01

 暗い森にささやかにある小径を、レギュラス・アークタルス・ブラックはただひたすらに歩いていた。誰にも見られないように厚手のローブとフードを深く被り、レギュラスはほとんど獣道に近いそれを迷うことなく突き進んでいく。
 まるで深い水の底にいるかのような、そんな錯覚さえ覚える夜だった。分厚い雲が空を覆い、月の光すら届かない。そんな道程を進みながら、レギュラスは物思いに耽っている。
 家族のこと、魔法界のこと、友人のこと、そして、これから会う人のこと。
 このやり方で、本当に彼らに害が及ぶことはないのだろうか。暗い森に同化するように、レギュラスの思考も沈んでいく。
 風一つ吹かぬ森である。聞こえるのはただレギュラスが足早に進む靴の音だけだった。そんな森の中で、ふとさわさわと木々の揺れる音が聞こえた。その音を聞いて、レギュラスはほとんど駆け出すような速さで足を進めていく。夜空を覆い隠していた木々がひらけ、空には星々が輝いている。ふと視線を上げれば、そこには寄棟屋根の邸宅があった。左右対称のつくりで悠然とそこに佇むその家は、どこか曲線的な印象だ。繊細な彫刻で装飾はまるで芸術作品のようであったが、なぜかちぐはぐな印象をレギュラスに与えた。
 レギュラスはほんの一瞬、ぎゅ、と目を瞑る。そうしてわずかな躊躇いを打ち捨てるかのように首を振るとその扉に手を伸ばした。
 扉を開けたとたん、その到着を待ちわびていたかのように、年老いたハウスエルフが彼を出迎えた。もうずっと前から、この屋敷を世話してきた妖精だ。

「これはこれはレギュラス様」
「やあ。突然すまない、エミリはいるかな」
「ご案内いたしましょう」

 彼女はどこからともなくランタンを取り出すと、薄暗い廊下を進んでいく。見慣れた屋敷ではあったが、どうしたことかレギュラスにはその光景が新鮮に思えた。きっともう、この邸宅に足を踏み入れることはない。そんな感傷からかもしれない、そう感じた。

「エミリ様、御客人でございます」
「あら、ありがとう」

 薄暗い廊下とは対照的に、部屋の中にはランプが焚かれ、暖炉には轟々と火が燃え盛っていた。その部屋の中で、ひとりの女が椅子に腰掛けて、何やら分厚い書物をめくっている。彼女──この家の主であるエミリ・ミヨシは恭しく礼をしたハウスエルフが退出するのを微笑んで見送ると、レギュラスに暖炉にいちばん近い椅子をすすめた。

「どうしたの? 今日来るとは思わなかったわ」
「おや、無礼でしたかね。でもどうしても今あなたに会っておきたかったんです」

 レギュラスはそう言葉を返しながらずっと被っていたフードを脱いだ。夜の森よりも深い漆黒の髪がレギュラスの目元に落ちる。エミリはその前髪を払いながら、そっと首を振った。

「いいえ、でも珍しいじゃない。あなたが連絡もなしにやってくるなんて」
「最近は少し忙しくて。でもちょっと暇ができたんですよ。だから恋人の顔でも見ておこうかと」
「あなたがそんなことを言うなんて明日は雨かしら?」

 茶化すような口調でエミリがそう言葉を紡ぐ。その口調に、笑顔に、レギュラスの緊張もほぐれるようだった。今日ここに来て良かった。そんなことを思う。本当は来るべきか迷っていたけれど────。そんな考えに蓋をして、レギュラスは口元に笑みを浮かべる。

「僕の本音ですよ。それも、正真正銘の」
「ふふ、どうもありがとう。ところでレギュラス、お茶くらい飲んでいく時間はある?」

 くすくすと笑いながらエミリは立ち上がって、いつのまにか部屋の片隅に現れたティーポットに手を伸ばした。おそらく先ほどのハウスエルフが淹れたものだろう。エミリがティーカップに紅茶を注ぐと、その華やかな香りが部屋いっぱいに広がり、どこかゆるやかな時間を感じさせた。

「はい。いただけますか?」

 レギュラスはエミリの差し出したカップを受け取りまずはひとくち、と口をつけた。ほのかな温かさと甘みが体中に広がる心地がする。思えば学生時代から何度もこの味に親しんできた。冬の寒い夜、エミリとふたり、隠れて紅茶飲みながら語らったことをふと思い出す。そんな時間は今となっては幻想にすぎないと、レギュラスはよく知っていた。

「……ねえ、エミリ。僕の話を聞いてくれる?」
「なあに、どうしたの」

 自らの分の紅茶を用意していたエミリの手を、後ろからレギュラスがつかんで止める。ほとんど抱きしめるような姿勢のまま、レギュラスはエミリの耳元に口を寄せた。彼女の声色が震えていたことに、レギュラスは気づかないふりをした。

「もちろん立場はわかっているつもりだし、時勢も理解している気でいます。でも譲れないものがあって、何を優先したいか考えてみると、見えてきたものがあるんです」

 うん、と声にならない返事を頷きで返してエミリはレギュラスの次の言葉を待った。ごめん、ごめんね。レギュラスはそう口に出してしまいそうになるのをぐっと堪え、言葉を続ける。

「いま考えると、僕は大きな思い違いをしていた気がする」
「……そんなこと、」

 僕は何を伝えたいのだろう。そう自問しながらレギュラスは腕の中にある恋人の姿を見つめた。さらさらとした指通りの良い髪が、レギュラスの頬を撫でる。この光景を、瞼に焼き付けて忘れないようにしよう。そうすれば、これからやることもすべてうまくいくような、そんな気がしていた。

「こんなご時勢に何を、と思われるかもしれない。でもね、エミリ、僕は恋人の家を訪れるだけでこんな風にコソコソ隠れなきゃいけない世の中はどうかと思うんです。みんながみんな、白昼堂々歩くごとができれば」
「……レグ、あなた何を」

 エミリの言葉を遮るように、レギュラスは彼女のくちびるに触れる。困ったように微笑むレギュラスとは対照的に、エミリはほとんど泣き出しそうな表情だった。

「ねえ、言わせてよ。お願いだから」
「それは聞けないな」

 愛おしいものを見るような、そんな感情をその灰色の瞳に浮かべるレギュラスを見て、エミリは思わず口を紡ぐ。どうすれば彼の心を変えられるのか、そんなことを考えていた。

「あなたと過ごしたホグワーツは夢のような時間でした」

 もう行きますね、少々急ぎますので。そう告げて、レギュラスはエミリの頭を軽く撫でる。そうしてまた、エミリが何も言えないうちに、彼はこの邸宅を後にした。

 1979年、某月某日。ブラック家の嫡男、レギュラス・ブラックが最後に人前に現れたとされる日のことである。back top
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