで、エミリは教室から何か話し声が聞こえることに気がついた。

「当然の報いだ」
「そう思うかい? それを当然の報いと言える人間が本当にいると思うかい?」
「はい。そんな……そんな場合もあると思います……」

 ハリーとリーマスの声だ。エミリはふとリーマスがクリスマス休暇のころ言っていたことを思い出した。守護霊の呪文をハリーに教えるということを。
 邪魔はしたくない。そう思ってエミリが踵を返そうとしたところで古びた音を立てて扉が開く。あっと思ったころにはもう遅かった。

「……ミヨシ先生?」
「ごめんね、盗み聞きするつもりはなかったの」

 きょとんとした顔でこちらを見るハリーにエミリがそう弁解をするとリーマスが重々しい空気を変えるかのように明るい声を出した。

「おやエミリ、どうしたんだい?」
「ビンズ先生に借りる本を探しに来たのよ。まさかここにいるとは思わなくって」
「なるほど。入って探すといい」

 リーマスがそう告げると、ハリーはぺこりと会釈をして教室を後にした。その後ろ姿を見送ってから、エミリはその部屋に足を踏み入れる。

「何だか悪いことをしちゃったわね」
「いや、話はもう終わっていたから構わないさ」

 てきぱきと部屋を片付けながらリーマスはそう言った。なぜだかその表情は険しいもので、いったい何の話をしていたのか疑問に思う。けれど問いかけることができなくて、エミリは本棚に並んだ蔵書を調べ始めた。
 時間にしてどれくらいが経ったのだろう。エミリが目当ての書籍を見つけ出したのとほぼ同じタイミングで、片付け終えたリーマスがスーツケースをぱちんと閉めた。

「さっきの話、どこから聞いていたんだい?」
「え? うーん、誰かに対して当然の報いだとかなんとか話してたところからかしら」

 エミリがそう答えると、リーマスの表情が少しだけ和らいだ。部屋にはガタガタというスーツケースの揺れる音だけが響いている。そういえばボガートを守護霊の呪文の特訓に使うと言っていたっけ。そんなことを思い出す。そのうちに、その目に悲しげな色を浮かべて、リーマスはこう続けた。

「実はね、さっきはシリウスの話をしていたんだ。シリウスに関する、今朝の記事の話を」
「……吸魂鬼の接吻についてね」
「そう。自分でも複雑だよ。まさかあの記事を見て……シリウスを哀れむ気持ちになるなんて」

 自嘲するような笑みを浮かべて、リーマスはそう言った。リーマスの気持ちがエミリには何となく理解できるような気がした。友人を売ったシリウスのことを彼は決して許せはしないだろう。この十二年もの間、恨んで憤って、何とか忘れようとして、そうしてやっと生きてきたのに今度はその相手が脱獄し、友人の忘れ形見を狙っているのだと言う。遣る瀬無い。それはエミリも同じ気持ちだ。しかし、リーマスにとってはそのシリウスも、確かにかつての友人だったのだ。

「エミリ、きみはどう思う?」

 吸魂鬼の接吻を受けるということは、ただの死とはまったく違う。魂を奪われて肉体だけが残り、そうして吸魂鬼と同じように幸福を餌に貪り食う。そんな存在になるということだ。
 魔法省の決定は、ある意味で正しいとエミリは思う。アズカバンからの脱獄という前代未聞の不祥事を起こしてしまったからには、その失敗を挽回するような策が必要なのだ。しかしだからと言って、エミリ個人はその決定には反対だった。

「……私は反対よ。非人道的だし、いくら悪人でもそれをしてしまえばこちらも同じ悪になってしまう。そして何より、私はシリウスにあんなことをした理由を聞きたいから」

 家族を捨ててまで共に立つことを選んだはずの友人を、どうして捨てることができたのか。それを聞かなければ、目の前に立つこの友人が、そして彼の弟があまりにも報われないと思ったのだ。







 期末試験の最終日だった。エミリは既に試験を終えた学年の回答用紙に向き合いながら、採点作業に入っていた。今年から古代ルーン文字学を学び始めた三年生の回答は、平均点も非常に高く、教える側のエミリとしても満足のいく結果となっていた。もっとも、平均点をあげているのは秀才と名高いハーマイオニー・グレンジャーの満点超えの回答があってこそだったが。
 三年生の採点を終え、一息吐こうかと伸びをしながらふと窓の外を見ると、赤々とした夕日が沈みかけている。禁じられた森に黒々とした影を落とし、夜の闇を映し始めた空はほんの少し、エミリの気持ちを暗くした。今日の空には満月が輝くだろう。

「なんだ、お前だけか」

 がちゃりとドアノブが回り、職員室のドアが開くと同時にそんな声がエミリの耳に届く。ふいと振り返ってみればいつもの真っ黒なローブに身を包み、かすかに煙の上るゴブレットを持ったセブルス・スネイプがそこにいた。

「あら、誰かお探し?」
「見ての通り。ルーピンは自室のようだな」
「そうねえ。リーマスのところに行くのなら私もご一緒しようかしら」

 ゴブレットから漂う独特のにおいはエミリもよく知っている。トリカブト系の複雑なその薬を調合できる魔法使いは限られていて、エミリの知るなかでは目の前に立つセブルスと従兄弟のマクシミリアンがその数少ない魔法使いのうちの一人だった。
 そのまま踵を返して部屋を出ようとするセブルスに声をかけ、エミリは採点済みの回答用紙を仕舞い込んで立ち上がった。そういえば、ここしばらくリーマス・ルーピンの顔を見ていない。今夜が満月であるのなら、一言たわいのない会話でもしておこう。そんな軽い気持ちだった。


 ぼんやりと火が揺らめき、暖かい光がホグワーツの仄暗い廊下を照らしている。その光景はエミリたちが学生生活を送っていたころから変わることはない。程よい距離感で並び、たわいもない話をしながらエミリとセブルスは廊下を共に歩いていた。こうして並んで歩くなどということは学生時代では考えられなかったことだ。そんなことを考えるうちにリーマスの自室にたどり着く。

「ルーピン、入るぞ」

 なおざりなノックをしてセブルスはあっという間に扉を開けてしまった。もしも中で何か取り込んでいたらどうするつもりなのかしら。そんなことを考えながらエミリも返事がしない部屋を覗き込むと、慌ただしくどこかへ行ってしまったのだろうか、誰もいない部屋には何やら羊皮紙のようなものが転がっている。

「何かしら?」

 そう言って拾い上げたそれは、ホグワーツの詳細な地図のようだった。よく出来ているとエミリは思う。城じゅうの細かな道をひとつひとつ描いたそれを描くのはとても骨が折れただろう。そんなことを思いながら地図を見ていると、ある一点に目が止まった。

「これを見ろ」

 おそらく同じタイミングで、セブルスもそれを目にしたのだろう。険しい表情でセブルスも地図を指差した。
 地図上の小さな点が、細い通路を走っていき、そして校外へと姿を消す。そしてその点には今しがた探していたリーマスの名前が書かれていた。
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