09

「とりあえず、先に行ってダンブルドアに話を通して来るわ」

 エミリはそう告げるとさっと身を翻し、足早に階段を駆け下りた。その姿をハリーはぼんやりと見つめている。今日は何とも言えない奇妙な一日だった。ハリーは疲れた気持ちでそう思う。両親の仇だと思っていた脱獄犯が実は無実の身で、殺されたはずの男が実は両親をヴォルデモートに売った犯人だったとはこれまで考えもしなかった。
 シリウス・ブラック。父親の親友で、ハリーの名付け親でもある。両親のいないハリーにとって、家族に等しい存在が現れるなんて予想だにしなかった。何か話したい気持ちを、何から話せば良いかと迷う心がせき止めていて、ハリーはただ言葉を探していた。
 前を歩くシリウスの表情を窺うと、エミリの去っていった先をじっとと見つめている。その姿を見て、ハリーはふと先ほどのスネイプの言葉を思い出した。

「この男を庇うとは意外だな、ミヨシ。君はこいつを誰より恨んでいると思ったが?」

 いったいふたりの過去に何があったのだろう。そんなことを考えるうちに、後ろを振り返ったシリウスと目が合って、考えていたことが思わず口から飛び出してしまった。

「ミヨシ先生と何かあったの?」
「エミリ・ミヨシと? いや、実のところほとんど話したことはないんだ」

 ハリーの方に振り向いて、シリウスは少しだけ驚いたような表情でそう答えた。まさかそんなことを聞かれるとは思って見なかったと言いたげな、そんな表情だ。しかしそれもすぐに消え去り、シリウスは伏し目がちにこう続ける。

「だがきっと、彼女は私を憎んでいるだろう」
「どうして?」

 ハリーのその問いかけに、シリウスは言葉を探すように逡巡して見せた。流れてしまった沈黙に、近くを歩いていたルーピンがこちらを振り向く。

「彼女はシリウスの弟と学生時代付き合っていたんだよ」
「“付き合っていた”ってことは、今はそうじゃないの?」

 きわめて穏やかにそう告げたルーピンの言葉に、ハリーは思わずそう問いかけた。シリウスは口をぎゅっと結んでおし黙る。しかし観念したかのようにため息をつくと、ハリーに向き直った。

「純血よ永遠なれ――。それが私の家の家訓だった。両親は狂信的な純血主義者で、ブラック家が事実上王族だと信じていた。……愚かなやつだ、軟弱にも両親の言うことを信じていたレギュラスはヴォルデモートの配下に加わった」
「嘘でしょう?」
「ハリー、私の家族は代々純血主義を掲げてきた。ヴォルデモートの考えには大賛成だったんだよ。あいつはヴォルデモートの下で、奴の命令をこなした。そしてある程度まで入り込んだ後で、自分のやっていることに恐れをなし逃げ出したんだ。……そして殺された。ヴォルデモートから逃げ出すことはできない。一生仕えるか、さもなくば死だ」
「ミヨシ先生も、ヴォルデモートの部下だったの?」

 ハリーのその問いにはルーピンが答えた。

「いやいや、彼女はそうではなかったよ。ただ、シリウスの弟は昔から親しくしていたんだ。当時、優秀な学生を集めて食事会なんかを開いていた教師がいてね。エミリもシリウスの弟もそこによく参加していたから、そこで親しくなったんじゃないかな」
「彼女があいつと付き合いだしたのが、私が家を飛び出した前後だった。当時彼女は弟がヴォルデモートの配下に居たことを知っていたのか――、それすらもわからない。けれど、彼女は思うところがあるだろうな。私はあいつにとって良い兄ではなかったから」

