05

 そうして幾日かが過ぎ、エミリは雪のちらつくロンドンを歩いていた。雪はうっすらと降り積もり、地面の色をほのかに白く光らせている。クリスマス前日のロンドンの街はどこかわくわくとした雰囲気が漂っていて、あまりロンドンに馴染みのないエミリにはすべてが新鮮に思えた。生まれ育ったのはそもそもイギリスとは縁遠い東洋の島国で、学生時代を謳歌したホグワーツもロンドンから遠く離れたスコットランドにある。思い返してみれば、イギリスで暮らしていた学生時代でさえエミリがロンドンに訪れたのは新学期が始まる前に学用品を揃えに来たときくらいだった。

 ああ一度だけ。
 そんな言葉が頭を過ってエミリは足を止める。そういえば一度だけ、ダイアゴン横丁に行くでもなく、休暇中に再会した友人たちとマグルの街をぶらぶらひやかすでもなく、このロンドンで数日間を過ごしたことがあることをふと思い出したのだ。さらに言えば、その間滞在していたのもこれから向かう屋敷だった。

「そんなところで立ち止まって、いったいどうしたの?」

 ふいに笑いを含んだ口調でそう話しかけられたエミリは、はっとする。聞き慣れた声色に、ちらりと先ほど思い返していたかつての思い出がばれてしまっているような心地がして、何となく気まずい思いをしながらエミリは声の方を振り向いた。

「レギュラス……。いえ、何でもないわ」
「そう? まあいいや。おかえり、エミリ」

 そう言って隣に並んだのは、エミリが目指していた屋敷の主人であるレギュラス・ブラックだった。漆黒のトレンチコートが彼のスタイルの良さを引き立たせている。その裾が風に翻るたび、タータンチェックの裏地がちらりと覗くその光景が、何とも言えず似合っていた。

「ただいま。元気にしていた?」

 レギュラスにそう答えると、エミリはそっと彼の濡れ羽色の髪に触れる。そっと手を動かしてその髪に薄く積もった雪を掃うとレギュラスはくすぐったそうに笑顔をこぼした。

「もちろん。エミリのほうこそ変わりはないだろうね?」
「ええ。まあ私がどうこうと言うより、ホグワーツは大変だったけれど」
「その話は何となく聞いているよ」

 そんな言葉を交わしながら、ふたりはこれから向かう場所――グリモールド・プレイス十二番地へと足を進める。たわいもない会話のなかで、ふとエミリは先ほど考えていたことを思い出した。

「さっき考えていたんだけど」
「どうしたんだい?」
「そう言えば昔、あなたの家に何日かお邪魔させてもらったことがあるなあって」

 彼の家族のことを話すとき、エミリはいつも特に理由はないものの何とは無しに気構えてしまう。レギュラスがもうすでに乗り越えた葛藤であるとは知っていても、それに触れるとあの洞窟での出来事に思いを馳せてしまうのだ。
 だからこそ先ほどレギュラスに声をかけられたとき、言い様のない居心地の悪さを感じたのかもしれない。そんなことを考えていると、エミリのその考えを振り払うかのようにレギュラスは笑みを浮かべてこう言った。

「懐かしいな。確か僕が五年生に上がる夏だ。うちでパーティをやったときのことだよね?」
「そうそう。あのときはまさか私が招待されるとは思っていなかったから驚いたわ。それもあなたのお母様から直々に」
「なんだかんだ言っても母はきみのことを認めていたんだよ」
「……ありがたいことだわ、本当に」

 何となくレギュラスと目を合わせられずにエミリは微笑みながら何とかそう呟いた。きっとレギュラスのその優しげな面差しが、いつか見た彼の母親のふとした瞬間に見せる表情によく似ていたからだろう。
 そうこうしているうちに、ふたりは目的の場所へと辿り着いた。マグルの地図には存在しないグリモールド・プレイス十二番地である。その玄関ポーチに足を踏み入れ、レギュラスがドアノブを回す。「お先にどうぞ」という気取った声とともにエミリの視界には暖かな明かりの灯った廊下が広がっていた。

「おかえりなさいませ、坊ちゃん! それにエミリ様もよくぞお越しくださいました」
「ただいま、クリーチャー」
「久しぶりね」

 しわがれ声に歓喜の色を含ませてふたりを出迎えたハウスエルフのクリーチャーにエミリもにっこりと微笑みながら言葉を返す。主人の帰宅がやはり嬉しいのだろう。クリーチャーは嬉々とした表情を浮かべて二人を広間へと誘った。

「お食事の準備は出来ております! お二人が手を洗ったらすぐにでも食事に致しましょう」

 張り切ったようにそう告げると、クリーチャーはいそいそと二人のコートを預かって広間を出て行った。
 そのようすにエミリとレギュラスは思わず顔を見合わせて笑みを浮かべる。

