08

「やあピーター、しばらくだったね」

 一瞬の沈黙のあと、リーマスが荒い息を立てながら辺りに目を走らせている男にそう声をかけた。ピーター・ペティグリュー。十二年前、ジェームズ・ポッターとリリー・ポッターという二人の友人をヴォルデモートに売ったシリウス・ブラックを追い詰め、そして返り討ちにあって死んだはずの存在だ。そんな人間がここにいるなんて、にわかには信じがたい。そう考えながら、エミリはもっとも身近な人のことを思い出した。レギュラス・ブラック。彼も多くの人が死んだと思い込んでいるが、実際には名を変えて魔法界に復帰している。
 なぜペティグリューは十二年もの間身を隠していたのだろう。自分を殺そうとしたシリウスから逃れるため? いや、もしそうであるならば、シリウスがアズカバンに投獄されたあとは世間に姿を現すことができたはずだ。アズカバンを脱獄する者が出てくるなんて、これまで誰も思ってもみなかったのだから。

「リーマス、信じてくれ。あいつは私を殺そうとしたんだ……」
「少し話の整理がつくまでは誰も君を殺しはしない」
「整理? 私はこいつが戻ってくるとわかっていた!」

 そう焦ったように告げたペティグリューはきょろきょろと辺りを見渡し続けている。窓や扉に目を走らせる様はどこか滑稽だ。

「シリウスがアズカバンを脱獄するとわかっていたと言うのか? かつて脱獄した者は誰もいないのに?」
「こいつは私たちの誰もが知らない闇の力を持っている! おそらく『名前を言ってはいけないあの人』が何か術を教え込んだんだ!」
「ヴォルデモートが私に術を? どうした? 懐かしいご主人様の名前に怖気付いたか?」

 シリウスがあざけるようにそう告げると、ペティグリューは怖気づいた面持ちでもう一人のかつての親友のほうへと身を乗り出した。

「リーマス、君は信じないだろう?」
「はっきり言って、なぜ無実の者が十二年もネズミに身をやつして過ごしたいと思ったのかは理解に苦しむ」
「無実だ! でも怖かった! 死喰い人が私を追っているとすれば、それはスパイのシリウス・ブラックをアズカバン送りにしたからだ!」

 どんどんと支離滅裂になるペティグリューの言葉に、エミリは思わず眉間にしわを寄せた。その一方でシリウスも唸るような声を上げる。

「私がヴォルデモートのスパイ? 私がいつ自分より強く力のある者たちにへつらった? お前はいつも面倒を見てくれる親分にへつらうのが好きだった。かつてはそれが私とリーマス、それにジェームズだった」
「私がスパイだなんて、狂気の沙汰じゃない……」
「ジェームズとリリーは、私が勧めたからお前を『秘密の守人』にしたんだ。ヴォルデモートに彼らを売ったときは、さぞかし最高の瞬間だっただろうな」

 ペティグリューは青ざめた顔でぶつぶつと何かを口走っている。エミリには何を口にしているのかまったくわからなかったが、その視線が窓やドアをちらちらと窺っている姿はよく見えた。

「ルーピン先生。あの、聞いてもいいですか?」
「どうぞ、ハーマイオニー」

 ハーマイオニーのおずおずとした問いかけに、リーマスは丁寧にそう応えた。

「この人、ハリーと三年間同じ寝室にいたんです。『例のあの人』の手先なら、今までハリーを傷つけなかったのは、どうしてかしら?」
「その理由を教えてやろう。こいつは自分の得になることがなければ誰のためにも何もしないやつだ 。ダンブルドアの目と鼻の先で、力を失った魔法使いのために殺人などするか?」
「あの、ブラックさん――シリウス? もし闇の魔術を使っていないのならどうやってアズカバンから脱獄したのでしょう?」