 そう告げるとシリウスは自嘲するような笑みを浮かべる。その表情を見て、ハリーはもうその話題を続けることはできなかった。





 深夜の校長室にはかちかちと時計の針が時を刻む音だけが響いている。
 どこか物憂げな表情で部屋の隅にある水盆を覗き込むダンブルドアを見ながら、エミリは今晩起きたことをつらつらと語った。叫びの屋敷での出来事にペティグリューの自白、シリウスの無実の事実。まるでこれまで真っ白だった世界を真っ黒に塗り替えられるかのような、そんな真実を聞きながら、ダンブルドアは何かをしきりに考え込んでいる。

「なるほど、きみの話が本当ならば、我々はどうやら思い違いをしていたようじゃ」
「そのようです。まさかこんなことが起こるなんて」

 そう告げてため息を隠そうともしないエミリに、ダンブルドアはどこからともなく取り出した熱い紅茶を勧めた。

「私はレギュラスが姿を消したあとで、シリウスが闇に堕ちたものだとそう思い込んでいました」
「わしもそうじゃよ。時にエミリ、もしそうであるならば早急にレギュラスに連絡を取らねばならんのう」
「ええ、やっておきます」

 そう答えたエミリにダンブルドアはふっと微笑むと、自身もゆらゆらと湯気の立つ紅茶に口をつけた。
 空には澄んだ月が丸く世界を照らしている。その月を見て、エミリはふう、とため息をついた。

「それで、私を引き止めている理由は何ですか?」

 ダンブルドアは紅茶を舌に転がしながら目を伏せる。そのさまはまるで何かを悔やむような、そんな表情だった。この人もこんな表情をすることがあるのか。そんなことを思いながらエミリはダンブルドアの返事を待った。

「ヴォルデモートを真に倒すには、一度はあやつの復活を見届けねばならん」

 ほんの僅か逡巡する様を見せたあと、ダンブルドアはそう答えた。ヴォルデモートが今もなお生き存えているのは、彼が作った分霊箱によるものだ。その一つはレギュラスがすり替え、ダンブルドアが破壊した。
 しかし、昨年の秘密の部屋事件を鑑みるに、ヴォルデモートは複数の分霊箱を作っていたことは火を見るよりも明らかだ。あれは日記に取り憑いた記憶などではない。おそらくはヴォルデモートに最初に分けた魂なのだろう。
 果たして、分霊箱は一体いくつあるのだろうか。魔法数字の中で一番強い力を持つとされるのは七だが、古代ルーン文字で“死と再生”を表す“ユル”は頭から数えて十三番目だ。そうやっていろんな可能性を考えていくと、ヴォルデモートがいったいどれだけの犠牲を払い、その魂を分けていったのか、まったく見当もつかなくなる。

「そのために一度はペティグリューを逃すと言うのですか?」
「そうじゃ。あやつはここを逃げ、かつての主人の元へ向かうじゃろう。そしてヴォルデモートの復活に手を貸してもらわねば。現状では分霊箱のありかを探る術はまったくないからの」
「シリウスはどうなるのです? それに、このままではリーマスも危険な状態です」
「無罪放免、というわけにはいかんじゃろうのう。リーマスについても同じことじゃ」

 その厳しい眼差しでそう告げたダンブルドアに、エミリはもう何も言わなかった。ダンブルドアの言う通り、ヴォルデモートの復活を見届けるのであれば、その配下の手助けが必要だ。しかもその死喰い人を通してこちらの思惑が知られるなんてことはあってはならない。そう考えると、ペティグリューには何も知らせず自分の意思で闇の帝王の復活に手を貸してもらう必要がある。

 沈黙は続く。エミリもダンブルドアも何も口に出しはしないが、言葉にならない遣る瀬無さを感じていた。
 そうしてしばらくすると、どたばたと校長室への螺旋階段を駆け上る音がする。駆け込んできたのはセブルス・スネイプだ。

「エミリ、西棟にいるフリットウィック先生と見張りを交代してもらえんかのう。……先生と少し話したいことがあるのじゃ」

 セブルスの報告を聞いたダンブルドアはそう言って意味深長な目線をエミリによこした。エミリははっきりと頷いて、校長室を後にする。
 夜のホグワーツの廊下は、物音ひとつしなかった。back top
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