「どうやらご主人様の帰宅が嬉しいようね?」
「さあ? 僕にはきみの帰りをを待っていたように思えるけれど」

 僕は毎日顔を合わせているしね、と呟いて、レギュラスは椅子を引くとエミリに座るよう促した。レギュラスのエスコートに礼を言いつつ腰掛けると、ちょうどクリーチャーがワインのボトルを二本抱えて広間へと戻ってくる。

「レギュラス様、ワインはどちらになさいますか?」
「うーん、僕は白の気分かな。エミリもそれでいいかい?」
「ええ、もちろん」

 白ワインにございますね! と答えたクリーチャーに頼むよ、と声をかけてレギュラスも席に着く。それを見届けたクリーチャーはいそいそとボトルを開けてそれぞれのグラスにワインを注ぐと、ぱちん、と音を立てて指を鳴らして見せた。途端広々としたテーブルにはターキーやクリスマスプティング、スタッフィンやマッシュポテトなどといったクリスマスの定番料理が所狭しと並んでいた。

「それではクリスマスディナーに致しましょう!」

 クリーチャーのわくわくとしたその声色は、どこか薄暗い雰囲気のあるブラック邸をほのかに輝かせるかのようだった。







 仕事のある普段よりもゆっくりとした朝を迎えたクリスマス当日、レギュラスは白いシーツに包まれてぼんやりと目を覚ました。隣には未だ微睡んでいる恋人の姿があり、その豊かな髪がシーツに沈むさまは何度見ても飽きることはない。レギュラスにとってそんな朝は平和の象徴でもあった。
 思い返してみれば、こうして平和な暮らしを享受できるようになったのもここ数年のことだ。学生時代は寮の規律や家族の期待に雁字搦めになっていたし、死喰い人となってからは日々闇の帝王の命令をこなすことで精一杯だった。あのときエミリに命を救われて、ダンブルドアに生きることを許されて。そうしてやっと落ち着いて朝が迎えられるようになったことを、レギュラスはただひたすらにありがたく思っていた。

 今年の夏、そんな平穏な日々に冷や水を浴びせるかのように舞い込んできたひとつのニュースがある。レギュラスの兄であるシリウス・ブラックがアズカバンを脱獄したという報せだ。
 怖いもの知らずで聞き分けのない、しかしどこか人を惹きつける魅力を持つシリウスはいつだって家族の中心だった。両親は無鉄砲な気のある兄を咎めることもあったが、それ以上に聡明で明るい兄を誇りに思っていたし、兄とくらべて”良い子”と称されてきたレギュラスも自らに無いものをもつシリウスに憧れの気持ちを抱いていた。兄がホグワーツに入学を果たし、グリフィンドールに組み分けされるまでは。
 学生時代、一族の伝統を打ち破り、グリフィンドールに入寮した一つ歳上の兄は、限りなくまっすぐに所謂“正義”の道を進んでいたように思う。自らの信念を貫き通し、レギュラスの家族が疎んだマグル生まれにも平等に手を差し伸べる行為はレギュラスがどうあがいてもできるはずのないことだった。闇の魔術に魅せられた者たちには容赦のない態度をとる節もあったが、そんな素振りすらもシリウスを”正義”たらしめるものとして彩っていた。
 その歯車が狂いだしたのはいったいいつだったのだろうか。現在シリウス・ブラックは闇の帝王の第一のしもべとして指名手配されている。はたしていつの間にシリウスは死喰い人となったのか、誰にも気づかれぬよう分霊箱を奪い、そっと闇の帝王のもとを離れたレギュラスには知る由もない。けれど、そのことについて考えるとき、レギュラスの脳裏にはいつも同じ光景が浮かんでいた。それはシリウスがグリフィンドールに組み分けられた知らせを受けた父の悄然を湛えた表情や、彼が捨て台詞を吐いて家を飛び出した日のぽつんと佇む母のちいさな背中だ。

「それじゃああまりにも報われないじゃないか」

 ほとんど口の中で呟くように、レギュラスはその言葉をこぼした。あの日長男を失った両親は兄の真意を知ることなく、数年後帰らぬ人となった。闇の帝王を倒す礎を作るため消息を絶った自分が言えることではないことはよくわかっている。けれど、あれほど純血主義に反抗していた兄が闇の帝王に傅くということは、家を飛び出したこと以上に家族に対する裏切りにあたるように感じられた。

「……何か悩んでいるの?」

 ふと隣にあったぬくもりが小さく口を開く。見ればエミリが目を覚まし、心配そうにこちらをうかがっている。

「ううん、なんでもないよ」

 そう言うとレギュラスはエミリの柔らかな髪を撫でた。何となく安心した様子を見せた恋人は、少しだけ逡巡するような表情を見せたあと口元に笑みを浮かべて頷いた。

「そう、それならよかった。……そろそろ起きて準備しなくっちゃ。マックスたちが待っているわ」
「……うん、そうだね」

 そんな言葉を交わしながらふたりは起き上り、そっと笑いあう。きっと心の内は見透かされているだろうに、気づいていないふりをしてくれた彼女のその気遣いが、レギュラスはとてもありがたかった。
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