 ハーマイオニーのその問いに、シリウスは肩を跳ねさせて驚いた。そうして答えを探るような様子でゆっくりと言葉を発した。

「どうやったのか、自分でもわからない。……自分が無実だという想いが私の正気を保ってくれた。耐え難くなったときには犬に変身した。吸魂鬼は目が見えない。だから連中は私が他の連中と同じく正気を失ったのだと考えた。そんなとき、私はあの写真にピーターを見つけた。まるで誰かが私の心に火をつけたようだった。ある晩、吸魂鬼が食べ物を運んできて独房の戸を開けた際に、私は犬になって連中の脇をすり抜けた……そのまま犬の姿で泳ぎ、北へと旅し、ホグワーツの校庭に入り込んだ……」

 エミリはシリウスのその弟によく似た瞳がギラリと輝くのを感じた。ふと学生時代の彼は意志の強い、明朗な少年だったことを思い出す。それは今のシリウスの姿からは考えられないものだった。

「信じてくれ、ハリー。私は決してジェームズやリリーを裏切ったことはない。裏切るくらいなら、私は死を選ぶだろう」

 そんなシリウスの眼差しを受けたハリーは、ほんの一瞬考えるような仕草を見せ、こくりと頷いた。慌てたペティグリューが縋るようにシリウスににじり寄る。

「シリウス、まさか君は……」

 そんなペティグリューに、シリウスは蹴飛ばすような動作をしてみせた。そのまま後ずさりしたペティグリューはリーマスに向き直り、祈るように縋り付く。しかし、リーマスの取りつく島もないような冷徹な表情を見た途端、今度はエミリのほうへと身を投げ出した。

「ミス・ミヨシ、あなたは信じないだろう? 聡明なあなたなら私が無実だとわかるはずだ!」

 縋るような面持ちでペティグリューはエミリにそう訴えた。もしも、エミリが何も知らないままだったなら。それならば、ペティグリューを庇うこともあったかもしれない。けれど、エミリはリリーの友人だ。友人を亡くすきっかけを作ったこの男を許せるはずはない。
 そして何より、思い浮かぶのはレギュラスの存在だ。ヴォルデモートから反旗を翻し、その結果家族にですら二度と会えなくなったその姿をずっと隣で見てきたのだ。

「私が一番遣る瀬無いのはね、あなたが我が身可愛さにヴォルデモートに屈して友人を売り、無実の人を犯人に仕立て上げたことだわ。……あなたには選択肢がたくさんあったはずなのに」

 極めて淡々とした口調でそう告げるエミリにペティグリューは説得を諦めたのか次はロンに詰め寄った。そうしてハーマイオニー、ハリーへと対象を変えるうちに、シリウスが堪忍袋の緒が切れた様子で大声を上げる。

「ハリーに話しかけるとはどういう神経だ? お前はジェームズとリリーが死ぬ一年も前からスパイだったんだ! 友を裏切るくらいなら死ぬべきだった。我々も君のためにそうしただろう」
「お前は気付くべきだったな。ヴォルデモートがお前を殺さなければ、私たちが殺すと」

 リーマスが冷たい声色でそう告げ、シリウスと肩を並べてペティグリューに杖を向けた。止めなければ。そう思ったが、エミリの身体は動かなかった。ペティグリューはエミリにとってもかつての友の敵だった。そんなことを考えているうちに人影がエミリの前を横切った。ハリーだ。

「やめて! 殺してはだめだ」
「ハリー、こいつのせいで君は両親を亡くしたんだぞ」
「わかってる。こいつを吸魂鬼に引き渡すんだ。アズカバンに相応しい者がいるとしたらこいつしかいない。僕の父さんは親友がこいつみたいなやつのために殺人者になるのを望まないはずだ」

 部屋では誰一人身動きをせず、静けさだけが充満していた。ハリーのその言葉にシリウスとリーマスが顔を見合わせ、そして杖を降ろす。鮮やかな月明かりが部屋を明るく照らしていた。
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